体育館の天井に挟まったバレーボールを眺めていたら、すぐそばの白い照明に蛾が飛んでいるのが見えた。
首に汗が伝う感覚も、肌にじっとりとTシャツが張り付くのも、いつまでも進まない長針を何回も何回も確認するのも、何もかもが嫌いだった。
今日はまだ木曜日だし、宿題終わってないし、見たいテレビもあったのに。
太鼓のバチを握りしめていた手を見下ろすと、少し赤くなってジンジンと熱を持ち、かゆい。
「もっと気持ちこめないと伝わんないよ!ほら!最初から!」
町内会のおじさんは顔を真っ赤にしながら、みんなの目の前で手を叩く。
いつもはその辺散歩してるだけの人のくせに、運動会とか、町内会のイベントになると途端に元気になるからちょっと苦手だ。
八月の下旬、二週間後に控えた夏祭りのお囃子は、おじさんが言うには例年よりもずっといい演奏ができるはずだと、だから頑張れと、よくわからない激励を繰り返されていた。
(去年も言われたんだけどな)
横目で盗み見た生徒たちが、先生に言われてるわけでもないのに必死な顔で返事をしているのが馬鹿みたいで、小太鼓の端っこのざらざらした皮の所をいじって俯いていた。
「六年生はこれが最後だし、みんなで頑張ろう!」
言いたいことをひとしきり言い終わったらしいおじさんは、満足そうに大太鼓の方へ戻っていった。
結局自分の演奏の出番まで曲は続かず、お囃子の横笛担当の四年が半べそをかき始めたころに練習は一端中止になってしまった。
体育館の入り口で練習を見ていた母親や、中学生や高校生が一気に体育館の中に入ってきて、飲み物やお菓子を配ってくれる。
時計は六時半をさしていた。まだ一時間近く残った練習時間に重いため息が漏れる。
ステージの近くの扉に背中を預けて真っ暗になった校庭を眺めていると、隣にクラスメイトの高橋が腰を下ろした。
真ん中で半分に折れるソーダの棒アイスを差し出しながら、Tシャツの首元を仰いで風を送っていた。
「なんか今日長くね?帰りてー」
そんなにクラスでは仲良くはないけれど、毎年この時期だけ話す彼とこうやって話すこともなくなるのかと思うと、少し妙な気分になる。
校庭からはセミが低くジリジリと長く鳴く声が聞こえてくる。今朝はヒグラシも鳴いていた。思っていたよりも近くに秋が来ているのかもしれない。
右斜め前に小太鼓を構えていた彼もまた、練習中何度も時計を眺めていた。
「わかる。全然六年小太鼓やんねぇし、正直俺らいらなくね?」
「まじそれ。去年の大太鼓やってた方が全然マシだわ」
「な!あ、アイスのゴミ入り口の佐藤の母ちゃんが袋持ってるって」
中学生たちに手を振られ、高橋は入り口の方へ走っていく。
扉から微かに吹き込んでくる風はそれなりに涼しいけれど、まだ熱を持った気温はすぐにアイスを柔らかくしてしまう。
溶けだしたそれを一気に口に放り込むと、頭がつんと痛くなった。
すっかり重くなった腰を上げると、ふと校庭の方で何か光ったような気がした。
アイスの棒を噛みながら扉に手をついて顔を出してみるけれど、何か期待したようなものはなかった。
暗くなった校舎は、職員室と吹奏楽クラブが練習している音楽室だけに電気がついていた。
廊下に点々と非常灯の緑と赤色の光が灯っているのが少し不気味で、おじさんの集合の声に必要以上にビビッてしまう。
のぞき込んだのを後悔しながら振り返ったときに、足元の床からワックスの甲高い音がした。
結局その日の練習は、ずっと四年の横笛と下級生の歌に多く指導が入っただけで、天井の知らない所に挟まっているボールを新しく三つ見つけてしまった。
六年生は最後まで片づけを手伝って、普段は入れないステージ下の倉庫にまで入ることが出来る。
照明が小さくされた体育館の隅の倉庫は、パイプ椅子や運動会で使う道具が薄暗い中で、ぬるぬるしてるみたいに光を反射してた。
埃っぽい空気の中で、躓かないようにしながら使っていた小太鼓を隅に押しやる。
嫌いな練習の中で、ほんのちょっとだけ、この時間は楽しみだった。
重い入り口の扉がガシャンと閉められ、用務員のおばさんが鍵をかけると練習はようやく全部終わる。
「気を付けて帰れよー」
おじさんに見送られ、高橋に手を振ってポケットを小さく叩く。自転車のカギにつけていた鈴が微かに鳴った。
すっかり人気のなくなった体育館からプールの横を通って駐輪場に向かう途中、ふらふらと校庭に戻っていく人影が見えた。
足元をぬるい風が撫でて行く。なんとなく嫌な予感に生唾を飲み込む。
間違いなく帰った方が良いのはわかっているけれど、さっき何か光ったのを思い出して足が思った方と逆に踏み出す。
職員室の光も、音楽室の光も消えていた。真っ暗な校舎がいつもよりずっと大きく見えてしまった。
足元の地面を踏む音と、何かの虫が顔のすぐ隣を飛んでいく羽音、そして校庭の奥に進んでいく小さな足音だけが響いていた。
校舎と反対の方向に進んでいく足音は、遊具や体育館の壁に反射して長く、大きく音を残していく。
校庭には体育館のそばに何本か電灯が並んでいるだけで、何かが進んでいった方は真っ黒な何かが大きく口を開いているように見えてしまう。
もう一度ズボンのポケットを叩く。いつも聞く鈴の音に妙に勇気を与えられて、誘われるように静かに踏み出してしまった。
遊具でも体育館でもない方に進んでいく足音は、理科の授業で使っている畑に入ったようで湿っぽい土を踏む音に変わった。
普段は気にも止めない背の高いヘチマが落とす影がやけに長くて、先まで目で追っていくと項垂れたヒマワリたちと、その真下にうずくまった背中が見えた。
驚いて息を飲むと、気が付いたらしい小さな黒い丸い頭がぱっと振り返る。
いっそう暗いところから見上げてくる目にひるんで、足からすとんと力が抜ける。
反対に立ち上がった目の前の人は、思っていたよりも小さかったし、アニメのキャラがプリントされたオレンジ色のTシャツは見たことがあった。
「小太鼓のひと?」
てくてく近づいてきて、目を合わせるようにしゃがみ込んだ顔はやっぱり知っている顔だった。
さっき横笛と歌の練習をしてる最中に、端の方で両手をぱたぱた動かして、体を揺らして歌っていた子だ。
「れ、練習にいた?」
語尾が震えあがった声に不思議そうに首を傾げたその子は、はにかむと元気よく頷いた。
力が入らない足でなんとか立ち上がると、一緒に立ち上がった子の頭は胸元ぐらいのところにあった。
「何年生?」
「二年!さかぐちともです!」
時間なんか気にしないような大きな声で元気よく叫んだともは、土だらけの手で僕のTシャツを掴んでしゃがみ込んでいた方へ引っ張ってくる。
着ていた白いTシャツが茶色くなるのを見下ろして、慌ててともの腕を掴む。
「六年生だよね、何しに来たの」
「ちょっ、ついてくから離して。きみ追っかけて来たんだよ」
「へんなの。名前は?」
「……いつき」
聞いて来たくせにたいして気にも止めない様子でひまわりの真下にしゃがみ込むと、ともは迷いなく両手を土に突っ込む。
そこだけ妙に柔らかく地面が掘り返され、濃い土の匂いが漂っていた。
今日終わりにします!ありがとうございましたくコ:彡