べちゃっ、という音と共に顔から廊下のリノリウムの床に頭からずっこけたプラマニクスは、ぷるぷると震えながら膝をついて立ち上がったところで、書類を抱えながらも手を差し伸べようとするドクターを見た。
見なかったことにした。
「流石にこれを無かったことにするのは無理があると思うが……!?」
しょうがないのでドクターの手を借りて立ち上がったプラマニクスは、ぺこりと一礼し、そのままドクターの脇を通り抜けてそそくさと別の場所へ向かおうとして、
「本当に大丈夫…?」
また腰につけた鈴を盛大に鳴らすことになった。倒れたまましっぽがぶんぶんと揺れている。
ドクターは目の前で何も障害物がない廊下のど真ん中ですっ転んだプラマニクスを見て以来、危なっかしい足取りで歩く彼女に対して不安を抱いていた。どこか体調が優れないのではないかと戦々恐々なのである。
頼りの盟友であるシルバーアッシュも既読がついたまま返信がこない。そういえばあの兄妹は政治的に大分微妙な関係にあるとは聞いていたがこれは彼の心配性が過ぎるだけなのだろうか。
いや、恐らくそんなことはないと彼は思い直す。何故ならこの1時間の内にプラマニクスは数々の不運に見舞われているからである。カランドの巫女とはそういうものなのかと信じてしまうほどだ。
服が足に引っかかってつんのめったり、廊下を走る子供達を避けようとして壁に腰をしたたかにぶつけたり、チョコの包装を破ろうとして思い切り飛散させたり、人が見れば疫病神が取り憑いていると言ってそうな不運ぶりだった。
故に、人の上に立つ立場であるドクターとしても、単純に個人としても気に掛けた方が良いと判断した彼は後ろをついていくことにした。拒否されるかと思ったが案外すんなりと同行を許可された彼は、それとなく曲がり角や足元に注意しながらプラマニクスの表情を窺う。
「何か顔に埃がついていたりしますか?」
「いや、さっきは付いてたけど今は特に…」
「そうですか」
しっぽを見るに、彼女はこれまでの出来事にも殆ど動じていないようだ。ぱたぱたと歩く後ろ姿はドクターと同じくらいか、それより小さいくらいなのだが、今日ばっかりは不安を覚えて仕方ない。
「君はここに安全を求めてやって来たのだろう? 今日私が見た限りでも、君は大分大変な一日をロドスで送っているようだが」
「はい」
「私としては、人々が我々ロドスに求めていることは出来る限り応えたいと思っているんだ。それに、君はカランドの――」
「――巫女ですが、かといって特別扱いされることを求めているわけではありません」
「うん、そうか。それならいいんだが」
にべもなく断られてしまったが、私が後ろを付いていくことは許容される範囲であるらしく、黙々と彼女の危なっかしい道中を見守る。
そういえばあの男からの返信は届いたのだろうか。
『昼、食事スペースで話そう』
『そんなに複雑な事情があるのか?』
『いや、クーリエとマッターホルンを呼ぶ』
『そうか』
『こちらで受け持とう。彼女を頼んだ』
分かった、と返信を打ちながらいやいや私は何か彼に頼まれるようなことをしているのだろうかと自問する。それとも何か私には知る由もないことがあるのだろうかと不思議に思いつつも前を見やると、ちょうどプラマニクスが中央通路を通行する深夜組の帰還のグループにぶつかりそうになったところだった。眉一つ動かさず一行をやり過ごした彼女は再び歩き出す。
「昼はどうするのですか?」
「え? ああ、会食の予定があるから……」
「分かりました。では夕食で」
「夕食」
「駄目ですか?」
「いや、そんなことはない」
まるでシルバーアッシュとの会話を見透かされているような言葉に一瞬息が詰まったが、何とか誤魔化した私は何故か知らないが今の会話で彼女を騙してしまったことへの罪悪感が生まれるのを感じた。
一体私が何をしたと言うのだ。
