1 胸の上
夜、ふと目を覚ましたら、枕元の照明が消えていた。そして、妙に息苦しい。体が自由に動かない。目を覚ましているはずなのに、体を上手く動かせないというのは、疲れているときにはよくあることでもある。
しかし、その晩は違っていた。胸の上に、重石のようにずしりと乗っかっている何者かがある。重い。とにかく重い。これのせいで、体がまったく自由にならない。
しばらくもがいてから、ふと気づいた。「ゆうり?」呼びかけると、「にゃー」と返事がある。
でっかい教え子が胸の上に乗っかっていたせいで、魘された話。
2 うしろの正面
猫になる教え子にもいい加減慣れ、抱っこも様になってきた頃のことだったと思う。
ある夜、ベッドの上で寝転んでいると、背中に柔らかくて温かいものが当たった。マッカチンは散歩に出かけている。「ゆうり?」と呼んでも返事はないが、大きさからして教え子以外には考えられない。「ずいぶん甘えただなぁ」なんて口元を緩ませながらタブレットを眺めた。
「わん」なんて言いながら、愛犬が部屋に飛び込んできたのは、そのときだった。「ヴィクトル? 寝てる?」そして、マッカチンの後から顔を出したのは、猫になって自分の背中にくっついているはずの教え子である。
そういえば、教え子は、マッカチンを連れて散歩に出ていたのだった。気づいたときには、背中のぬくもりは消えていた。
3 迎え猫
こんな話を聞いた。夜、遅い時間に人気のない路地を歩いていると、塀の上に光るものがある。よく見たら、それは猫の目だった。パチリと目が合った、と思った瞬間、その猫は、おもむろに塀の上を歩き始める。不思議なことに、進む方向が同じである。塀が途切れるところでは、地面に降りてでも同じ方向に進むのである。
その猫は、家に着いたときにはもう、姿を消しているのだそうで。ただ、猫をずっと追いかけていたはずなのに、どこでその猫を見失ったのかはわからない、ということだ。
常連のサトウさんに聞いた話。
「ヴィっちゃんは、勇利くんに迎えに来てもらったらよか!」って。勇利は、俺を迎えに来てくれるだろうか。
4 猫の国の王様
教え子について。教え子は、どうやらいろんな猫に畏れられているらしい。長谷津で出会ったあらゆる猫が、勇利のために道をあけ、あるいは挨拶にやってくる。
「ゆうりは猫の王様なのか?」って聞いたら「なに言ってんの…」って呆れられたけれど、俺はまだ、ひそかに信じている。彼が、猫の国では王様なんだって。
5 猫又
二十歳をこえた猫は「ネコマタ」というモンスターになるらしい。勇利に言ったら「ヨウカイって言ってよ」と微妙な顔をされた。
勇利は二十三歳だ。「ゆうりはネコマタなのか?」と、おそるおそる尋ねたら「どうだろうね?」と笑われた。
その後で「二十歳以上のCタイプが全員猫又だったら、とっても大変じゃない?」と言われて、確かにその通りだと思った。
ネコマタは、しっぽが二つに割れているのだそうだけれど、あの綺麗なしっぽを二つに割ってしまうのは、なんだかもったいないから、勇利には、ずっとネコマタにならずにいてほしい。
6 袖の猫
タナカさんの、おばあちゃんの話。
タナカさんのおばあちゃんは、長谷津に嫁いでくるときに、嫁入り道具として立派な振袖を持ってきた。江戸時代に仕立てられた一着で、袖には、見事な牡丹と、その牡丹の下で微睡む黒猫が描いてあったのだそうだ。
ところが、おばあちゃんが嫁いできて数年後、タナカ家が、隣家の火災に巻き込まれて全焼してしまった。突然のことで家財道具は一切持ち出せず、たくさんの物が燃えてしまったらしい。もちろん、おばあちゃんの振袖も。
数日後、家の中から無事だったものを運び出している途中、おばあちゃんは、思わず「あっ」と声を上げた。なんと、あの大切な振袖の、わずかに燃え残った袖、その、焦げた牡丹の花の下に微睡んでいたはずの、あの黒猫の姿がなくなっていたのだ。
おばあちゃんは、今でも黒猫を見ると「あの振袖の、あの子かねぇ」と思うらしい。
…ところで、俺の教え子も立派な黒猫なんだけれど。
7 猫の目
猫には、たまに、何もない空間をじっと見つめているときがある。そんなとき、猫の視線の先には、人には見ることのできない何かがいるんだとか。
俺が食いつくからか、いろんな人が、いろんな猫の話を教えてくれてありがたい。
ありがたいんだが、昨日の夜、黒猫になった勇利が俺のベッドの上にきちんと座って、空中の、ほんとうに何にもない、小さな羽虫だって飛んでいないところを見つめていると気づいてしまったときには、正直、勘弁してくれ、と思ってしまった。
一晩あけてから、勇気を振り絞って「昨日、何を見てたんだ?」なんて尋ねてみたら、一言「埃」って。ところが、「なんだ埃か」と、こっちがホッとした瞬間「…っていうことにしておいて」なんて。
勇利はニヤニヤ笑ってたし、きっと冗談に違いない。だよね? そうに決まってる。
8 黒猫のくしゃみ
「猫のくしゃみは縁起がいい」と言ったら、みんな驚いていた。イギリスだったかイタリアの言い伝えだ。
あと、ヨーロッパでは「黒猫」は、幸せを運んでくることが多い。日本では「黒猫が目の前を横切ったら良くないことが起こる前触れ」だって言われてるって知って、驚いた。なんてことだ。
教え子が大きな黒猫になって俺の前をうろうろ歩き回って、そのうえかわいくくしゃみなんてしてくれることがあったなら、それだけで俺は、世界でいちばん幸せな男になれるだろう。
9 エジプトの猫
キムラさんは、十年くらい前、長期海外出張のお土産に、木彫りの黒猫を買ってきた。すらりとした美しい猫を、まだ小さかった娘さんは、たちまち気に入って、どんなところへでも連れ歩くようになった。
ところがあるとき、娘さんのちょっとした不注意で、その黒猫に大きな傷をつけてしまった。前脚と胴体の塗装と地肌が大きく抉れ、修復は不可能であるように見えた。
猫を大切にしていた娘さんは、泣きに泣いて、「ごめんね」と謝りながら、軟膏を塗り込んで、包帯を巻いてやったそうだ。
数か月後、ふと、気になったキムラさんが、そのままにしてあった包帯を解いてみると、なんと、あれだけ目立っていたはずの傷が、跡形もなく消えていたのだそうで。
