ある晴れた日のことだった。
エミルが薬草を取りに畑へ出ると、傍の藪の中にツンツンと尖った赤髪を見つけた。このアジトに赤毛はそこそこ多いけれども(そういえばあの人も、あの人も赤毛だなあ)明るい焔の色には心当たりがある。いつも、どこか、怯えた目をした彼のこと。
「……ルーク?」
呼ぶと、びくりと肩が震える。そしておずおずと顔を上げたのはやはり彼だった。
「え、エミルか」
そこにはあからさまな安堵がにじんでいて思わず笑う。彼の中でエミルは〝害のない〟存在なのだろうとあっさり知れた。エミルには人の顔色を伺う悪癖がある。それはルインでの育ちのせいであったし、彼の成り立ちすべてが、周りの存在に影響されて出来上がっているせいでもあった。
彼はそれを理解している。
「どうしたの? 何か探し物?」
そう思ったのは、ルークが藪の足元をやけに気にしていたからだ。するとルークはぴゃっと肩をすくめて、口に一本指を当てた。これは静かにしろの合図だと気づいて、エミルは口をつぐむ。まわりを確かめて腰を屈めた。そうっとルークの足元を覗くと、
「にゃー」
可愛らしい毛玉と正面から目が合う。
「……………」
なんと言おうか迷っていると、ルークが気まずそうに口を開いた。
「いや、飼えねえって、分かってるんだけど」
「そうなの?」
「だってキリがないだろ。全部拾ってやれない」
そう言うルークはふてた子供の顔をしていて、エミルはガイの口調を思い出す。過去にルークが言って聞かされた言葉なのだろう。ルークの生い立ちを詳しく聞いたわけではないが、アッシュとの間に複雑な事情があることと、ガイが育ての親に近いと言うことだけは理解していた。
「まあ、全部は無理だよねえ」
たしかに。エミルはそう言って頷くと、子猫の頭を撫でた。
にい。人によく慣れた彼女(彼?)は、エミルの手のひらの下で心地好さそうに瞳を細める。
「ジェイドあたりにバレたら、なんて言われるか」
と、ぼやいて、ルークはハッとしたように両手で口を覆った。どうしたの、言いかけてなんとなく察する。あの人は名前の上がったところに突如現れるような気がするのだ。
エミルにも、あの赤の瞳は怖い。
(きっとラタトスクの目はあんなんじゃないと思うんだよね)
一度も見たことのない(そして今のところ見られる予定もない)彼の片割れを思って、エミルは子猫の全身をそうっと撫でる。彼女はまるでこの世の悲しいことなど知らないかのように、うっとりとエミルの指先に耳先を擦り付けた。
「ふふ」
ルークが、ポケットから小さな袋を取り出す。開けると中にはキャットフードが入っていた。拝み倒してルルに分けてもらってきたんだ。なんて言うのに、ついつい笑ってしまう。
咎めないんだな、おまえ。ルークが言うので、エミルはぱちぱちと目をしばたいた。うーんとあごに手を当てて考える。
「だって、僕も多分、見つけたら同じことしちゃうと思うんだよね。ルークだって、自分じゃなくても、って思ったから世話してるんでしょう?」
多分このアジトの誰かが同じことをするから。
彼らの周りにいる人々は、みんな優しい。けれどその優しさをもってしても、全ては救いきれない。手のひらからこぼれてきた命を彼らはよく知っている。
ルークは、うんと頷いてフードを頬張る子猫を見つめる。その目は優しくて、でも優しさだけではなくて、感づいたその意味をエミルはけして口にはしなかった。
それから数ヶ月、二人が代わる代わる世話をして、猫は大きくなった。態度も大きくなった。
キャットフードの消費量が倍近くになり、そしてそのうち——当然の結果として、まずエルにばれた。
子どもの口に戸など立てようもない。(名誉のために、エルは秘密を守るべく実に努力していた。)エルからルドガーにばれ、ルドガーからユリウスにばれ………そこからは芋づる式だ。