「エンヤは………、少し[おっちょこちょい(もっと固めの言い方を探す)/横着/もっとbetterなのを思いつく]なんだ」
「はぁ」
「昔からそうだったのだが、ロドスに来てからは特にその傾向が強くなったようでな。マッターホルン」
「はい。エンヤ様が小さいときは俺がいつも付きっきりか、陰からこっそり見ていたんです。エンヤ様は……ちょっと、目が離せなかったですね」
「ロドスはもともと階段が出来る限り少なくなっていたり、どこでも15秒以内で救急ロボットが駆けつけてくれる環境なのでこの上なく安全ですね。僕たちがエンヤ様の気を煩わせることもずっと少なくなりました」
「ここに彼女が来る以前は君たちの中でネットワークのようなものを構築してたのか? それは大変だな」
昼。食事スペースでシルバーアッシュ、クーリエ、マッターホルンと合流したドクターはすでにテーブルに置かれていたサンドウィッチに齧り付いた。食材の全てがオーガニックなのは彼ら料理人のせめてもの矜持だろうかと思いながら、年中通して添加物を大量にキめていることは彼らの前で決して言わないようにしようとドクターは決心した。無性にあの化学添加物がてんこもりのケミカルバーガーを食べたくなるときだってあるのだ。
「それで? わざわざこの二人を呼び寄せる必要がある話なのか?」
「いや、単純に私よりも二人の方が知っていることの方が多いからだ」
「……シルバーアッシュ?」
「重々承知している。だが事態は私が一朝一夕に解決できるほどのものではないのだ」
「そうか。まぁ君が手を尽くしていないとは思えないしね。頼まれたら手伝うさ。そういう約束だろ?」
「ああ。感謝している」
コーヒーを飲み干したドクターが改めて聞くと、マッターホルンがそれに答えた。
「でも若君だって話すことはあると思いますよ。一回階段からエンヤ様が落ちてきたことがあったじゃないですか」
「あぁ、あったな」
「おいおい」
「僕も初めて聞くんですけど……!」
「そうだな、まだお前を助ける前のことだった。夜遅くにエンヤが帰ってきたとき、疲れていたのか足を滑らせて落ちてきたんだ。幸い私が後ろにいたから何とかなったが、あのときは流石に心臓が凍り付くかと思った」
「うわ……」
「俺もそのことを聞いたときは肝が冷えた。その夜にこれからどうしようかと若君と話し合ったのも思い出しましたよ」
「何故だろうな、あの時だけはひどく寒かったのを覚えている」
思わずサンドウィッチを食べる手が止まったドクターだが、彼らの表情がそれほど暗くないことに気づいた。同じような心境のクーリエと顔を見合わせる。
「だからこそ、彼女がロドスという場所を見つけたのが良かった。元々はエンシアの鉱石病の治療のために我々はここに辿り着いたのだが、気づいたらエンヤは自分の仕事をほっぽりだしてここに休憩しにくるようになっていた」
「あれ、僕の記憶だと最初は全員でイェラグを探し回ったと思うんですけど」
「俺もそうだったと覚えてます」
「その前に大聖堂に向かおうとする私を止めようとしたはずだが」
「あれは本当に危なかったですよ。止めてた俺もその可能性を捨てきれなくて…」
傍から聞いているとこの上なく恐ろしい出来事が起こっていたようだが、当の本人たちが笑っているのだから大丈夫なのだろうとドクターは考えることにした。不穏な雰囲気を全く感じさせない振る舞いは流石イェラグの山の一角を統べる当主であると彼は瞠目する。
「それで、本題に戻るとですね、エンヤ様は基本的に――あの方の言葉をお借りするなら――英気を養うことを大事に思っていらっしゃるんです。これは恐らく巫女という神職を為す上で、気力だけでなく体力を必要とするからだと思います。イェラグの巫女の試練は知っていますか?」
「文献では。確か、天道の上に沿って山の上の神殿に向かうとか」
