それはきっと、虫の知らせというものだったのだ。
 彼の名前は何といったか、思い出せない。俺も名乗った記憶がなかったから、もしかすると名乗られていなかったのかもしれない。自分と彼と、各々が調査していた件が同一の鬼によるものだった為に成り行きで一緒になった、とある夏の夜の任務のことだ。
 彼は短い黒髪に、不機嫌そうな眉をしていた。精悍な顔はずうっと眉間に皺が寄っていて、機嫌に関係なくそういう顔なのかもしれないとすら思った。協力しようという気もないらしく、ただ、任務の都合上自分が付いてくることには文句を言わないというだけのようだった。行き道で、俺達の間に会話らしき会話はなかった。首に光る勾玉は何か特別なお守りなのか、とか、お前は何の呼吸を使うんだ、とか、聞きたいことはそれなりにあったのに。俺に口を開かせないだけの怒り……いや、もっと乾燥してこびりついた苛立ちやわだかまり、そういう圧力を感じた。俺のことが気に入らないのだと思った。理由は分からないが。 
 正直な所、俺は相当不安だった。今から鬼と対峙するのだろうに、こんなにも協調性のない男と共に刃を振るわなければならないことに。俺が手練れならば彼に合わせてやることもできるのだろうが、残念ながらそんな腕前はない。怪我で済めばまだいいが、死んでしまうのではないか――常につきまとう不安が、より濃く熱帯夜に溶けていた。首を流れ落ちる汗がシャツを濡らし、肌にへばりついた。ヒグラシの声もとうに止んだ夜、俺達の足音だけが聞こえていた。
 結論から言うなら、それは全くの杞憂だった。理由は単純で、彼は強かったのである。
 鬼と相見える。鬼が鋭い爪と、刃物が無数に生えたような長い腕を更に伸ばす。その腕が俺と鬼のちょうど真ん中を過ぎたあたりで斬られて夜空に跳ね上がる。俺の隣に居たはずの彼がいつの間にかその腕の切れ目に居て、雲のない夜空に黒雲を呼ぶように雷が駆け上がる。殆ど同時に起こったそれらを、一連の行為と結果として俺が理解できたのは雷の音が耳に届いてからだった。
 返す刃で彼は自分に向かって来ていた鬼のもう一方の腕を斬り飛ばし、飛び上がり、鬼の頚を落とした。俺の出る幕などないくらいに呆気なく。その剣さばきの速さ、鋭さ、眩さは、呼吸の違う俺の目もはっきりと見てとれる練度だった。暗闇を走る光――肌を震わせる雷が俺にはくっきり見えた。そよ風に乗ってやけに青い草のにおいがして、周りを見渡すとその理由が分かった。彼が地を蹴った部分がその上に生えていた草ごと抉れていたからだ。見ればその踏み込みの跡はほんの数か所しかなく、彼の身のこなしの無駄のなさを物語っていた。
「すごいじゃないか!」
 行き道で感じた不安や彼の態度など忘れて、俺はそう口にしたのを覚えている。山の麓の竹藪を抜け、農道を歩き、町へ向かう間、俺はほとんど一方的に喋っていた。柱などを別格とすれば、俺はこんなに強い隊士を見たことがなかったのだ。本当に、本当にすごいと思った。自分がそう大して強いとは思っていなかったが、鬼殺隊でそれなりに任務をこなし、生き残っているという自負くらいはあった。それを軽々と越える、同年代くらいの隊士がいるということに多少なり興奮していたのだと思う。
 彼は俺の口数の一割にも満たない程度しか話さなかったが、それでも答えてくれた。彼の育手は元柱だったのだと言う。一言、「すごい人だ」と評した。それ以上彼が育手について話すことはなかったが、師を誇っているのだろうと感じた。上手くは言えないが、俺がこの短い夜に聞いた彼の声の中で、それだけは一等澄んだ声色で言ったように聞こえたからだ。
