麗らかなカラスの鳴き声が、突き合わさった膝上に眠る二つの三十八度二分の命を、真白い朝日が覗く窓からサンサンと照らしていた。胸を打つ呼吸は弱々しく、その瞼が持ち上がることは二度とは無いのだが、確かにそこには二つの命が宿っていた。
「見ろよ、デュース。ユウの手。俺の指握ってるから」
「本当だ。僕の指も握ってくれ、ユウ」
エースの小指を握っていない方の、小さな手に小指を近づければ、言葉に応えるように赤子の手はその指をきゅ、と握った。
「……グリム、舌出てるぞ」
「はは、ホントだ。こうして寝てると少しは可愛いじゃん」
この細い双り言の他に音はなく、
時が過ぎ去る早さというものは言葉にはどうにも言い表せぬものであり、そしてまた残酷なものである。九月にこの奇妙な監督生生活が始まってからというもの、早いものでいつの間にか七ヶ月が経とうとしていた。春の日差しが光り始めつつもまだ肌寒さを残す、春とも秋とも言い難い三月である。いわゆる季節の変わり目にあたるこの月は花粉症の天敵・憎きスギ花粉が多く飛来することも相まって、元の世界でも、ここツイステッドワンダーランドでも嫌煙されがちであるようだが、ユウはこのはぐれ者の三月をいたく気に入っていた。というのも――――
「はっぴばーすでー、とぅーみー、はっぴばーすでー、とぅーみー、はっぴばーすでー、でぃあ自分〜。はっぴばーすでー、とぅーみ〜」
そう、彼女の不格好な歌にわかるように、年に一度のビッグイベント、誕生日があるからである。どこかの怠惰な肉食系王子とは違い、出自に何のコンプレックスも抱いていないユウにとって誕生日はめでたいものに相違ない。本来ならば自宅で家族と共にケーキなどを頬張り、ロウソクを十六本あまり吹き消したりなどしていたのだろうが、斯様な状況下ではそういうわけにもいかない。それでも元の世界から持ち込んだ数少ない宝物の一つなのだからと、今日くらいは誰に憚ることなく大切に、幸せに生きてやろうと決めていたのだった。
サテ、とはいっても多忙な学生の朝には、長くホームシックに浸っている時間はないのが悲しい現実である。らしくもない父母への感謝も手短に済ませ、自分を祝す下手くそな歌を口ずさみながら、ユウは早々に身支度を始めた。ピーチクチクと、窓の外から小鳥の鳴き声まで聞こえ、あれは雲雀かメジロかウグイスか、なんて耳を澄ませながら、心做しか大きくなった制服に身を包み、自分も少しは立派になったかしらん、と、ヴィル先輩に頂いた姿見の前で一人ステップを踏んでみたりして――――ン? 大きく? イヤイヤ、大きくなったのは自分なのだから、制服は小さくなる筈であろう。一抹の不安と共にまじまじと自分の体と制服とを見比べてみたが、何遍見ても丈の余ったスラックスと手のひらに被った袖口とが目を引く。
どうにもおかしい。
先程までウキウキとしていた気分が一転、不安と恐怖とに包まれ、嫌な汗がジットリと背中を伝う。もしや、自分は若返っている? いやいやまさか、とも思ったが、魔法も人魚も獣人もあるこの世界である。有り得ないものを探す方が苦労する。では、この予感が正しいとしたら? 的中してしまっているのならば即ち――――
ユウは息を飲んだ。『ここのあいだになにかほしい。嫌な予感→冷静さを取り戻す』このようなときの嫌な予感というものは予想以上に当たるものであり、同時にこういうときは早いとこ自分よりも智恵の深い者、たとえば学園長などに相談するに限ろう。寝ぼけ眼のグリムを運良く通りがかかったエース・トラッポラに押し付けて、ユウは一人、学園長室へと足を急かした。
学園長に事情を話すと、速やかに緊急の職員会議が開かれた。流石腐っても名門校、魔法が使えなくとも生徒の安全に関わることには敏感らしい。されど、さしものナイトレイブンカレッジといえども完全無欠全知全能という訳にはいかず、出来ないことは出来ない、知らぬものは知らないのが現実というものであり、一限から二限にかけて行われた優秀な魔法士による会議も虚しく、会議が最終的に下した判断は「分からない」だった。
「誠に残念ながら……原因は不明です。いえ、正確には幾つかの仮説は立てられました。しかしそのどれもが我々の技術では到底確かめられないことでして……」
珍しく心底申し訳なさそうに学園長はそう告げた。この不可思議な現象に対しての魔法士たちの考えを、学園長の冗長な口調でソックリそのまま書いてしまうにはここは些か空白が足りぬので(なんといっても、五行に一回はお得意の口癖「私、優しいので!」が入る)、掻い摘んで以下に纏めておくとする。
仮説の一つは、「ツイステッドワンダーランドの免疫機能のようなものが働いたのではないか」というものである。ヒトの身体にあるものと同様に、このツイステッドワンダーランドがこの異邦人・ユウを異物として認識し、排除しようとしているのではないか、と仮定したものである。
もう一つの仮説は、「監督生のいた世界とツイステッドワンダーランドとで、時間の流れが逆なのではないか」というものである。川の流れに喩えてみれば、少しは分かりやすいかもしれない。川は南にも東にも北にも西にも北西にも北東にも、あらゆる方向に流れている。無論、それらの中には必ず「流れの向きが真逆の二本の川」があるはずだ。それと同様に、それぞれの世界で時の流れる方向が異なり、更に運悪くそれがキッカリ真逆だったとすれば合点もゆくだろう。
でも、どちらにしたって世界の意思などそれの住人には預かり知らぬものであるし、監督生の世界が観測出来ない以上、どちらの仮説も立証はできない。大切なのは解決策である。で、あるのだが、原因もわからず、分かったところで対処が出来るようなことでもない現象への対抗措置は、結局のところ風邪と同様に対症療法を採るしかない。
真っ先に提案されたのは老い薬である。どんな赤子もたちまち老婆に、が売りの薬だが、見た目を変えるだけであって中身までは変えられず、幼児退行そのものは止められない。同様の理由で若返り薬も直ぐに却下された。有り得ないほどの品揃えを誇っていたミスター・Sもこればっかりにはお手上げで、皮肉にも、一九三八回目にしてようやく学園長は彼との勝負に勝ったのだった。
「それで、つまり自分は、どうしたって十六年後の今日には死ぬってことですか」
学園長は、重い首を微かに縦に振った。
「けれど貴方には、無限の選択肢が残されています」
嫌になるほどに綺麗な慰めの言葉を、色素の薄い唇が喋る。自嘲的に笑う監督生に気付かぬふりをしながら、学園長は続けた。
「勿論、貴女を元の世界へ帰す方法は捜し続けますし、並行してこの現象に対する解決策も探し続けます。国家お抱えの学者や研究者達に事情を話せば、喜んで彼らは協力するでしょう。ですがそうした研究に力を注げば注ぐほど、ただでさえ短過ぎる貴女の貴重な十六年が更に短くなります。更にいえば、残念ながら方法が見つかる可能性も極めて低い。言葉を選ばずに言うのなら、貴女の十六年を賭け金とした、勝機の見えない厭な賭けですなのです。
だからこそ、これは紛れもない貴女の意志で選ぶべき選択です。どちらを貴女が選んでも、学園は責任をもって貴女の選択を支援します。衣食住の保証は勿論のこと、」
「さあ」
「もし賭けに乗るのなら、手を」
そうして結局、総ての判断は監督生に委ねられた。