その木彫りの黒猫は、今もキムラさんの家の玄関にいる。
10 猫の神社
野良猫が子どもを産む神社があるらしい。その神社には、カラスや、ほかの天敵は決して寄り付かないのだそうだ。悪意のある人間なんかも。
勇利に「知ってる?」って聞いたら「ヴィクトル、行ってみたいの?」と首を傾げられた。行けるものなら行ってみたいけれど、俺が行ってもいいものなのか。勇利は「ヴィクトルならいいと思うよ」と笑っていた。
子猫はすごかった。かわいかった。子猫って、あんなに小さくて罪がなくて、かわいいものなんだって、驚いた。
でも、やっぱり俺には勇利がいちばんかわいい。
11 宅急便の人
大変なことに気づいてしまった。クロネコさんのグローブに、肉球がついている。
12 参加資格
ヤマモトさんは、猫の集会に行ったことがあるらしい。今は亡き、ヤマモトさんの家のタマが連れて行ってくれたんだそうだ。
場所は覚えていないそうだ。ただ、タマについて歩いているうちに、気づいたら、どことも知れない原っぱに立っていた。帰りはどうしたのか、覚えていない。タマは、特に長生きしたとかそんなことはない、マグロの刺身が大好きな普通の虎猫だったということだ。
猫の集会については、たくさんの人が、たくさんのことを教えてくれた。俺があんまり熱心に猫の集会の話を集めているものだから、勇利が「行ってみたいの?」と、また首を傾げた。「行ってもいいの?」と尋ねたら「うーん。もうちょっとかな」だそうで。
どうやら俺は、もう少ししたら猫の集会に連れて行ってもらえるらしい。
13 招き猫
片方の前脚をあげた猫の置物。マネキネコという縁起物らしい。玄関のマネキネコをじっと見ていたら、お父さんが教えてくれた。商売をしている家には大概置いてあるんだそうだ。真利は「今はそうでもないところも多いでしょ」と言っていたけれど。
デフォルメされた大きな頭に大きな目がかわいい。「招く」のは、お客さんや金運なのだそうだ。右脚をあげているか、左脚をあげているかで招くものが変わる。玄関のマネキネコは、左脚をあげているから、お客さんを招くマネキネコだ。
お父さんは「ヴィっちゃんも招いてくれたけんね、ご利益は間違いなか」と笑っていた。
14 招き猫(黒)
マネキネコには黒い猫もいるらしい。駅前の雑貨屋さんに売っているというから、勇利と一緒に見に行った。
ゆ~とぴあみたいに大きな猫もいれば、手のひらにおさまるくらいの小さな猫もいた。どれもかわいい。
勇利に言ったら怒られそうだけれど、勇利に「金」を招いてあげたくて、右脚をあげている猫を買うつもりだった。
でも、お店の中で、勇利が「黒いのが欲しいの? じゃあ、はい」なんて、右手を顔の横に挙げてくれたから、もう、このお店でいちばんかわいいと思っていた黒い猫を買う気が失せてしまった。だって、勇利がいちばんかわいい。顔の横まであげられた右手は、もちろん「猫の手」の形になっていた。かわいい。
金メダルは、勇利が自分で招くつもりでいるらしい。
15 猫の山
長谷津のお年寄りは、猫がいなくなると「猫岳の猫王様のところに修行に行った」と言う。
猫岳は、熊本の阿蘇に本当にある山だ。九州の猫は、みんな、この山に修行に行くらしい。スズキさんの家のメイちゃんも、この猫岳に修行に行って、帰ってきてからは、自分で戸を開け閉めするようになったそうだ。
猫王様は、とても大きな黒猫らしい。やっぱりそうだ。どうりで、長谷津の猫たちが勇利を畏れるはずだ。勇利に「猫王様は、お山のお仕事はしなくていいのかい?」って尋ねたら「僕くらいになると、猫岳までひとっとびなんだ。それに、王様にもなると、やることなんてほとんどないし。夜、寝る前に顔を出したら、それでもうおしまいだよ」って。勇利は「冗談なんだから真に受けないで」って笑っていたけれど、俺はそのうち、勇利の夜の散歩にもついて行ってみるつもり。
16 鍵尾丸尾長尾
まがったしっぽは、幸せを運んでくるらしい。まがったところに幸せが引っかかる、そういう仕組みなんだそうだ。
長谷津には、しっぽがまがった猫が多い。しっぽが丸い猫も多い。勇利と仲のいいミケさんも、しっぽの先がまがっている。丸い尾は「ジャパニーズボブテイル」というんだと、勇利が教えてくれた。たしかに、ほかの国ではあまり見かけない気がする。ボブテイルも、ちょこちょこ動いてとてもかわいい。
勇利みたいに、まっすぐで長いしっぽは、ここでは少し珍しいみたいだ。「幸せも引っかけてこないし、何の変哲もない、普通のしっぽでしょ?」って本人は言うけれど、そのしっぽで俺を引っかけたんだから、充分なんじゃないかと思う。
17 ぴったり
猫は、狭いところが大好きらしい。勇利も狭いところが大好きだ。
空になったダンボール、入ったら絶対に壊れるに決まっているティッシュの空き箱にお菓子の箱。残念ながら、鍋のなかに入っているところはさすがに見たことがない。
ぴったりサイズの箱に、ほんとうにぴったりはまったときの、満足げな顔といったら。勇利は「なんだか安心するし、気持ちいいんだよ」なんて言っていたから、機会があったら俺も一緒にぴったりはまってみたいものだ。
ところで、勇利が好きなのは箱だけではない。勇利は、わざわざ狭いところを選んで通る。引き戸だって、ちょうどぴったり、ちょっと狭いくらいの幅しか開かない。俺の膝に乗るときは、わざわざ腕と胴体の間を無理矢理通り抜けて太ももに脚を乗せる。狭い隙間に無理矢理頭を突っ込むものだから、くすぐったいし、痛いときもあるのだけれど、かわいいから何も言えない。
18 蛍
ナカタさんの家の、コテツくんの話。
ある晩、ナカタさんは、コテツくんが縁側で何かを追いかけているのに気がついた。コテツくんがじゃれついていたのは、指先くらいの光の粒で、ナカタさんは、それを蛍だと思ったんだそうだ。
ところが、縁側をぴょこぴょこ跳びまわっていたコテツくんが、その光の粒をぱくり、と食べてしまった。「あっ」と思った時にはもう遅かった。ナカタさんが慌てて確認したときには、口の中は空っぽだった。