中庭の猫は回収されて、まずルークはガイに正座で叱られた。エミルもリフィルに叱られたけれど、その裏で優しい言葉ももらった。
猫は共有ルームの猫になり、けれど元が外猫だからしょっちゅう散歩に出ている。ルルのことはまるで兄弟のように慕って、エルともよく遊んでいるようだった。
猫に名前はまだない。みんな「猫」と呼んでいる。名付け親はルークであるべきだろう、エミルは、多分みんなも、そう思っていた。
それでも、いつまで経っても、猫は「猫」と呼ばれるままであった。
:
ある夜、エミルはふと目を覚ました。喉が渇いていた。
彼の中、ラタトスクの気配はしんと凪いでいる。きっと寝ているのだろう。
ひとり、暗闇に起きているのはなんだか心細い。しばらく忘れていた感覚だ。元の世界で、エミルがラタトスクを封じていたほんの短い間、彼は正しく、世界にひとりきりだった。それは自立というものだったけれど、こんなにさびしいものだったろうかと苦笑する。
この世界の彼らはまるでぬるま湯に浸かっているから。
ベッドサイドに置いたランタンの覆いを外す。途端に光が漏れ出す。これはアステルの精霊輪具からヒントを得た試作品だという。光の精霊エネルギーを溜めておいて暗闇で使う。テネブラエは闇の純度が穢されます、ひどい道具です、などとぷりぷりと怒っていた。
そんな従者の気配もいまはかき消えている。
「…………」
柔らかな光を右手に下げて、エミルは音を立てないように部屋を出た。廊下を歩く。外は月夜であった。地に落ちた枝葉の影が、わずかな風に揺れている。
ルームに入って、水を汲んで飲んだ。ガラスのコップ、その冷たい感触が手のひらから脳へと届く。そしてエミルはふと中庭への扉を見やった。
(鍵が開いてる……?)
夜着にガウンひとつで外に出るのは気が進まない。けれどそういえば、猫の姿がどこにもなかった。いつもなら彼女はルームのカウンターの上で寝ている。猫は誰の部屋にも居着かないのだ。
すこし、気になる。
外への扉を開けた。ひやりとした夜の空気が襟足からエミルの背中を震わせる。
中庭に出ると、月は煌々と輝いていた。さく、草を踏み分ける自分の足音がする。誰の気配も——と思って上を見た。
(あっ)
目が合った。こちらを見下ろす翠玉の瞳がある。燃えるような赤毛が、月光を透かしてキラキラと輝いている。
「エミルか?」
「ルーク?」
にゃあ。猫が続けて鳴いた。
「上がってこいよ」
ルークは困った顔で笑って、横手を指差す。
そこには伸び始めた草に埋もれるようにして、黒塗りの鉄梯子が据えられていた。
梯子を登り切ると、そこは平たい斜め屋根の上だった。そういえば、ファラが布団を干すのに使っていた場所だ。思い出す。
ルークは、エミルを不思議そうに見遣った。
「眠れないのか?」
「いや、喉が渇いて……そしたら、鍵が開いていたから気になって」
「そっか。なんか、悪いな」
「ルークこそ、眠れないの?」
「いや、まあ」
なんつーか……、言い淀んで、ルークは頭をかいた。猫は、そんなルークの膝の上で丸くなっている。おまえ結構重いな、とルークがうめく。
「ちょっと、いろいろ、考えることがあってさ……」
と、ルークは猫の背中を撫でた。
「ええっと、それって」
エミルは困って、
「この子の名前とか?」
猫に話を振った。
すると猫は、頭をもたげてにゃあと鳴く。ダシに使うなと文句を言いたげである。
ルークは、一瞬ぽかんとすると、すぐに苦笑した。
「そうだな……こいつもそろそろ名前がほしいのかな」
と、無関心そうな猫の顔を覗き込むなどしている。
「どんな名前にするの?」
「……それ、俺が決めるのか?」
困ったようにルークは眉根を寄せる。
「そりゃあ……」
と言いかけて、エミルは口を閉じた。
見つけたのがルークだから、ルークが飼い主のようなものだと思っていたけど、もしかしてエミルにも飼い主権限があるのかもしれない。