「歩いている間に三歩ごとに頷いたり、五歩ごとに一度鈴を鳴らしたりする決まりもあるんです。やってみると分かるんですけど、恐ろしく体力を消耗するんですね」
「分かったぞ。だからそれに備えるためにロドスで休んでいるんだな」
「そういうことです。ただ、休むためだけに施設を利用するのも忍びないのでいくつかの仕事をしたり、これは内密にお願いしたいんですけど――」
「――これは私が言おう。彼女がここで休息する代価として、カランド貿易はロドスと提携を結んでいる」
「………そういうことにしておこうじゃないか」
やはり侮れないな、とドクターは思い直した。これがカランドの百年の計かと悟った彼は、不敵な笑みを浮かべる盟友へ降参だと肩を竦める。
「ただ、逆を言えばお前はエンヤという人質を抱えているわけだ。丁重に扱ってくれていることにカランドの社長として感謝しようではないか」
「その論理で言うと、ロドスは既に世界中の貴族、企業、政府に対して何らかの切り札を有していることになるぞ。ただでさえ大量の問題を抱えているっていうのに、人質だの何だのと言われたら首が何回飛ぶか知れたもんじゃない」
「安心しろ。イェラグの風習では片足だけが雪崩から発見されても葬式を上げることが可能だ」
聞きたくもなかった、とドクターはテーブルに突っ伏す。
再びプラマニクスと合流した私は、執務室でコーヒーを飲む彼女を見ていた。寒帯地方を航行するロドスは窓から外の雪が見える。私としては執務室の中でもコートを重ね着したいほどには寒いのだが、イェラグで生まれ育った彼女にはこれくらいは何ともないらしく、いつも通りに涼しい顔をしている。
「むぅ……」
「どうした?」
「熱い……」
試しに私も一緒に入れたのを飲んだが、時間が経ったからかそれほど熱くはなかった。舌を冷まそうとしているのか間抜けな顔をしている。それに対して言及しようか迷っているうちに心を決めたのか再びコーヒーに挑戦し、熱いと呟いている。
これは高度なツッコミ待ちなのだろうかと私は勘繰った。それとも何か隠れた意図のあるジェスチャーなのだろうか。
「いけないですね」
「?」
「このままでは太ってしまいます」
「………」
「これは何というビスケットですか?」
パッケージをひっくり返しながら質問をするプラマニクスに対して私は呆気に取られていたが、彼女に胡乱気な目を向けられて慌てて正気に戻った。
「発祥の国の読み方に従うとビスコフなんだけど、確かヴィクトリアの銘菓だ。キャラメルとシナモンを使って出来る」
「分かりました。仕入れさせます」
「良いけど……、ペンギン急便にでも頼むの?」
「私は貿易会社の社長の妹ですよ?」
「そんな公私混同みたいな」
「不正はしません。ちゃんとコンペを通します」
「あ、そこは筋を通すんだ……」
いつになく真剣な表情で考え出した彼女を見ていると、彼女も一人の等身大の女性なのだと思えるが、いささかそれにしては生々しすぎないだろうか?
ただ、昼にシルバーアッシュに言われたことを鑑みても彼女はここに仕事をしにきているわけではないのだ。ケルシーはシルバーアッシュとその背景にあるイェラグを特に警戒しているが、私に言わせればそれだけだ。確かに彼らの抱えている問題には私も関与することは御免被るが、ロドスに対して戦争を吹っ掛けようとするほど間抜けとは思えない。多方面作戦を強いられているのは相手も同じだからだ。争いが長引くほど彼らは疲弊し、消耗していく。増援が来る見込みもない。
ただ、彼女が抱えている重責を忘れないようにしようと私は改めて思うのである。
「あぅ」
「あー、足か?」
「……はい」
一つ分かってきたことがある。それは、彼女は不運の神に憑りつかれているのではなく、単に不注意の結果ではないかということだ。振り返ってみると、プラマニクスは何かを見ているようで頭の中では全く別のことを考えていたりしていた。これはしっぽに着目すると法則性が掴めてくるもので、