そこで、ナカタさんは気がついた。「蛍なんて、いったいどこから来たんだろう」って。ここ何年も、家の庭で蛍を見たことなんてなかったし、そもそも、縁側のガラス戸は閉まっていて、クーラーだって効いていた。
「お盆だったけん。コテツが食うたの、おいのオヤジだったかもしれん」と、ナカタさんは困ったように笑っていた。コテツくんは、今でも元気いっぱいだそうだ。
19 行灯
絵の猫が動く話は、たくさんある。
ワタナベさんの知り合いの家にある、紙製のランプの猫は、油を舐めるのだそうだ。由緒ある品だけれど、あまり良くないことだから、蔵にしまってあるということだった。
何が良くないのかと聞いてみたら、勇利は「油を舐める猫は、人を食べるようになるからじゃないかな」と言っていた。「僕はカツ丼の方が好きだから安心していいよ」って、俺が猫の話を熱心に聞くようになってから、勇利はこういう冗談を頻繁に口にする。
俺は別に、勇利に食べられるんだったら、かまわないんだけれど。
20 二月二十二日
「犬の日」という記念日がある。十一月一日。日本語の犬の鳴き声「ワンワンワン」にちなんで、この日が「犬の日」なんだとか。十一月十一日や一月一日や一月十一日は、勇利いわく「お菓子メーカーとの兼ね合いとか、大人の事情ってやつ」で、犬の日になれなかったんだそうだ。
「犬の日」があるのだから、「猫の日」だって、もちろんある。猫の日だったら、世界中にある記念日だ。ロシアの猫の日は三月一日。春のはじめは、猫の日だと決まっている。でも、日本では違うらしい。
「犬の日と同じ決め方したんだよ」って勇利は笑う。猫の鳴き声。「ミャウミャウ? それじゃなくって。僕、けっこう猫の日に忠実な猫だと思うんだけど」と、勇利はなかなか正解を教えてくれない。
「にゃーって、僕、そういう風に鳴いてない? それでね、日本語で、それっぽい数字、あるでしょ?」って。
猫じゃない勇利の「にゃー」も、とてもかわいい。
21 お喋り猫
アオキさんちのゴローは、日本語を喋るらしい。タブレットで動画を見せてもらったが、たしかに「ゴハーン」と言っているように聞こえた。勇利は「ゴハンっていうか、『ゴアーン』って聞こえない?」と、否定的だ。
俺が真似して「ゴアーン?」って言ってみたら「ヴィクトル、かわいいから、もう一回言ってみて」って。勇利にも、ようやく俺の気持ちがわかってきたようだ。無闇矢鱈と勇利の動画を撮りたくなってしまう、この気持ちが。
22 喋る教え子
勇利が猫と話しているのを見ると、なんだかとても不思議な気持ちになる。
「ミケさん、昨日どうしたの?」
「ナー」
「そっか。がんばったねぇ」
「ンー」
こんな感じ。ミケさんは「ナーナー」言っているし、勇利は普通に英語と日本語で話している。これでちゃんと通じるっていうんだから驚きだ。ミケさんは、昨日の夕方、大嫌いな動物病院に連れていかれたらしい。お腹の調子が悪かったんだとか。
「どういう仕組みなのかって、そんなの僕にもわかんないよ。昔っからこうだったし、Cタイプはだいたいみんな、こうなんだから」だって。
23 にくきゅう
最近気づいたこと。勇利とミケさんとモモちゃんでは、肉球の色が違う。形も微妙に違う。
勇利は濃いピンク色だし、ミケさんは黒とピンクのまだら、モモちゃんは黒。肉球が黒いモモちゃんは、ネズミを獲るのが得意らしい。
勇利の肉球は、松の形をした砂糖菓子によく似ている。ミケさんの肉球は、三つ並んだ山みたいな形をしていて、モモちゃんのは、長さの違うお米の粒を三つくっつけたみたいな形だ。
これに気づけたのは、勇利も、その友達も、俺の膝の上で体を伸ばしてくつろぐようになったから。
嬉しい。
24 癖
勇利の首の後ろに、そこだけ逆に撫でたような変な癖がついている。前は、こんな風にはなっていなかった気がする。猫の勇利に「ここ、どうしたの?」って聞いても、呆れたような視線が返ってきただけだった。
「ヴィクトル、自分でわかんない?」って、人間に戻った勇利も呆れ顔だ。わからない。なんで? と首を傾げる俺に「ヴィクトルが、いっつも触ってるからだよ」と、勇利が笑った。
俺、そんなに勇利に触ってたのか。
せっかくきれいな毛並みなのにって思ったはずが、そう考えると、なんだか悪い気はしなかった。
25 籠の猫
サナダさんの家のウメさんは、いつも、サナダさんの息子さんが通学に使う自転車のカゴのなかに入っている。毎朝、駅まで自転車で行く息子さんについていって、それから家まで帰ってくる。夕方になると、また駅まで出かけていって、また、息子さんが漕ぐ自転車のカゴに入って帰ってくる。
ウメさんは、もうたいへんなご高齢なので、サナダさんもサナダさんの奥さんも息子さんも、みんな心配しているそうだが、ウメさんは自転車のカゴに入るのを絶対にやめようとしないらしい。今日も、夕方、駅から帰る自転車のカゴのなかにはウメさんがいた。
「ウメは俺のこと、ずっと赤ん坊だと思ってるんだから」と困ったように笑う息子さんは、それでもなんだか嬉しそうだった。
「絶対はみ出るし。僕はやらないからね」とは、ウメさんをカゴに入れた自転車をうらやましそうに見送った俺に対する教え子の言である。
26 停電の夜に
なんの前触れもなく、停電になったことがあった。日本の電力会社は優秀で、停電なんてめったに起きないんだけれど。
そのとき、勇利はソファで仰向けに寝転んでいた俺の胸の上に、でろんと伸びていた。顎の下を擽ると、目を細めてゴロゴロと喉を鳴らす勇利に、俺だって上機嫌だった。
電気が消えたのは、勇利が、かわいい口を大きくあけて何度目かのあくびをした瞬間だった。突然真っ暗になり、空調の切れる音がした。ところが、停電だ、と、慌てて身体を起こそうとする俺の胸の上で、勇利が一声「にゃー」と鳴いた。
その途端、あんだか、真っ暗で空調がきかないことくらい、どうでもよくなってしまった。暗闇の中でも、勇利の瞳は、ほんの僅かばかりの光を集めてキラキラと輝く。小さな息遣い。あたたかくて、ずしりと重たいものが、胸の上で、もぞもぞ動いて丸くなるのがわかった。
