それはなんてことない、いつもの日常のはずだった。
「あち~」
掌をパタパタをはためかせながら、酷く気怠そうにエースはため息をついた。
季節は夏。木々は青く茂り、嫌味なほどに青い空が眩しい、そんな日のこと。
「暑いねぇ」
猫背でいかにも怠そうに歩くエースに、監督生は苦笑しながらも同意するように頷いた。
校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下は気温操作の魔法も効いておらず、照りつける陽射しによって凶悪な温度となってしまっていた。昼休み明けの授業の為に移動を共にしていた監督生とエースは、気が滅入るような暑さの中、とぼとぼと重たい足どりで教室への道を歩いていた。
デュースとグリムは暑さに耐え切れず、早々に渡り廊下を駆け抜けていってしまった。走る気力もないほど暑さに滅入っていたエースと監督生のみ、仲良くじりじりと日差しの照りつける廊下を、まるでまだ見ぬゴールを目指すかのようにのろのろと歩んでいた。
「エース、ほらもう少し」
「あぁ~、しんどい……」
渡り廊下の先に目指していたゴールを見出し、監督生は小走りでそこに近づく。そして、ほらほらとエースを手招く。
「もうちょっとだから、頑張って」
「あ~ぁ…………あ」
不意に、ぴたりとエースがその歩みを止める。暑さに茹っていた顔がみるみるうちに蒼白になっていくのを、監督生は不思議そうに見つめた。
「エース……って、うわっ!」
「ばぁ」
きょとん、と瞳を瞬かせて、エースの名前を呼んだ瞬間だった。
するりと首に巻きついた長い腕、耳元で響いた楽しげな笑い声、そして慣れ親しんでしまったコロンの香り。
きゅ、と首にまわった腕に込められた力に誘われるように、監督生は上を向いた。
「こんにちは、フロイド先輩」
「こんにちは~、小エビちゃん。挨拶できてえらいねぇ。飴あげちゃう」
「わぁい」
ぽとりと手の中に落ちてきた飴に監督生はキラキラと瞳を輝かせる。そんな彼女を後ろから抱きしめながら、フロイドは機嫌良く笑っていた。
「カニちゃんも挨拶は~?」
「こ、こんにちは、フロイド先輩」
「はい、こんにちは~」
顔を引き攣らせながら、エースもまた渡り廊下のゴールへと辿りつく。今日はいたく、フロイドの気分が良いらしい。ニコニコと邪気のかけらも感じない笑みは、それはそれは不気味なものである。
飴のひとつで嬉しそうになる監督生のその精神だけは理解できない、とエースは冷静に彼女を見つめた。
「先輩は次の授業なんですか?」
「オレはねぇ、飛行術。ジェイドとアズールも一緒なんだぁ」
なるほど、彼がご機嫌な理由はそれだったか。そう合点がいった表情をすると共に、監督生はフロイドの口からでた名前の片方に、ドキリと心臓を跳ねさせた。
(ジェイド先輩も、いるのかな)
ドクドクとはやまった鼓動と自然とにやけてしまう口元を必死に抑え込みながら、監督生は瞳を巡らせる。しかし残念なことに、フロイドにすっぽりと抱きしめられている所為で、正面に立つエース以外の存在は視界に入ってこなかった。
所謂、お付き合いというものをしているジェイドと監督生が、こうして校舎内で出会うことは珍しいことではない。同じ学び舎で生活しているのだ。いくら学年が違っていたとしても、日に一度はその姿を見かけるものだ。それでも、彼がすぐ近くにいると考えるだけで、監督生の心臓は宿主である彼女の意思を無視して暴れ出す。困ったことに、ジェイドと顔を合わせて言葉を交わしても、心臓は落ち着いてくれないのだ。いい加減、慣れないとなぁ、と心の中でぼやきながら、そろそろフロイドの拘束を解いてもらおうと彼女が口を開いた、その瞬間だった。
ク、クルル。
「え……?」
「は、っ…………!」
それは聞き慣れない、音だった。否、鳴き声と呼ぶべきか。だが、陸の獣のものではない。妙に神秘的で美しい音色。だが、それを聞いた瞬間、監督生は全身の肌が粟立ったのを感じた。
例えるなら、非常ベルが鳴り響いた時のような焦燥感だ。何故だか、逃げなければ、という本能に近い危機感が彼女の体を硬直させる。そして、それと同時に、彼女を抱きしめていたはずのフロイドの体が、まるで風に吹かれたススキのように横へと大きく倒れ込んだ。
「え……」
「……は、え?」