 その他にも俺は色々と喋っていたように思う。あまり具体的な記憶がないのは、彼が相槌くらいしか返してこなかったからだ。
「俺は雷の呼吸には詳しくないけど、型が六つあるんだっけ」
「ああ」
「そうだ、壱ノ型の印象が強いんだ、確か……ん? 壱が基本なのは雷だっけ?」
「……ああ」
「それにしても、元柱に教えられたのか、すごいなあ。教え方が上手いのか、君が他よりずっと優秀なのか……教えられたのは君だけか?」
「…………いや」
「他にもいるのか! じゃああれだ、兄弟弟子っていうやつだ。俺にはそういうの、いなくてさ。いいなあ」
 恐らくそんな程度の会話だった。その時の彼の表情はどんなだったのだろう。覚えていないのは、俺が彼の表情を見ていなかったからだ。彼が本当に無口な人間だったのかは知らないが、少なくとも俺はそう感じていたから、言葉の少なさを不思議に思うこともなかった。自分の好きなように喋っていて、今俯瞰的に記憶を頭に浮かべてみれば悪い事をしたかもしれないと思う。知らないうちに何かを口走っていたのかもしれない。だから、彼は俺に怒声を浴びせたのかもしれない。
「うるせぇぞ、ごちゃごちゃと!」
 その声は、彼の剣と並んで強烈に記憶に刻まれている。俺はその前に何と言ったのだっただろうか。何かを言ったのだ。けれどそれがまさか彼の機嫌を損ねるとは思っていなかったから、俺は驚いてしまって、ただ怒鳴られたということしか覚えていなかった。
 彼は町に向かう俺とは違う方向へ足を進めた。夜の山だぞ、と引き止めようとした俺に、彼は「夜の山だから何だ。テメェみたいな雑魚と一緒にすんな、失せろ」と吐き捨てた。
 彼が立ち去った後、俺は一人で農道に立ち尽くしていた。一拍置いて、動揺した心が落ち着いて、今度は重くなってくるのを感じた。湿った夏の夜の空気はそんな憂鬱をさらに煽った。風の吹かない夏の田の水は抜かれていて、皹割れた土の奥からは泥の重いにおいがむせ返ってきた。皹の奥に纏わりつくような、肥沃な生命のにおい。命を繋ぐにおいな筈なのに、地面に引き摺られるような心地がしたのは、俺がその時気落ちしていたからなのだろうか。耳の奥が痛むような沈黙した夜に答えはなかった。
 目が開いて、ようやく自分が目を閉じていたことを知った。見覚えがないどころか、そもそも理解できないような景色が広がっている。天も地も分からない。無秩序に壁や襖や窓が空間に仕切りを作っている。自分が今横たわっている床の間が重力の方向なのだと分かるのも、実際に自分の身体がそこに転がっているからそう思うだけだ。
 急にこの空間に落とされた。鬼がうじゃうじゃといること、無惨がどこかにいること、これもその能力らしいということは鴉経由で知っていた。それから、俺はどうしたんだ? 鬼を一体斬って、建物自体が蠢いているせいで足場を失って……落ちたのか。それで気絶でもしていたのだろう。どれくらい寝ていたのかは知らないが、無事でいられたことが奇跡だ。
 腰に差した日輪刀を抜き、俺はこの異様な空間を歩きだす。自分の見ている物が信じられなくなるような、歪んだ空間だった。常識が通用しない。ひっきりなしに聞こえる、木が擦れるような音。窓と呼んでよいのか、その向こうは目を離せば違う景色になっている。線香のようなにおいがする部屋もあれば開けなくても血のにおいが漂ってくる扉もあった。
 目が回りそうな屋内だが、俺は進まなくてはならない。仲間がいるなら助けなければならないし、無惨を倒さなければならないのだ。肌は寒気がするのにひりつき、喉が痛くなるくらいの緊張だったが、それでも。