秋のはじめくらいの、ある夜の話。
27 皇帝の黒猫
「歩くときはひっそりとし、すこしも足音を立てず雲上の黒竜のようである」
これは、自身の飼っている黒い猫を愛してやまなかった、日本のツァーリの日記に書いてあることらしい。千年以上前のツァーリなのだそうだ。俺が熱心に猫の話を聞いて回るものだから、おもしろがった真利が教えてくれた。
たしかに、この記述には強く同意するところが多い。わかる。とてもよくわかる。勇利がわかりやすく読んでくれる一言一言に、いちいち深く頷いてしまうくらい、よくわかった。特に唸ったのは、この部分。「雲上の黒竜」。その通りだ。黒い猫は、かわいくて素敵で、そのうえかっこいいのだ。
ただ、このツァーリの黒猫よりも、俺の勇利の方がずっとかわいくて素敵でかっこいいに違いないけれど。
たぶん、ここではじめて「俺の勇利」が出たのではないかと。
記念に吹き出しメモ?つけてみました。ここより前にあったら教えてくだしゃい…
28 挨拶
黒くて冷たい鼻を俺の頬にちょこんとくっつける勇利の挨拶にはもうかなり慣れたけれど、その他の猫となると、そうはいかない。
長谷津には猫が多い…と、思う。勇利と一緒に歩いていると、よく猫に会うものだから、きっと多いのだろう。
最初は俺を遠巻きにしていた猫たちも、最近は、ずいぶん俺の存在に慣れたようで、道で会うと、わざわざ挨拶に来てくれる。長谷津の猫たちは、勇利のことが大好きだから、勇利とよく一緒にいる俺のことも覚えてくれたらしい。猫が、あちらからわざわざ近寄ってきてくれるなんて、長谷津に来るまでは考えられなかったことだ。
さて、その猫たちの挨拶なんだけれど。まずは、俺の近くにやって来て、ふんふんと匂いを確認する。そして、それから、俺の脛だとかふくらはぎの辺りに、ゴツンと頭をぶつけてくるのだ。これがけっこう痛い。
勇利は「撫でてって言ってるんだよ」って笑うし、俺だって挨拶は嬉しいんだけれど、痛いものは痛いのだ。
29 クロネコさん
「これ、倉庫から出てきたんですけど、みんなで取り合いになっちゃったんで。こんなことになるなら、じゃあ、ヴィクトルコーチにあげましょうってなったんですよ」
片言の英語でそう言って、いつものクロネコさんが俺に紙製の筒を渡した。
「もう五年も前のですけどね、またお願いしますって、勝生選手にもお伝えください!」
爽やかに去っていくクロネコさんを見送ってから覗き込んでみると、筒の中には、一枚のポスター。慎重に引っぱりだして広げたそれは、クロネコさんの制服を着てはにかんだ笑顔の、勇利のポスターだった。長谷津の街中でも、ゆ~とぴあでも、見たことがないやつ。
この後、俺の部屋に飾られたポスターを見た勇利とひと悶着あったけれど、これは黙っていた勇利の方が悪いと思う。絶対に。
30 次に好きとかそれくらい
長谷津の猫たちは、勇利のことが大好きだ。勇利がよくトレーニングに使う石段、その石段をのぼった広場にあるベンチで休憩していると、どこからともなく、猫たちが集まってくることがある。
最初は俺を避けていた猫たちも、最近では俺の膝の上にだって遠慮なく乗っかってくるようになった。勇利みたいだ。ただ、俺の膝に乗る子たちは、どうにも「勇利の膝が埋まっているから仕方なく…」みたいな、渋々、みたいな雰囲気なのが、少し切ない。勇利に言ったら「気のせいでしょ」って笑われた。
でも、俺がちょっと拗ねたような顔をしたら(別に拗ねてもいないんだけれど)「僕はヴィクトルの抱っこがいちばん好きだよ」って言ってくれたから、もうそれで充分。俺も、勇利がいちばん好き。
31 家猫
ヤスダさんは、真利の友達だ。ヤスダさんの家には猫はいない。いないはずなのに、ヤスダさんのお母さんが「シジミちゃん」と呼ぶと、どこからともなく「みゃー」と返事があるそうだ。夜、真っ暗な廊下を歩いていると、足首や脛の辺りに柔らかい毛並みが触れることもあるらしい。
「シジミちゃん」は、ヤスダさんが小さかった頃に家にいた猫だ。お母さんが実家から連れてきた猫で、白いお腹にシジミみたいな模様があったので、「シジミちゃん」と呼ばれていたのだそうで。
「シジミちゃん」は、ヤスダさんが幼稚園生のとき、ある日、出かけてそのまま帰らなかった。ところが、「シジミちゃん」は帰らなかったのに、いつの間にか、ヤスダさんの家のあちこちに「シジミちゃん」の声と気配が戻ってきたのだ。
「うちにはシジミちゃんがいるから」と、そう話すヤスダさんの家には、だから、今でも猫はいないのだそうだ。
32 顔見せ
何人かのお母さんが勇利に会いに来た。なんのためって、産まれた子猫たちを勇利に見せるためだ。
「代表」みたいな子猫を連れてくるお母さんもいれば、どうやったのか、産まれた子猫をすべて連れてきた豪気なお母さんもいた。
どのお母さんも、連れてきた子猫を勇利の手のひらに乗っけて「元気でかわいいねぇ」という言葉を聞くと、誇らしげな顔をして、それで満足げに帰っていった。
ところで、うちの勇利の話だ。俺が勇利の手のなかの子猫を「かわいい、かわいい」って言ったものだから、わかりやすく拗ねてしまった。何時間も抱っこして、髪を撫でて、黒猫の勇利がどれだけ美しくってかわいいのか言い聞かせなければいけなかったんだから、なかなか大変だった。
俺の教え子は、面倒くさくて手がかかって、すごくかわいい。
33 の、猫
「ヴィクトルって、猫、好きだったんだ」そんな言葉と一緒に、彼が可愛がっている猫の写真を送ってきたのはクリスだった。毛足の長い、白い猫。大きな目は澄んだ緑色をしている。「君のSNS、最近ずっと猫のことばっかりじゃないか。それか、勇利のこと」って、たしかにその通りだ。
「クリスの猫だ」
タブレットを横から覗き込んだ勇利が、写真を見て言った。ドキリとした。
「ゆうり、こっちむいて」と、ふいうちで一枚、撮ってすぐさまクリスに送信する。「お返しだよ」って。
急に写真を撮られた勇利は目を丸くして、それからぷんぷん怒っていたけれど、俺は、一分とかからずに返ってきた言葉に、ひどく満足した。
「君の猫もとてもかわいいね」って。