倒れ込みながら咄嗟に頭を庇ったフロイドもまた、監督生と同じように状況を把握していないようだった。それもそうだ。フロイドを蹴り飛ばしたのがただの雑魚だったなら、彼は反射的に飛びかかり、二度とそんなことしないような制裁を加えることも辞さない筈だった。
だが、彼を蹴り飛ばしたのが、血を分けた兄弟であったならば。
「……ジェ、イド……?」
フロイドは、茫然と自分を蹴り飛ばしたジェイドを見上げた。
「……ジェイド、先輩?」
クル、クルル。
鈴のような音だった。軽やかで、愛らしい、癒しの音。
それが紛れもなく、今、そこに立つジェイドの喉から発せられているものだと気づいた瞬間、監督生は嫌な汗が背筋を伝うのを感じた。
ジェイドは笑っていた。たった今、その足で兄弟を蹴り飛ばしたというのに。
いつもよりもずっと、眩い双眸を楽しげに細めて。いつもは隠されている鋭利な歯を、その薄い唇から覗かせながら、彼はその鳴き声と共にゆらりと体を揺らした。
「……な、んで」
思いもよらない事態に監督生は混乱しきっていた。聞き覚えのない音と、蹴り飛ばされたフロイド。彼からもらった飴は、フロイドが蹴り飛ばされた時の衝撃で無残にも床に転がってしまっていた。
よく手入れされた革靴が、紫色の包みにくるまれた飴を無情に踏みつける。乾いた音と共に包みの中にあったはずの膨らみがぺちゃんこになる。そのことに思わず泣きそうになって、ジェイドの行いを糾弾しようと彼女が顔を上げた、その瞬間だった。
「っ、フロイド!」
「アズール……っ、ゴー!」
「は、えっ……!?」
アズールの焦ったような声と共に、フロイドが予備動作なくジェイドへと飛びかかる。そして、フロイドの叫びにも似た声と共にアズールが、その右腕に監督生を抱えて走り出した。
「え、ちょ、アズール先輩!?」
突然、アズールに乱暴に抱えられ、あっという間にジェイドと引き離された監督生は必死に口を開こうとする。リーチ兄弟に比べれば非力な印象の強い彼だが、監督生が抱いていたイメージ以上に力持ちらしい。
抱えられた羞恥心と未だに受け入れきれていない先ほどの惨状に、監督生は混乱しながらも喚いた。
「さ、っきのは……なんなんですか!? 変な薬でも飲んだんですか!?」
「違います!」
「じゃあ、なんでジェイド先輩はあんなこと……!」
「っ、フロイドが、あなたに触れていたからでしょう!」
「はぁっ!?」
なんだそれは、と監督生は呆れてしまう。フロイドは監督生にくっつくことなど、日常茶飯事であった。気ままな彼にパーソナルスペースの概念など存在しない。しかもそれが、兄弟の選んだ相手ならなおさらのこと。ジェイドと監督生が恋人関係となってからも、フロイドの過剰にもみえるスキンシップは変わらず、ジェイドも又、それを微笑ましく見守っていた筈だ。
なのに、何を今更あんなことを。
ジェイドの先ほどの行いを思い出し、監督生は思わず泣きそうになった。彼はあんな残酷なことを、兄弟にできるひとだったのだろうか。折角、フロイドのもらった飴も砕かれ、なのにあんなにも楽しげに鳴いていて。監督生の知るジェイドは、そこにはいなかった。
「な、んでっ……!」
「っ…夏、だからですよ!」
廊下の角をスピードを緩めることなく走り抜け、階段を駆け上がり、とにかくジェイドと距離を離そうと足を動かしながら、アズールはそう言った。夏、夏がどうしたというのだ。アズールの言葉の意味をまったく理解できず、監督生は茫然とした。そんな彼女の気配を察してか、走る速度は緩めずにアズールは言葉を続けた。
「っ、いいですか、監督生さん! 夏は、多くの人魚にとってっ、繁殖期なんです……!」
「は、んしょく、き……?」
「えぇ! 番のいない雄は雌を求めて彷徨いはじめ、番のいる人魚は子孫を残そうと活発になるんですよ……!」
「そ、それって……!」
アズールの腕に抱えられながら、監督生は顔面を蒼白にさせる。
夏、繁殖期、番、子孫。
物騒極まりないそれらのフレーズから導き出された答えは。
「っ…学園生活中に妊娠沙汰は、不味すぎるんですよ……!」
アズールの一言に、全ての結論が収束する。
つまりフロイドを蹴り飛ばしたジェイドのあの行為は、番に触れる他の雄を追い払おうとした、本能的な行為だった。
「っ、いや、ダメでしょ……!?」
「わかったなら、とにかく逃げますよ!」
斯くして、地獄の鬼ごっこははじまった。
季節は、夏。
人魚が愛を交わしあう、そんな季節のはじまりだった。