 襖を二つ開けて荒れた部屋を横切り、血飛沫と崩れかかった鬼の肉が壁にへばりつく廊下を通り、障子戸を横に滑らせた所にそれは――彼は、いた。
□■□
 開け放した襖二つ分、一部屋を丸々隔てた向こう側の障子がゆっくり開く。一太刀で絶命した隊士の死体を蹴り転がし、障子の向こうからこちらを覗く存在を注視した。人間。鬼殺隊だ。こちらをじっと見ている。まさか俺を見て鬼だと分からないことはないだろうに、日輪刀を構えることもせず。
「君は……ああ、あんな夢を見たのは、そうか」
 ソイツは呆然と、うわ言のように呟く。今も夢を見ているみたいに。ふらりと部屋に足を踏み入れるも、抜き身の日輪刀は未だに俺に敵意を向けない。拍子抜けするくらいに覇気がなかった。さっきのやつの方がまだ、俺に殺意を向けてきた。
「君みたいなやつでも、そうなるのか。鬼っていうのは……そんなに……」
「何を知った風に喋ってやがる」
「君は覚えていなくても、俺は覚えてるんだ。名前も名乗り合わなかったけど、それでも」
「随分と頭が高いなァ、命乞いのやり方も知らねえのか」
 俺が其方へと歩き出しても、ソイツは動かなかった。恐怖で動けないという風でもない。俺が刃の切っ先を向けてやっと、息を飲む。今度はじっと刀身を見て、またうわ言を零した。言葉の体をなしていない、息と声の中間のような。張り合いもクソもない。
 だから見逃されると思っているなら、大間違いだが。
 畳を軽く踏んで、ソイツとの距離を詰める。二間程の距離が一気に刀の間合いになって、その隊士はようやく刀の柄をしっかりと握った。横に凪いだ俺の一太刀目を受けて、体勢を崩す。ソイツは勢いのまま畳を転がって俺とまた少し間合いを取る。呼吸は何だ? 日輪刀の色は薄く青緑がかって見えるが。ああ、どうでもいいかそんなこと。所詮雑魚で、餌になるような人間だ。この距離であの反応速度なら、俺の型は避けられない。
 息を吸う。肺が満ちる。細く、鋭く息を吐く。人間の頃から身体に叩きこんだ、筋肉や骨の動き。鬼となって鋭さを増して、俺の斬撃は何もかもを割り、焼く。
 雷の呼吸、弐ノ型――稲魂。
 初撃は受けられた。それで刀は弾き飛ばす。後の四本はどれも身体を深く裂いた。左肩、右の胴、左の腿。右腕は肘の近くから斬り落とした。まだ息はあるだろう、だがそれも僅かの間に絶える。失血が先か、俺の鬼血術が身体をばらばらに裂き砕く方が早いか。
 俺は刀を振る。刀身に付いた血が畳と壁に弧を描いた。俺の目の前で崩れ落ちた隊士は、命を繋ぎ止めるために酸素を求めていた。
「思い出した」
 ソイツが一言、俺に向けたのかもわからない言葉を漏らす。走馬燈という奴は誰しもが見るのだろうか。他人の今際に興味はないが。
「やっぱり、君の剣は……落雷、の、音が……する…………」
 それを最後に、ソイツは事切れた。俺に、凄まじい程の不快感を残して。
 腹の真ん中から耳の奥まで、腐った油が煮えるような心地がする。奴は「思い出した」と言ったが、確かにこの感覚は、言葉は、覚えがあるような気がした。
 落雷だと? 俺の、雷の呼吸の弐ノ型からか? ふざけるな。ふざけるなよ。どいつもこいつも、畜生、馬鹿にしやがって!
 目の前の闇を裂くような、落雷の音を知らないくせに。 
 恐怖も畏怖も置き去りに、ただ圧倒されてしまう、身体が芯から揺すられる、神鳴りを聞いたこともないくせに。
 あの音を、あの光を、知らないくせに!