「クリスの」「君の」。いいことなのかどうかはわかりかねるけれど、なんだか、ドキッとせずにはいられない言葉だった。
34 オニギリ
黒猫の勇利は、自分より大きなものでも平気で持ち運ぶ。
夜、俺の膝の上でウトウトしていたと思ったら、急にぱっと立ち上がって、部屋を出ていってしまったから驚いた。ブラッシングをした後の勇利が、俺と一緒に寝ないなんてかなり一大事だ。ところが、マッカチンと「どうしよう」なんて顔を見合わせているうちに勇利は自分で戻ってきた。大きなクッションを咥えて、引きずりながら。
勇利の持ってきたクッションは、試合の後に大量に投げ込まれる、例のあのクッションだ。
一抱えはあるそれを、勇利は、なんてことなさそうな顔で俺のベッドに引きずりあげると、その上に丸くなって満足そうなため息を漏らした。そして、まんま、眠ってしまった。クッションも大きいけれど、勇利も大きいものだから、しっぽなんかがはみ出している。
クッションからは勇利の部屋の匂いがする気がして、なんだか少しソワソワした。
35 海苔
ランチボックスにライスボールが入っていた。オニギリ。中身はウメボシとコンブ。どちらも美味しい。
今日のオニギリは真っ黒だった。全体に海苔が巻いてあるからだ。全部真っ黒なこのオニギリは、たぶん、真利がつくってくれたんだろう。お母さんのつくってくれるオニギリの海苔は、もう少し控えめだから。真利がつくってくれたオニギリもとても美味しい。
口に入れる瞬間に、ふと思い出した。勇利のクッション。何日か前に、寝ぼけた勇利が俺のベッドに運んできた、オニギリの形の、でっかいやつ。大きなクッションの上で中途半端に丸くなった勇利は、そうだ、この、海苔全部巻きのオニギリにそっくりだった。ほとんど真っ黒で、ところどころから、白いご飯がはみ出していて……
思わず漏れた笑いに勇利が不思議そうな顔をする。「このオニギリ、ゆうりにそっくりだ」って言ったら、不満そうな表情と一緒に「黒いところだけだろ」という言葉が返ってきた。
そういうことじゃないんだけどなぁ。
36 フミフミ
勇利がマッカチンのお腹をフミフミしてた。かわいい。
あれ、俺にもしてくれないかなぁ。
37 耳に吐息
「ヴィクトルさぁ、酔っぱらって僕の耳ふーふーするの、やめてよね」
朝、起きてすぐ勇利に怒られた。
ふーふー? と聞き返すと、耳に「ふーーー」って息を吹きかけられる。くすぐったい。
「ふー」ってすると大きな耳がぴくぴく動くのがかわいくって、何度も何度もやってしまった自覚はある。そうか。嫌だったんだ。勇利が俺に懐いているからって、きっと調子に乗りすぎた。
「ごめんね、嫌だったね。ゆうりが嫌ならもうし…」
「一日一回までにしてよ」
しないよって言いかけた俺を勇利が遮る。
「ヴィクトル、僕の耳好きだもんね。一回なら、別にいいよ」
これだから俺が調子に乗るんだって、勇利は全然わかってない。
38 会釈
「おつかれさまで~す!」
「どうも」
「ヴィクトルコーチもこんにちは~! お世話になってま~す!」
「コンニチハ~」
黄色いユニフォームに黄色いキャップの彼らは、いつでも元気いっぱいに挨拶してくれる。どこで会っても変わらない。
どのお兄さんでも、お姉さんでもおんなじだ。キャップを脱いで、もしくは、ちょっとだけ持ち上げて必ず、勇利に「おつかれさまです」と言う。俺には「こんにちは」とか「お世話になってます」だとか。誰にでも言うのかと思ったら、どうやらそうでもないらしい。不思議に思って勇利に尋ねてみたら、ちょっと困ったみたいに笑って「『クロネコさん』だからね」って。
黄色いユニフォームで、いつも元気な挨拶をくれるお兄さんやお姉さんが「クロネコさん」で、勇利みたいな黒猫を、日本語では「クロネコ」って言うんだって、まだ知らなかった当時の話だ。
39 集会
勇利が「猫の集会」に連れていってくれた。
場所は秘密。そういう約束だからだ。ただ、日当たりはいいのに人目につかない、なんだか不思議な場所だった、とだけ。
集会の内容も詳しくは秘密。変に厳粛で、なのに思わずクスッと笑ってしまうような、そんな雰囲気で、そのなかで、ずっと真面目な顔をしているのは、なかなか骨が折れた。
とにかくたくさんの猫たちがいて、初めて会う猫もいれば、知っている顔もあった。撫でさせてくれた子もいれば、俺のことを遠巻きにしているだけの子もいた。
「マッカチンはダメなんだ。ごめんね」って勇利が言うものだから、行きも帰りも二人っきり。マッカチンが一緒じゃないのは残念だったけど、ずっと繋いでいた手があったかくって、それがとても嬉しかった。
すごく今さらなんだけど、なんで手つないでるんだろ……いや、うーーーーーーん。まぁ手つなぐくらいは、まぁ、うん、師弟だもんね…
誤字脱字等、そのままになってるところがあったら、チャットで指摘していただけるとうれぴいです……
40 ちゅーちゅー
猫の姿の勇利は、舌をしまい忘れたまんま眠ってしまうことがある。そういうときには、ちらりとはみ出たピンク色の舌がかわいくて、ついつい指でつついてしまう。
たいていの場合、勇利はつつかれた舌をさっさと引っ込めてしまうんだけれど、ごくたまに、差し出した指先に、ぱくりと食いつくことがある。ぱくり、と食いついて、そのあと、しばらくちゅーちゅー吸い付いて、満足すると口を離す。
ところで、実は、俺は昼寝をしている勇利の唇に、自分の指をくっつけてみたことがある。もちろん、勇利が人型のとき。勇利はどんな反応をするんだろうって思って。
案の定、勇利は俺の指をぱくりと咥えると、猫のときにたまにするのと同じように、ちゅーちゅー吸い始めてしまった。
指先の湿った感触に、なんだかいけないことをしている気分になって、すぐに指を引っ込めたけど、このいたずらについては勇利には秘密にしておこうと思う。
41 抱っこ
アクセルは「パパの抱っこがいちばんすき!」なんだそうだ。ルッツもパパ。ループは「ママがいい」んだって。
三つ子の話をふんふん聞いていた勇利が、そこでなんて言ったと思う?
「僕はヴィクトルの抱っこがいちばん好きだな」
だって!!!!