「……いっしょに、考えようか……?」
おずおずと申し出てみる。いっしょに茂みの中でキャットフードをあげてから、思えばもう半年以上が経っていた。名前を決めずにいたのに特に理由はなかったけれど、ルークの方はどうだったろう。
(あんまり考えてなかったけれど)
するとルークは、えっいいのか、と明るい声をあげた。どこかほっとしたような声音だった。
……ので、エミルは、やっぱり、と勘づく。
「うん。僕、元の世界でいろんな魔物を仲間にしてきたから、名前をつけるのは慣れてるよ」
「そうなのか!? なんか、エミルって、見た目と違ってすげえな!」
「ええっと、あはは」
困って笑うと、ルークは慌てて言い足した。
「いやあの、見た目と違うっていうのは、悪い意味じゃなくて……」
頭をかいて考えている。ごめん、俺、無神経だからさ。
「えーと、あのミュゼとか、セルシウスとか、見るからに〝精霊〟って感じじゃあないのにさ、エミルは精霊なんだろ? しかも魔物を仲間にできるとか、ほんとすげえなって……」
ルークの言葉選びは、幼い。エミルはもう一度笑った。
「僕は……、僕も、精霊だけど、ほんとうにすごいのはラタトスクだよ」
ラタトスク。と、ルークは繰り返して呼んだ。彼の中で、ほんのわずか気配が揺らぐ。
エミルは、あっと思ったけれど、気にしないことにして続けた。
「ラタトスクは、大樹カーラーンの精霊で、何千……もしかしたら何万年も世界を護ってきたんだ。とても強くて、彼に比べたら僕なんか……」
言いながらちょっと情けなくなってくる。表情を曇らせたエミルに、ルークも気がついたらしい。慌てるように両手をばたばたと振ると、
「いやあのさ、それ、俺もわかるぜ!」
と身を乗り出してきた。
「俺に、よく似た、あのアッシュなんだけどさ。俺よりもすげー頭が良くて、いろんなことを知ってて、ちゃんとしてるし、強えんだ! すぐ俺のこと屑って言うし、腹も立つけどさ、隣に並べられるとちょっと……」
最後は消え入りそうな声になる。
「俺なんか、って思っちゃうよな……」
ルークの劣等感は、誰から見ても明らかだった。もちろんエミルもそれは知っていた。だからこの時、しまったと思った。なぜなら、
「あのね、ルーク」
彼は特に、
「僕は別に劣等感とか感じてないんだ」
ラタトスクに引け目を覚えることはなかったので。
「は!?」
するとルークは思い切り目を見開いてエミルを見遣る。
「なんでだよ!?」
その流れで、どういうことだよ! と憤慨される。エミルはなんだか可笑しくなってしまって、まるでアミィやエルとの会話を楽しむときの気分で、微笑んだ。
「うーん、どうしてかなあ」
「もったいつけないで教えろよ!」
ルークの方はというと、すっかりむくれて、エミルがなにか重大な秘密を隠しているのだと言いたげだ。
教えろ、なあ教えろ、と繰り返して、膝を揺らしたりするので、寝ていた猫がへそを曲げた。
にゃあ、と鳴いて、エミルの膝の上に居場所を変える。あ、ごめんな、と遅れてルークが謝った。
猫はまた身体を丸めて、尻尾の中に顔を埋めた。その背を撫でてやりながら、エミルは目線を上げる。
今日の夜空には月が出ていて、中途半端に雲がかかっていた。上空は風が強いのだろうか。流れた雲が月を隠しては、また顔を出す。そのたびにあたりの明るさが変わるので、エミルは月光の強さを思った。地上に落ちる木々の影の色合いも、少しずつ変化していく。
まるで、夜は海のようだ。
「劣等感じゃないんだ。だってラタトスクは誰と比べたってすごいでしょう。多分世界で一番長く生きていて、彼がいるから魔族から世界を護ることができている。それで、みんなは、それは僕も同じだっていうんだ」
僕には、よくわからないけど。