 俺が、ずっと、どうしても――
 背に差した鞘に刀を納め、俺は足元の死体を見下ろす。傷を受けたわけでもなく、消耗していない今、これを喰う気にもならなかった。ただ、不愉快で仕方がなかった。俺に泥を投げる全ての物が壊れてしまえばいい。俺にとって価値のない全ての物が。苛立ちに似た衝動で、俺はそれを蹴り飛ばす。障子から繋がる廊下の向こうではいつの間にか奈落のような吹き抜けが手を広げていた。
 死体が血の跡を残しながら落ちる。俺は数秒、その方向を眺めていた。不愉快なものが消えると、毛羽立った意識がいくらか落ち着く。そうだ。これからもこうして壊して、消していけばいい。俺に歯向かう者も、認めない者も全て。
□■□
 変な場所だ。前に入ったことのある、鼓の屋敷と少し似たような感じもする。けれど……それよりもっと複雑で奇妙で、何より広い。あの屋敷の比じゃないくらい見た目にも狂っていて、雑多な音がする。
 ここに落とされる前に聞いていたのは、産屋敷邸が無惨によって襲撃されたこと。鬼殺隊に招集がかかり、柱もそこに含まれていること。落ちてから聞こえたのは、鬼の音。大きくて湿った肉塊が床を這いずるような音、鴉の鳴き声と羽ばたき、木が軋んで畳が擦れるような音、人か、人の形をしたものが駆けるような音。水柱の所へ行っていた炭治郎はともかく、俺と一緒でまだ岩柱の家に居た筈の伊之助や他の隊士の声すら聞こえなかったから、落とされる前後の物理的な距離は関係なさそうだ。
 俺は目を閉じて耳を澄ませる。そこら中から鬼の音がする。吉原で聞いたような静かな音じゃない。普段の任務で聞くような、分かりやすい鬼の音だ。近くには居ないけど、この数なら歩いているうちにぶち当たるだろう。
 人の音や声もたくさん聞こえてきた。俺達だけじゃなく、もっと多くの人間が……いや、鬼殺隊だけかもしれない。わざと集められたんだ。この鬼の縄張りで、きっと、鬼殺隊を根絶やしにするために。それくらいの数の音がする。
 これだけ鬼が居るなら、もしかして。
 俺は注意深く音を聞きながら足を進める。蹴っているのは床ではなく建物の天井のようだった。左右も天地も、見た目は当てにならない。戸の向こう、廊下の先が続いているとも限らない。風の音も物の音も、どれも聞き逃さないようにして道とも言えない道を駆ける。
――今。
 俺は立ち止まる。俺の耳が捉えた音。あれは。
 音の方向に進路を変えて走る。
 山の向こうから真っ黒な雷雲が空を覆う時の、雲の中で怒りを溜め込むような音。空で鳴っているのに地を這うような、足元から伝って身体の内側を揺する音。遠くからでも存在を知らしめる、雷神の鬨のような、低い雷鳴。知っている音だ。俺が、きっと誰よりもよく知っている。
 俺の心が捉えた幻かもしれない。だって今もアイツが刀を握っている保証はない。けど、もしそれが本当に空気を震わしているのなら、俺の耳が間違う筈がない。
 アイツが近くに居るかもしれない。
「許さない……アイツを……」
 心臓がぎりぎりと焼けた鉄鎖に締められるみたいだった。いつの間にか噛み締めた奥歯からざらついた音がする。握り締めた拳が熱い。 逸る気持ちに食らいつくように、ひたすら音のした方へ走る。
「絶対に許さない」
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きりこ
いまさらすみません~~来てくださってる方いるんですね!ありがとうございます~!
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向き
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モブから見た獪岳の話
初公開日: 2020年08月16日
最終更新日: 2020年08月17日
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コメント
途中までは最初から書いています。配信サービスを使ってみたかったので、今書いているものの続きを書いていきます。
腐ではありません。鬼滅の刃単行本17巻ネタバレを含みます。
タイトルは仮称。