42 猫っ毛
柔らかい髪の毛を「猫っ毛」というらしい。
俺の髪の毛は「猫っ毛」だけど、勇利の髪は「猫っ毛」じゃないって。俺の髪の毛を乾かしながら、勇利が教えてくれた。
「ヴィクトルが猫で、僕が猫じゃないっておもしろいね」って勇利は笑った。「僕、ヴィクトルの髪の毛好きだな」だって。
ツヤツヤしてて真っ黒で、コシがあって、指の間をサラサラ撫でていく。ずっとずっと触っていたくなる。
俺は勇利の髪の毛の方が好きだけどなぁ。
43 お寺の猫
勇利の家のお寺さまには、とんでもなく長生きな猫がいる。勇利が「じいさま」と呼ぶその猫に、俺も一度だけ会うことができた。
頭の白くなった住職さんが抱き上げて連れてきた「じいさま」は、見るからによぼよぼで、起きているのか寝ているのかわからないような、大年寄りの白い猫だった。勇利が、そのふわふわの白い毛をそっと撫でながら「もとは僕とおんなじ、真っ黒な猫だったんだって」と言うと、「じいさま」はちょっとだけ目を開けて「ナァ」と一声だけ鳴いて、また眠ってしまった。
その「じいさま」が、実は、勇利がデトロイトにいる間に姿を消してしまっていた、と知ったのは、それからずっと後のことだった。
「じいさま、勇利くんのこと、心配しとったけんねぇ」と、しみじみ話してくれたのは、まだ真っ黒い髪をした住職さん。このお寺さまの住職さんは、まだ白髪になるような年齢ではないのだそうで。と、いうことは、俺と勇利が会った、あの白髪の住職さんは…。
「今度こそ、本物だけんね」と自分で言って、笑っていたけれど、ちょっとだけ目が潤んでいるのがわかった。「じいさま」は愛されていたんだろう。
ここらへんから、はっきり「びくゆう」になるようにがんばりはじめたと思う。ターニングポイントの44
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「来週のアイスショーのときに着けてって。自分たちで渡しなさいって言ったのに、あの子たちってば、照れちゃって」
そう言って、優子が勇利に手渡したのは、小さな袋だった。くりくりとした目の、黒猫のプリントが可愛らしい。中に入っていたのは、真っ赤なビロードのリボン。それを見た勇利は弱り切ったように「僕の昔のビデオ見たんだって…それで、おこづかい出し合って買ってくれたんだって…」と耳をへたらせていた。なんだかんだ言って、勇利は優子の娘たちに弱い。そうまで言われて、そのかわいいお願いを叶えないわけがない。
「どこに着けるの?」という俺の疑問は、件のアイスショーの本番でやっと解消された。
赤い裏地をちらつかせながら、挑発的に今季のプログラムを披露する勇利の、世界でいちばん優美なしっぽを飾る蝶々結び。たいへんかわいらしくもどこか妖しく、うつくしいそのしっぽの動画やら写真やらは、案の定、SNSでとんでもなく拡散されまくって、ショーの後の勇利を一週間は悶絶させ続けることになった。
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ところで、そのアイスショーだけれど。勇利は自分の出番が終わったあと、まっすぐに俺のところまで戻ってきた。そして、俺に背を向けて、長いしっぽを目の前でふりふりと揺らしてみせた。それから、黒くて長いしっぽに巻き付いてはらはら揺れるリボンに目を奪われている俺を流し見て、一言。
「ヴィクトル、リボンとって」って。
「とっていいの? 俺が?」
思わず聞き返してしまった。だって、勇利は、それまで俺にしっぽを触らせてくれたことなんてなかったんだから。ただの一度も。
正直、ものすごくドキドキした。初めて女の子とキスしたときだって、ここまでドキドキしなかたっていうくらい。勇利の背中のファスナーをおろすときだって、なかなかドキドキするけれど、その比じゃなかった。解いたリボンは、勇利の体温であたたまっていて、これはいよいよまずい、と思った。
なんで自分で解かなかったのかって、あとで聞いてみたけれど、結局、勇利は笑っているばかりで答えを教えてはくれなかった。
46 猫焼
猫焼きのおばあちゃんに会った。
猫を焼くって、それだけ聞くとびっくりするけれど、このおばあちゃんは、別に、猫たちに怖いことをしているわけじゃない。
僕もよくひっくり返してもらったなぁ、なんて、勇利は呑気なことを言っていたっけ。
おばあちゃんの前のアスファルトには、長谷津の猫たちがごろんごろんと伸びていた。六匹はいたはずだと思う。その猫たちを、おばあちゃんは、のんびり、のんびり、ゆったりとひっくり返していた。片面があたたまったら、もう片面。次はその隣の猫。しばらくしたら別の猫。そんな具合に。
猫たちはされるがままだ。
「あれ、気持ちいいんだよねぇ」
目を細めた勇利を見て、おばあちゃんが、大きな黒猫を、よいしょよいしょとひっくり返す場面を想像してしまった。
猫焼きのおばあちゃん。いいなぁ。
47 新築
ヒラノさんの新築のお宅に、勇利と二人でお邪魔した。
まだ真新しい、大工さん以外は誰も入ったことのないお宅に最初に足を踏み入れたのは、勇利だった。
「ほんとにいいの?」と困惑する勇利の背を、ヒラノさんと一緒になって「いいからいいから」と玄関に押し込んだのは俺だ。ヒラノさんは、ゆ~とぴあの大切な大切な常連さんだから。
ロシアには、新しい家のドアを最初にくぐったのが猫だと、その家の持ち主に幸運が訪れるのだという言い伝えがある。そう話したら、ヒラノさんは「だったら、おいは勇利くんがよか」と豪快に笑ってくれた。
ゆ~とぴあに、勇利に、とてもとても良くしてくれるヒラノさんには、幸せになってもらわなければ、困るのだ。
玄関の土間でオロオロする勇利に、ヒラノさん一家と手を合わせた。日本での、お願いごとの作法だって聞いたから。
ずっと見守ってくださってる方、ありがとうございます。勇気づけられます
48 爪
ピンク色のかわいい肉球を押すと、鋭い爪がにょっきり生えてくる。
人間の勇利の爪を念入りに磨いているせいか、猫の勇利の爪だってツヤツヤきらきら輝いている。俺に前脚を揉まれた勇利は、呆れたような顔でされるがまんまだ。長いしっぽが、たん、たん、と俺の腿を打つ。もうやめてよ、ってことかもしれない。
そういえば、と、ミケさんや、俺に抱っこさせてくれる長谷津の他の猫たちのことを思い出した。慣れない俺が、おっかなびっくり抱き上げたせいで、服や腕に爪を立てられたことがあったのだ。服にも腕にも小さなひっかき傷ができて、それを見た勇利が真っ青になって、その勇利を見たミケさんたちも、なんだか申し訳なさそうな顔をしていたっけ。
ところで、俺は、勇利には爪を立てられたことがない。
「遠慮しなくても、いいんだぞ?」
思わずそう言うと、勇利はまた呆れたような目で俺を見て、ふー、と鼻を鳴らした。
49 夢
黒猫の夢は幸運の前触れだ。
勇利と、眩しいくらいに白い砂浜を散歩する夢を見た。大きくてかわいくて美しくてかっこいい、黒い猫になった勇利とだ。
