母は美しい女である。物心つく前からそうだった。金色の波打つ髪に夜が明ける瞬間を思い起こさせる青い瞳。珊瑚のように色づく唇。なめらかな白い肌に、豊満な胸と舞台上を動き回る為に鍛え上げられた引き締まった体型。今も変わりもせず美しく、他人からはあまりの変わらなさにその美の秘密が処女の生き血を啜ってるからだなんてしょうもない冗談を言われれていたこともあった。そしてそんな母には夫と子があると知りつつも言い寄る男も多かった。
 母はそんな男を一蹴するのを目にしたことがある。母に舞台裏に連れてもらった時だ。ふられた男が激情して、母に失礼な暴言を言った。その時は意味が分からなかったが、でも酷いことを言われていることはその男の妙にぎらついた眼からわかった。十歳にもならない子どもの自分は母を庇うが、何の意味ももたらさなかった。暴言は続き、母の後ろに庇われた。
 何もできなかった。グラドは母の危機に何もできなかったのだ。
 そして男が暴言から、暴力に発展しようというとき、そいつは現れた。
「こいつは傷めつけてもいいやつか?」
 今まさにふるわれようとしている暴力を手首を掴んで止めた、その黒スーツのネクタイまで黒い、黒髪の男。
「困るわ。まだ公演があるもの」
「こいつ、出てたか?」
 黒スーツの男は首を捻った。手首を掴まれた暴言男は何とか逃れようとするが、よほどがっちりと握られているのだろうか握られた位置から微動だにしない。放せ!と暴れようとする男に黒スーツは何気ない動作で拳を振るった。見えない拳に腹を抑えて崩れ落ちる男。黒スーツは手を上げて無罪を主張する。
「大丈夫、手加減した。舞台には出られるはずだ」
 若干胸を張る黒スーツに母は笑った。グラドにはこの状況で母を笑わせることなどできなかった。 
「私でもなんとかできたのよ」
「知ってる」
 母は少し不満そうに黒スーツ男に拗ねてみせて、男は信頼の微笑みを返す。
 二人の世界だった。
 母の危機は確かに去り、暴言男に制裁も与えられた。グラドは喜びほっとした。だが、同時に焦燥も抱いた。母は、父に、自分に、そんな表情を見せたことがあっただろうか。
 かつて舞踊で名を馳せ、今は舞台女優として活躍する美しい母と元貴族の名家の出身で国の統率者ともいえる大統領の父。当然家は裕福で、食うに困るような状況ではなく、望めばどんなことだって叶う、というわけではなかった。地位に溺れずに改革に邁進する父と、自立心を芽生えさせることに腐心していた母では息子を再現なく甘やかすことはなかった。しかし、一般的に見たら恵まれていたのだと思う。偉大で真面目で寡黙な父と、美しく厳しく明るい母。グラドの幸せな世界は確かに完成されていたのだ。
 壊れたのはいつか。いや、気づいたときには壊れていたのかかもしれない。
 
 それは美しい光景だった。
 ある日グラドは深夜に眼が覚めた。喉がやけに乾いていた。
 水を飲もうとキッチンに向かうと、母の部屋の隙間から微かな明かりが漏れていた。母はベッドサイドのランプをよく消し忘れる。美容によくないからと母は早寝早起きをする割にベッドの中で本を読むことを習慣化しているからか、そういうことがよくあった。気づいた父やグラドが消すのだ。ランプの明かりを消すとき、父は母の額に口づけをおくる。すやすやと寝ている母を慈しむ光景をよく覚えている。だからそれを真似してグラドも電気を消すのだ。
 その日は、違った。
 ランプは灯っていた。父はいなかった。薄闇の中、母の白い背中がやけによく見えた。
 だけど、表情は見えなかった。母は同じベッドにいる人間の髪を触っていた。黒髪だった。
 母は身体をその人間に身体を傾けた。見たことがある光景だった。父が母にする行為で、でも父は茶髪で。
 母は黒髪の誰かの額に口づけを落とした。慈しむように。母は零した。
「ユアン」
 あの舞台裏で会った男の名前だった。あれから、ユアンはよくグラドの家に出入りしていた。まるで当然のように。それでもグラドには兄のような存在ができてうれしかった。母と二人でいる光景には妙に胸が騒いだが、それも杞憂だと無視していた。ユアンはあまり喋らないが幼いグラドにも誠実に接してくれる人間だったから。
 ユアン。
 あの瞬間から、グラドの優しく完璧な世界を壊した男の名前になった。 
 今になって、母は何を言い出すのだろうか。あんなに人を憎んだことはなかったのに。ユアンを排除しようとして本気で殺そうと刃物を持ち出したり毒物を盛ったこともあった。まあ、それもあっさりいなされ躱され、ユアンに何一つ傷を与えることなどできなかったが。グラドの殺意と行動は習慣化し、何度も対峙し、今朝のようなもはや稽古をつけてもらっている状態では?という有様になってしまったが。
 良くも悪くもちっとも変わらないユアンと長い月日がグラドの恨みを少しづつ溶かしていった。それでも核のような、裏切られたという気持ちは残ったままだ。
 
 学校から戻ると、母は舞台の稽古に行ったようだった。今日は家に雇っているお手伝いさんもいない。冷蔵庫には母の手料理が残っていた。グラドの誕生日にはいつも食べきれない量のごちそうを用意する。母も父も多分遅くなる。今朝のごちそうは、今夜の夕飯だ。
 携帯端末には寮に入っている妹から連絡が入っていた。兄を祝う簡潔な言葉だった。嬉しかった。
 部屋に戻ると、包装されリボンがかけられた大きな箱があった。中を開けると大量のラノベが入っていた。
 父は息子を余り知らない。それでもラノベというものを読むことは知っていたのだろう。息子の好みなど知らない父が本屋に行き、ラノベを片っ端から大量購入する様を思い浮かべて、グラドは笑った。
 父の不器用さに、己の境遇に。
 そして決して母の思い通りになることにはなるまいと、決意した。
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