――肆ノ像・箒星。
それは夜を裂く一条の幻影。太陽がなくとも尾を曳く、火花のような光の幻視。
たとえ目が効かなくても、耳で正確な狙いがつけられる程度には距離が近い。鬼の唸りが手応えを伝える。
その間に私の足は戦闘区域に到達していた。勢いは殺さない。その手間があまりにも惜しい。
鬼は二体。屋根の上と下。どちらを狙うべきかは明白だ。より重い殺意をまとうほう、地面を踏んで、今まさに天兄上と対峙する男鬼――
――目が、合った。
伍ノ像・蜃気楼。
私の身体は揺らぐ。きっとそのように見える。三年をかけて洗練した幻惑の脚運び。走ってきた速度はそのまま、落ちるように斬りかかる。左前から――鬼の死角から。
伍ノ像から続けて抜刀、壱ノ像・雷火。
「新手だなあ」
「チッ」
鎌だ。鬼は赤黒い鎌を持っていて、それであっさり日輪刀を防いだ。疾い。
「黎!」
「黎元くん!?」
「遅参をお許しください。義姉上は逃げて。状況は」
投げられる呼びかけにも、降ってくる驚きの声にも、顔を向けて応える余裕がない。
わかってるわ、という声の後に雛鶴義姉上の気配が遠ざかっていく。
「竈門! 女鬼を任す」
「はい!!」
「、」
竈門、竈門炭治郎。兄上に女装させられていた、鬼を連れた隊士だ。屋根の上の、別の鬼の気配に向かっていく。
鬼はぼりぼりと身体を掻きむしって、おもむろに私の方へ身体を開いた。
隙だらけの動作だ――そのはずだ。なのに、どうしても斬りかかることができない。
鬼の目は私を見ている。僅かな動きをも見逃すまいと、全身を観察している。……動いたら斬りかかってくる。そう思う。
「鬼は二体。同時に頸を斬らないと死なねえ。血鎌は毒だ、できるだけ食らうな」
「耐性は」
「致死毒、もって一晩。苦無の藤毒はろくに効かねえ。帚木の羽でどうだ」
「是」
厳しい。上弦の鬼とはこれほどか。耳を澄ませば天兄上の呼吸が少し浅い。……そういうことだ。
「なんだあ、お前、兄弟か」
「……弟だが、何か」
「あああああ、そうかよ」
ゆっくりと会話を繋ぐ。膠を混ぜたような粘度の空気の中で、相手の隙を探る。……そんなものは、きっとできないけれど。
鬼は頬を掻き抉りながら歯を剝いた。掻き傷が瞬時に治癒する。
「仲睦まじくていいことだなあ、羨ましいなあ、兄弟揃って出来た顔でなああ」
「ハッ、鬼になってまで嫉妬か。浅ましい野郎だぜ」
「うるせえなあ、瀕死の柱が」
「生憎瀕死でない柱もいるもんでね。テメェの頸はこっちのもんだ、馬鹿が」
「……なんだあ? お前、そこの黒いの、柱か」
「そうだ」
「腹立つ顔面だが喰いではありそうだなあ」
柄を握る手に力を込める。 困った。私はひとを煽るのは得意ではないのに。
「――鬼殺隊影柱、宇髄黎元。お前ごときに喰わせる肉は持ち合わせていない」
「くたばっちめえよ。お前も毒でそんな口は利けなくしてやろうなああ!」
鬼が動く。私を見ている。――私だけを。血鎌の先に切っ先を合わせにいく。
私は鬼と正対する。天兄上は右横から切り込む。鬼の左腕は上がり始めている。きっと天兄上の刃は届かないだろう。――それでいい。
身体を引く。重心は左の踵。右の爪先を蹴り出す――勢いで仕込んであった分銅が伸びる。鬼はそれを一瞬見て、私と天兄上に意識を戻す。そのように眼球が動く。鬼といえど元は人だ。さしたる脅威ではないとでも思ったか。
がん、と両の血鎌が私たちの日輪刀と噛む――押される。押し負ける。片足を上げているから踏ん張りがきかない。鬼がつまらなそうな顔をする。
「この程度か? 拍子抜けだなあ――」
反動で上がった爪先を振る。分銅がしなって、撓んで、擦れる。火花が散る。
隙はなければ作るもの。
天兄上が裾から落とした火薬玉が――鎖に触れて爆発する。
