この状況下に小さく吐いた息はいつもより熱く感じられた。額に貼られてある冷えピタは既に生暖かく、そろそろ取り替えられるべきなのだろう。
俺の目の前には相も変わらず一見人の良さそうな表情でにこにこと笑っている男。その男はしれっと俺の部屋に居座り、しかも何故か暖かそうな病人食、もとい粥を持ってきている。ほわほわと湯気を立てているそれは確かに作りたてのようで、多少ダルいこの状況でも食欲を掻き立てられるような香りを漂わせる。彼が持っている匙でかき混ぜられ、少量掬われたと思えばふーふーと自らの息で冷まそうとしてくれる。
──…あぁ、くそ。
「…トレイ先輩、別にそこまでしなくても良いです」
「ん?何がだ?」
「いや、自分で食べられるので、そこに置いといてください」
「でもお前、朝から何も腹に入れてないんだろ?ここの寮生に聞いたぞ」
「……チッ、余計な事を…」
既に暮れかかっている陽射しが窓から溢れており、彼の短いが柔らかい緑色の髪の毛を柔く透かしている。どうしてもこの男は、俺にこれを食わせる気らしい。
「唯の風邪ですよ、大袈裟なんですよ」
「風邪だとしても病気には変わりないよ、大袈裟くらいが丁度良い。特にジャミルみたいな奴はな」
「、どういう事ですか」
「体調悪くても、上手く誤魔化せるタイプだろ?」
「それ、は」
図星だった。正直なところ、多少の体調不良なら誰にもバレない自信はあるし、顔に出ていないという自負もある。
集中力は落ちるが、余程観察されていない限りは気付かれることはないだろう。
……そう、"余程観察されていない限りは"、だ。この男は余っ程俺の事を見ているらしい。
「ほら、これくらいで大丈夫だろ、あーん」
「ちょ、やめて下さい、自分で食べられます」
「良いから、こういう時くらい甘えろ」
「人を散々甘やかしに来ておいてよくそんな事言えますねアンタ」
「お、甘やかされてる自覚はあったのか」
「うるさい」
「はは、ほら、あんまり騒いでると熱が上がるぞ。大人しく口を開けてくれ」
「………」
甘えろ、と言う割にこの男、完全に楽しんでいる表情をしている。心配はしてくれているのだろうが、どう見てもそれだけでは無いのだ。
実際、楽しんでいるのだろう。幾ら体調を崩しているとはいえ、差し向けられたその匙を手で弾く事など容易い。にも関わらずそれをせず、そもそもこの男を追い出すことすらもしようとしていないのだから。
面白そうに、少し悪い顔で笑うこの人の瞳を少し睨むようにして数秒。
「………ん」
「やっと観念したか。はい、あーん」
「……、その"あーん"って言うのやめませんか」
「いや、ついな」
「……」
暖かい粥と優しげな玉子の味に、ほんの少し緊張が和らいだ。色々な意味で悔しいが、安心する味だった。次の粥が掬われるのをぼんやりと見つめる。先程より心臓が煩いのは、食事を始めたからなのか、それとも。
「…美味いか?」
「……ええ、食べやすいです」
「そうか、それなら良かった」
「………あの、トレイ先輩」
「ん?どうした?」
「まさかとは思いますが、最後までこれで食わせるつもりですか?」
「うーん、思ったよりは元気そうだからジャミルに器ごと渡してもいいんだが」
「…だが?」
「……俺が"あーん"って言うと口を開けるジャミルが可愛くて、ちょっと勿体ないなぁと」
「病人に何言ってんだアンタ」
冗談だよ、と眉を下げて笑うその表情は信用ならない。こういう時のこの人は大抵本気で物を言っている時だ。
その後もトレイ先輩にまるで餌付けの如く匙を口に運ばれ、半分を過ぎた辺りでその手が1度止まった。
今度は何を企んでいるのか…とその動向を見守っていると、ふと彼の瞳とかち合った。
「冷めてきたし、残りはジャミルが自分で食べるか?」
「は?」
「いや、最初少し不服そうだったから、嫌なら器を渡した方が良いかと思って」
匙を受け入れる為では無く、単純にぽかんと口を開けてしまった。何言ってんだ、この人。何をそんな今更な提案をしてるんだ。
彼の瞳は「どうする?」と言わんばかりに此方を見つめてくる。
それを、俺に、選べと。
「………」
「………」
「…ここまで来たら、最後まで食わせてくださいよ」
「え、良いのか?」
「っ、何で聞き返すんだよアンタ…」
「いやー、そうかそうか、悪かったな変な気遣っちゃって」
「嬉しそうな顔するな、ちょ、頭…」
「ジャミルのそういう所、俺は好きだよ」
纏めていない髪の毛が彼の手で少し乱されるように撫でられながら、とんでもない爆弾が耳元で落とされて思わず身体を後ろに引く。逃がさないと言わんばかりに匙と器をサイドテーブルに置いて、彼がベッドに膝を乗り上げさせて近付いてくる。
「っ、アンタうつっても知らないからな!?」
「唯の風邪だ、大袈裟だって言ってた割に俺の心配をしてくれるんだな?」
「だっ…」
「…風邪は人にうつすと治りが早いらしいぞ?」
トレイ先輩の指がすぅっと髪を梳いていく。普段話している時とはほんの少し違う、甘さが混じるテノールの音。ざわりと肌が粟立つ。
微かに息が上がる、風邪のせいだと言い聞かせながらも距離の縮まったその端正な顔にどくりと心臓の音が大きくなる。
「…アンタが寝込んでも、アンタのせいだからな」
「その時はジャミルが看病してくれるんだろう?」
その言葉には何も返さない。その代わり、楽しそうに此方を見つめているその瞳を小さく睨み、引き寄せられる前に彼の後頭部に手を添えて唇に噛み付いた。