勇利は猫の姿で人前に出ることを嫌っているから、明るいうちに一緒に散歩するなんて、現実ではありえない。とてもとても素敵な夢だった。
「素敵な夢をみたよ」と勇利に言うと、勇利は「僕もだよ」と目を細めた。
「どんな夢?」と知りたがる俺に、勇利は「ないしょ」と笑ってから、「ないしょだけど、ヴィクトルがでてきたんだ」って。
本物の俺ならここにもいるんだけど。夢の中の自分に負けたような気がして、なんだか釈然としなかった。
50 黒猫と写真
黒い猫は、写真に撮るのが難しい。らしい。
上手く撮らないと、真っ黒い謎の塊になってしまう。らしい。
「そうかなぁ」と、思わず呟いてしまう。俺のiPhoneにどんどんたまっていく勇利の写真は、どれもこれも全部かわいいからだ。
最近、特にお気に入りの一枚を表示する。俺の枕の上で丸くなって眠っている黒猫の勇利。真っ黒で、枕からはみ出すくらい大きくて、とにかくかわいい。ポイントは、無造作に伸ばされた長いしっぽ。勇利のしっぽはとても素敵だ。もちろん、大きな黒い耳も。
「こんなにかわいいのになぁ」
「それ、もしかしなくても僕の写真?」
また、思わず呟くと、今度は俺のお腹を枕にしていた勇利が、呆れたように言った。こちらは黒い耳を頭のてっぺんにくっつけた、人間の方の勇利。
「もちろん、こっちの勇利もすごくかわいい」
俺の方に向けられた健気な耳も、真っすぐな髪もいっしょくたにしてかき回す。はいはい、なんて俺を適当にあしらう勇利の、貝殻みたいな白い耳が真っ赤っかになっていたのには、気づかないふりをした。
これ、最初から最後まで数えたら、コーチは何回勝生選手に「かわいい
って言ってるんだろう。などと、ふと思いました。なんかすごい何回も何回も「かわいい」って打った気がする。気のせいじゃない
51 ネコノオンガエシ
木の上に登って、おりられなくなった猫を助けたことがあった。木の上っていっても、そんなに高いところじゃない。俺の目の高さと同じくらい。黒いハチワレ?で、鼻も黒い、まだ小さな猫だったと思う。
思わず手を伸ばして地面におろしてやると、一目散に逃げて行ってしまった。急に触るなんて怖がらせちゃったかな、悪いことしちゃったな、ゆうりどう思う? って勇利に話したのが、その日の夜。勇利は「そんなに気にしなくていいと思うよ」って言ってたっけ。
そして次の日。朝、起きたら、縁側にまだ青いエノコログサが数本置いてあった。エノコログサ。ネコジャラシ。ロシアじゃ見たことなかったけど、ミケさんがたまに持ってくるから俺も知っている。猫の大好きな草だ。
「すごいねヴィクトル、映画みたいだ」
「ネコノオンガエシだ…」
「猫の事務所に連れてってもらえるかも」
結局、「猫の事務所」には行けなかったけれど、そのネコジャラシは、まだ、俺の部屋に大切に飾ってある。
52 洗顔
「勇利! 顔洗って!!」
「はやくー!」
「こっちー!」
勇利が水場へ連行された。連れて行ったのは、かわいい三つ子たち。勇利は、優子の娘たちに弱いから「はいはい」なんて、されるがまんまに引っ張られていく。
「勇利くん、ごめんね~!」と見送る優子に、あれ、なに? と聞くと「明日遠足なの」って。九州では、猫が顔を洗った次の日は晴れになるんだって。
ちなみに、次の日は朝から雲一つない快晴だった。今度俺もお願いしてみよう。
53 勇利のしっぽ
勇利が俺にしっぽを触らせてくれた。
ちょっと間違って、とか、指先がかすって、なんてものじゃない。ちゃんと、触らせてくれた。
なんてことだ。どうしよう。
勇利はすぐに「ヴィクトルなら、いいよ」って言って、俺に何でも許すのをやめたほうがいい。いや、やめなくてもいいから、もうちょっと、ちゃんと考えてから言った方がいい。ほんとうに。お願いだから。
54 勇利のしっぽ②
調べたら、やっぱり、Cタイプは、自分のしっぽを特別な人にしか触らせないんだって。
特別な人。
ピチットに「触ったことある?」ってメールしたら、すぐに「ないよ!」って返信があった。ピチットは、勇利といちばん仲がいい。同じCタイプだし、デトロイトではルームシェアもしていたし、同じコーチに習うチームメイトでもあった。きっと、親友っていうやつだ。
ピチットは、触ったことがない。でも、俺ならいいんだ、って。
勇利のことは、どれだけ一緒にいても、わかるようでわからない。
55 猫目
夜道で、ドキッとさせられることがある。
街頭の光が届かない場所で、何かがキラリ、と光るからだ。びっくりしてよく見てみると、それは猫の目なんだけれど。
勇利の目もよく光る。少し濃い淹れたての紅茶みたいな色をしているその瞳は、人間の姿でいるときよりも、猫の姿でいるときの方が、光を集めやすいのだそうだ。だから、暗いなかでも光って見えるらしい。
ミケさんの目は薄い緑色。モモちゃんの目は金色。シラタマの目は俺に似た青い色。アンパンの目は、なんと、緑と青のオッドアイだ。どの猫の目も、神秘的でとても美しい。
そういえば、俺が連れていってもらった「猫の集会」は、とてものどかで、でもどこか厳粛な昼間の会だったけれど、夜、人が寝静まったあと、暗闇のなかで、たくさんの猫たちの瞳がキラキラ輝くところも見てみたい。もし、夜の集会があるのなら、また今度、勇利にお願いして連れていってもらおうと思う。
56 猫の生る木
猫の生る木を見つけた。
見上げるほどの立派な松の枝に、たくさんの猫たちが生っている。いや、正確に表現すると、松の枝にぶら下げられたたくさんの籠のなかに猫たちが入っているのだ。
ぶらぶら、ぶらんこのように緩やかに揺れる籠のなかで、さまざまな模様の猫たちが微睡んでいる。シロ、ブチ、ミケ、トラ、ハチワレ、それからクロ。
「これがほんとのキャットツリーだね」
「みて、ゆうり。クロネコがいるよ」
クロネコ、という日本語の響きが好きだ。だって、勇利はクロネコだから。
俺が「クロネコ」と言ったのがわかったのか、籠のなかで丸くなっていたクロネコが、ぱちりと目を開いて、こちらを見る。
「ああ、前田さんちの太郎くんだ」
「タロー」
名前を呼ばれて、今度は「ナーーーン」と一声鳴いた。まだ若いクロネコだ。タロー、クン、だから、きっと男の子だろうと思う。鋭い瞳孔の金目が美しい。
「クロネコはみんな、かっこよくってかわいい。でも、」
「僕がいちばんなんでしょう?」
ごくごく当たり前みたいに勇利が言う。勇利はこういうところも、とてもかわいい。
57 氷
勇利は、猫でいるときには、あまりものを食べない。が、マッカチンがおやつを食べている姿を、どうにも羨ましそうに見ている気がして、思い切って「ゆうりも食べる?」と聞いたことがある。そのときは、結局「ンーン」って、かわいく断られてしまったんだけど。
ところが次の日、「夜だし、花かつおくらいなら…」と、恥ずかしそうに自己申告された。それからは、たまに、夜、寝る前に、花かつおをぺろぺろ舐めている。ちょっとだけ。
あまり食べないけれど、氷も好きらしい。俺がお酒を飲んだあと、氷の入ったグラスをそのまんまにしておくと、よく、グラスのなかの氷をちょいちょいつついている。つっついて、前脚の先についた冷たい水滴をぺろりと舐めるのだ。