爆風に一瞬気を取られた、それこそが明確な隙だ。
押し負けた――押し返さなかった。力を受け流して地を踏みしめ直す。その隙は天兄上が埋めてくれる。足首の僅かな動きで分銅は私の身体を離れ、代わりに鬼の脚に絡む。引きちぎられようが、一瞬動きが鈍ればそれでいい。
符丁『帚木の羽』。その意味は『火薬玉による陽動』、及び『分銅使用』。
「音の呼吸、弐ノ型――」
影の呼吸、陸ノ像・映日――続けて弐ノ像・天使の梯子。
「血鬼術、」
そうして、私と兄上が叩き込む斬撃よりも、
「跋扈跳梁!」
鬼の防御の方がなお疾い。
どす黒い血鎌が回る、回って、飛んで、とてもその中に踏み込んでいけない――だからどうした。
「黎――馬鹿野郎ッ!!」
兄上の声が退がる。あの得物は盾になる。きっと大丈夫だろう。
私はそうではない。持つのはただの太刀で、間合いは精々腕二本ぶんしかない。距離を空けてはいいように嬲られるだけ。
退がって堪るものか。強く地面を踏みしめる――素早く抜重。腕は弐ノ像の形のまま。
漆ノ像・影渡り。
体捌きと突きの連打で血鎌をいなす。いくつか肌を切り裂いて、重く痺れる悪寒が駆け上がる。
なるほどこれは致死毒だ。毒耐性など玩具と同じ。私が鬼の毒に勝ったことなど一度としてないのだから。
脳裏に思考が閃く。その時間は血鎌が一寸飛ぶより短い。まるで稲光のように。強く瞬いて、灼けるような残光を残して。
致死毒だ――即死ではなく、麻痺でもなく、昏倒でもなく。
食らって、何刻か後に死ぬだけの。
無数の血鎌が背後に抜ける。その向こうに、痣ごと顔を歪める鬼がいる。
「お前、なぜ」
腕が動く。脚が動く。肺が動く。この瞬間は遅滞なく動く。ならば私は五体満足だ。そうだろう。
踏み出した足が砂を噛む。シィ、と息をする。肺を絞る。絞って、瞬間的に開く。
影の呼吸、弐ノ像・天使の梯子。
鬼が血鎌を振る。突きとぶつかる。降り注ぐ光柱の幻影が砕け散る。
「音の呼吸、伍ノ型・鳴弦奏々!」
背後から爆風。私は振り返らない。天兄上が邪魔をするわけがない。
天兄上が左横合いから突っ込んでくる。鬼が合わせて指を振る。
「血鬼術――飛び血鎌!」
兄上を近づけまいとする遠距離攻撃。兄上は双刀を片方手放す。振り子のように間合いが伸びて、鬼が喚きながら仰け反る。
私は見る、その空いたほう、爪紅を塗った右手が持っているもの、指先で撥ね上げた――
「――っ!」
気を散じた一瞬に殺気。咄嗟に拳を開いた、両手から得物が弾け飛ぶ。
「馬鹿野郎」
鬼が嗤う。飛び血鎌だ、空中で曲がった。最初からこれが狙いか。指が落ちなかっただけマシ。
隙を突こうと鬼が足を踏み出す、
「馬鹿はお前だ」
絡んでいた分銅の鎖が鳴る。鳴って、張って、砕け散る――その、僅かな遅滞。それで十分。
私は右手で脇差の柄を掴む。一歩間合いを詰める。それは太刀と脇差の長さの差。
肺を鳴らす、空気を揺らす。
影の呼吸、壱ノ像・雷火――
「血鬼術……!」
並べて肆ノ像・箒星。
居合と同時に左手で苦無を打つ。さっき天兄上が身体に隠して投げ渡したもの。使えという無言の指示。
居合の軌道は上下に動かねば避けられない。鬼が跳ぶ、予想通りだ。空振る雷火、その幻光に隠れて苦無が奔る。
空に向けて墜ちる彗星。血鎌を掻いくぐって腿に刺さる。
体勢を崩した鬼が落ちる。刀を返す。まだ動かない。
――殺った。
「畜生――ちくしょうちくしょうちくしょ」
陸ノ像・映日。
頸は硬い。獣めいた唸り。最後の足搔きとばかりに腕から血鎌が湧き出る。
それでも私の刀が頸を切断するほうが疾く、やはり天兄上が鬼の両腕を落とすほうが疾い。
ごとん、と。
聞き慣れた重い音がした。人の頭が落ちる音だった。痩せこけた男の頭。