「そう、だから、僕はね、ラタトスクと僕が同じだってことが、よくわからないだけなんだよ」
エミルの中で言葉はたゆたう波のようで、うまく形を結ばなかった。だからルークにもどう届いたかわからないけれど、彼は特に疑問を返してこなかった。それをいいことに、エミルはルークの方を見ない。ただ猫の毛並みを撫でて、眠そうな顔を眺める。
いまは何時頃だろう。草木も眠る、なんていうけれど、こうして見る夜の草木はまるで眠るように見えない。ざわざわと風に枝葉を揺らし、月光に顔を向けてなにごとか囁いているようだ。
「……同じ、かあ」
しばらくして、ルークが呟いた。
「俺もそう思ったことが、あった、かなぁ」
あごに手を当てて、うう〜んと首を捻って考えている。俺、記憶力ないからさあ、なんて言う。
「でも今は、そうは思わないぜ」
そう言うルークの表情は、妙にさっぱりしていた。
「それにそんなことを言ったら、たぶん怒られちまう」
と、ルークは破顔する。良い笑顔だなあ、とエミルは思う。
「怒ってくれる奴がいるって、いいもんだよな」
なあエミルにだって、いないのか? 問われて、エミルも、もちろん思い浮かぶ顔がある。そしてラタトスクにも……、と思うのだ。
テネブラエはなんと言うのだろう。この世界で、ロイドたちも、本来の彼らを知らない。リヒターさんだったら、と思う。話がしたい。
アジトで暮らすうち、エミルはすっかり、ラタトスクと別個に数えられることに慣れてしまった。ラタトスクが聞いたはずの説明を、後からもう一度繰り返して語ってもらえる。ファラたちが作った手作りのおやつを、ちゃんと二つの包みで用意してもらえる。
心地よいぬるま湯を、ラタトスクはどう感じているのだろうか。
「……僕は、話をしたいなってずっと思ってる」
「誰と?」
すぐにルークは聞き返してきた。
「ラタトスクと、話がしたい」
「えっ、お前ら、話せないのか?」
「うん。ラタトスクの意識が出ている間、僕の意識は沈んでるんだ。お互いに共有できないから……」
「マジかよ!? 不便だな!」
ルークは無邪気にそんなことを言うので、エミルは笑って言葉を飲み込んだ。
(それは、僕がラタトスクに拒絶されてるからなんだ)
元の世界で、彼がラタトスクにしたことを、その決断を、彼は後悔したことはない。
けれどやっぱり思うのだ。ひどいことをした、とは思っている。
(許してくれるかなあ……)
彼ともし話ができたとしたら。伝言ではなく、向き合って言葉を交わせたら。もしも、もしもは塔のように積み上がって、エミルの心に焦燥感を産んでいた。
猫が、エミルの膝から降りた。
そしてルークの方へと居場所を移す。
「やっぱり、おまえちょっと太ったんじゃないのか?」
言いながら、ルークは毛並みを撫でた。
「あーあ、名前、何にしようかなあ」
「ミーとか?」
「なんかミュウとかぶってないか?」
言いながら、ルークは猫の両脇を掴んで持ち上げた。ぷらんと、宙に吊るされた猫の、お腹が気になる。
「つーか痩せねえと、ブタネコにしちまうぞ、名前」
「それこそかぶってるよ」
笑い合って、エミルとルークは顔を見合わせた。
「エミルと話してたら、なにに悩んでたんだかわかんなくなっちまったな」
「そう?」
「名前をつけなかったのは、怖かっただけなんだ」
のこしていくのが。小さな声で、ルークはその言葉を足した。
逆に、のこされるのが怖いと思うエミルは、何も言えず口を噤んだ。
猫も何も言わない。
そのかわりに、じたじたとルークの手の中で身体を捩って、屋根の上に着地する。それから梯子の元までトコトコ歩くと、なにかを強請るようにしてニャアアと鳴いた。
「そうだな、そろそろ降りて、寝直さなきゃな」
「いま何時だろう……?」
言いながら、二人は改めてまた夜空を仰ぐ。
月は少し傾いて、星が綺麗で、いつの間にか雲はすっかり流れ去っていた。