俺がグラスから氷を出してやればいい、というのはよくわかっている。でも、細長いグラスのなかに前脚を突っ込んで、四苦八苦している姿がかわいいせいで、どうにも手助けする気が起きないのだから、しかたがない。
58 猫の魚屋さん
ゆ~とぴあ勝生が贔屓にしている魚屋さんは、猫の魚屋さんだ。江戸時代から続く老舗らしい。魚屋さんのご主人は、気のいい茶トラで、同じCタイプの勇利のことを、こよなく応援してくれている。
魚屋さんの家には、代々必ずCタイプの子どもが生まれるそうで、ご主人のお子さんも、元気のいい双子のCタイプだ。
江戸時代に、魚の移動販売(「ボテフリ」とうんだそうだ)をしていたご先祖さまが、あるとき、猫助けをして、その猫が恩返しにお嫁にやってきて…と、そういう縁起の魚屋さんなのだそうで。
気のいいご主人は、最近、ネット通販なども始めて、そちらもそこそこ繁盛しているらしく、毎日にこにこと忙しそうにしている。わざわざ遠方から足を運んでくれるお客さんも、たくさんいるのだと聞いている。
猫耳に猫のしっぽの魚屋さんに「ゴヒイキニ!」と言われたら、そりゃあついつい贔屓にしてしまうだろうと思う。もし、勇利が魚屋さんだったら、俺は毎日通いつめるに違いないんだから。
59 あったかい
猫は、あたたかい場所を見つける天才だ。
ミケさんは、よく、日当たりのいい塀の上やベンチの上で微睡んでいるし、アンパンは、炊飯器やポットの上が大好きらしい。
勇利もそうだ。勇利は、俺の上が大好きだ。
黒い猫の姿になると、いつも俺の太ももの上に乗りあがってくるし、お腹の上にだって乗っかるし、なんなら、俺が着ている服のなかにだって入ってくる。
「マッカチンもなかなかあったかいけど、でも、僕にはヴィクトルがいちばんあったかいよ」って。
俺にも、勇利がいちばんあたたかい。あたたかくて、ぐんにゃりしていて重くって、そして、かわいい。
60 境目
しっぽと皮膚の境目を撫でるのが好き。勇利はくすぐったいって言うけど、俺は好き。
だって、勇利が「ヴィクトルなら、いいよ」って触らせてくれるから。だから、好き。
61 香炉猫
マエダさんに、香炉を見せてもらった。
マエダさんのおじいさんのお父さんか誰かが、明治時代に古物商で買ったものらしい。両掌におさまるくらいの大きさで、青磁の、丸い香炉だった。
この香炉でお香を焚くと、煙が猫の形になる。見たい見たいとせがむ俺に、マエダさんは、快く披露してくれた。
ゆるゆるとあふれ出た白い煙がゆっくりと猫の形になって、俺たちの前に行儀よく座る。と、ゆらり、と頭を動かしたその猫が、俺を見て、それから勇利を見た。
猫は、勇利の方へゆったりと歩いて行って、そして、頭を何度か擦りつけると、そのまんま、膝の上に乗っかって、そこで丸くなってしまった。
結局、香炉の猫は、お香が燃え尽きるまで勇利の膝に懐いていたし、俺の気のせいでなければゴロゴロと喉を鳴らしてすらいたし、その日はずっと勇利から白檀が香っていた。
俺の教え子は、香炉の猫にも好かれるらしい。
62 加湿器
香炉の猫を一緒に見た、ゴトウさんに聞いた話。
ゴトウさんの娘さんがリビングで試験勉強をしていたある夜、娘さんは、ふと、自分の横に置いてある加湿器から噴き出す蒸気がおかしいのに気づいた。蒸気は上にあがって消えるのではなく、その場でわだかまって、それから、娘さんの目の前で、見る間に男の生首の形になった。
娘さんには、その生首が、とんでもなく恐ろしい表情で自分を睨みつけているように見えたそうだ。
思わず悲鳴をあげる娘さん。ところが、折悪く、ゴトウさんは留守にしていたのだそうで。そこに駆けつけたのが、当時、ゴトウさんの家で引き取ったばかりの子猫だった。
まだ両手に乗っかるほどだった小さな子猫は、毛を逆立てて威嚇すると、勇敢にも、その生首に飛びついた。飛びつかれた生首は、はじけるように掻き消えて、それから二度と現れなかったそうだ。
チョコというかわいらしい名のその子猫は、成長して体重二十キロを超える大物になった今でも、ゴトウさんの家で、それはそれは大切にされている。
63 いちばんすき
勇利があんまりにも猫に好かれるものだから「勇利は猫にモテモテだね」と言ったことがある。「どうせ人間にはモテませんよ」と拗ねる勇利を「俺は猫に好かれないから、羨ましいんだよ」と宥めたら、不思議そうな顔をされた。
きょとん、とした顔で「僕はヴィクトルがいちばん好きだけど」って。
勇利は、俺のことが、いちばん好き、なんだって。
64 青い蝶
勇利の耳の先っぽに、蝶が一羽とまっていた。ゆっくりと閉じて、開いてを繰り返す翅は、日の光を受けて、眩いばかりの青色に輝いている。
青い蝶は不思議だ。わずかな光でも、驚くほど鮮やかに輝くから。発光器官があるわけでもないのに、その翅自体が光を放っているようにすら見える。
ところで、耳の先っぽにとまった蝶だ。蝶は、勇利の耳がぴくりと動くと、驚いたようにそこを離れるのに、またすぐに戻ってきては同じ場所にとまる。というのを、何度も何度も繰り返していた。翅を休めたいのなら、もっといい場所がありそうなものなのに、わざわざ俺の声に反応してよく動く勇利の耳の先っぽを選んでとまるのだ。
蝶は、人の魂の象徴だという。人は、魂だけになると、蝶の姿になるのだとか。
ふと、俺の魂について考えた。俺も、魂だけになったら、きっと勇利のところに飛んできて、この青い蝶みたいに何度も何度も勇利の耳の先っぽにとまりたがるに違いない。
それからこれは余談だが。真っ黒な猫の耳の先っぽに、青い蝶がとまっている姿は、なんだか神秘的でとっても美しくって、でもかわいかったから、ここに書き残しておく。
65 くつろぐ
勇利の、くつろいでいる姿が好きだ。四肢を投げ出して、黒くて長いしっぽで、気だるげに、ぱたん、ぱたん、とクッションを叩く。たとえようもなく優美で、何時間だって見ていられる気がしてしまう。
あんまりうっとりと眺めていたものだから、次の日、勇利に「さすがに見すぎでしょ」と怒られた。いや、怒られたわけじゃないのか。ほっぺた赤かったし。
俺は、勇利を抱っこして、撫でて、ブラッシングして、一緒に寝るのも好きだけど、見ているのだって同じくらい大好きだ。猫の勇利も。人間の勇利も。
66 匂い
ミケさんの額からは、なんだか甘い匂いがする。背中はお日さまの匂い。たまに、かすかに潮の香りなんかがするときもある。モモちゃんは、不思議なハーブの匂い。タンスに入れる虫よけの匂いなんだとか。
勇利からは、石鹸の匂いがする。俺と同じ石鹸の匂いだ。
でも、ミケさんに言わせると(もちろん、残念ながら、俺が直接聞けたわけではない。「ミケさんが言ってた」って、勇利に教えてもらったんだけれど)、俺からは勇利の匂いがするらしい。
ミケさんの言う、勇利の匂い、ってどんな匂いなんだろう。もし、俺が猫だったら、きっと「勇利の匂い」ってわかったに違いないのに。こういうとき、猫じゃないって、けっこう不便だ。
67 まばたき