いつも通り、昨晩は自主練に没頭して、心身共に使い果たして眠りに着いたというのに、こんな時間に目が覚めてしまった。ぼんやりとした視界の中に、掛け時計が飛び込んだ。午前3時。朝日の光すらまだカーテンの隙間から、覗きそうもない。
身体を起こす。視界に入り込んできた服を適当に選び、着替える。靴を履く。まだぐっすりと眠っている同室者を起こさないように、そっとドアノブを回し、310号室を後にした。
潮の匂いがする。散歩がてら、と思って歩を進めていたら、学園を出て、ずっと向こうへ、気が付けば公園まで出てきていた。
未明の海の空気は、刺すように冷たい、だが、そう思えるのは、まだ身体があったまっていない今だけだ。日本の夏は、日が昇れば昇るほど、蒸し暑くなっていく。おそらく今が一番涼しい気温なのだろう。
故郷の海はどうだっただろうか。そう遠くない記憶を手繰らせる。イギリスの夏は、ここよりはずっと過ごしやすく、海に入ろうと思えば、冷たさを覚悟しなければいけなかった。
僕はまだ、紅鶴の海に足を付けたことはないが、日中に入れば暑さが和らいで、きっと気持ちいいだろう。しかし今入ればおそらく…。
衝動的に靴を脱ぎかけて、そしてすぐに自らに制止を命ずる。ここは砂浜ではない。手摺がついて、防波堤の先はもう深い水底であろう。どちらかというと、港に近い。僕は何故、自らがそんな行動に出ようとしたのか、考える。
潮の匂いが、少し似ていた、それだけなのかもしれない。
小さい頃、家から車に乗せられて、遠く遠く離れて、海に連れていってもらっていた。少し早めの夕食を終え、家の作業がひと段落ついて、家族も各々風呂なり自分の仕事なりで部屋に戻るタイミングで、おばあさまは時々僕を、連れ出してくれた。
淡い色の空と海、白い砂浜、時間帯で言えばもう夜にも関わらず、なかなか落ちない日。ひんやりと涼しい空気だけが、時刻を体感出来て、本当に夏なのかと不思議な感覚に陥る。それが、新鮮で、おばあさまと、秘密の時間を共有した気になっていて、好きだった。
あの不思議な時間の中で、僕は地べたに裸足を付けることを許された。乾いてひんやりとざらつくそれに足の裏を付けて、少し身震いする。そして一歩、二歩と、その先、先など存在しない向こう側へ、ひたひたと歩いていく。
乾いた砂はだんだんと湿度を増していき、そして足の裏に砂が絡まり始める。めげずにまた歩を進めていけば、耳に直に入り込んでくる、波の音。心地よい音楽に耳をすましながら歩いていく、ぴしゃり、と冷たい物体が触れ、反射的に足を引っ込める。
後ろから笑い声が聴こえてきた。いつも聴く音色、…毎日聴いていたいと願った音色だ。おばあさまは僕が波に驚いたのがそんなに可笑しかったのか、腹を抱えるようにして笑う。そんな大胆な笑い方をしてるおばあさまは、久々に見たと思った。何が彼女をそうさせたのか、分からないまま。
おばあさまも靴を脱ぎ捨て、僕に近づく。そして僕の手を握り、そのまま手を引いてその向こうに歩を進めた。足がどんどん波に埋れていく。冷たく少し仄暗いそれは、足場がどんどん深くなっていくのが分かる。いつ、これが突然地面を失うんだろう、そしたら僕はこの波に沈んで攫われてしまうのか、そんな思考が、幼いながらの脳に過り、明確な恐怖に足がガクガクと震えそうになった。でも、そうはならなかった。僕が恐怖に囚われることも、地面がなくなることも、波に攫われることも。
温かく、僕のそれよりも大きくて、そして繊細な手のひらが、力強く僕を引っ張り、支えてくれていたから。
ふとおばあさまは、手を離し、ふくらはぎくらいまで浸かった足元に身を屈ませる。両手を水の中に沈め、そしてすくい上げる。その手のひらにはその海の水が溜まっていた。おばあさまは僕に身体を向き合わせる。そして、その手のひらを水ごと、ぴしゃ、と僕の頬に擦り付けた。
僕はまた、ビックリして身体を退け反らせる。おそらく目を白黒させていたであろう僕の反応を見て、また声を上げて笑った。
そこまでされてようやく僕にも呆れ、という感情が一瞬ふっと湧いたが、それはすぐに消えてしまった。ただ、刺すような冷たさが、ほんのりと人肌の温かみに変わっていくのを、黙って感じていただけだ。
日がまだ昇りそうもない。僕は、はめた腕時計を見やる。向こうはもう夜の時間帯か、と。しかし、おそらく今年も、まだ日は沈んではいないのだろう。
おばあさまは、今もあの海を見ているだろうか。もしかしたら、たまたま今日同じ海を見ているかもしれない。そしたら、
おばあさまの見送った夕日を、僕は朝日として受け入れるんだろうな、
そんなことを考えた。
「…たまにはこちらから電話してみようか。」
緊張はする、けれど、今はただ、あの笑顔を想像したかった。ポケットの中でほんのりと温まったスマートフォンを取り出した。
終わり
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向き
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あなたが笑って、世界が幸せ
初公開日: 2020年07月15日
最終更新日: 2020年07月15日
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コメント
ノエルが、遠い海の向こうの祖母に思いを馳せるお話を書きます。
温もりの隙間にノックした
シキアゲ大浴場の続き(健全バージョン)みたなの書きます。
揺り子
ゆう喜現パロネタメモ
壁打ちしてたら割とまとまってきたゆうぎり喜一の現パロいちゃいちゃ世界線のメモ
篠畑