地の文が埋められない病気です
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眩しい。あと、酔った。ヒールのある靴でふらつきながら店から出てきた麻木は、薄暗い店内とネオンまみれの街のギャップに眉を寄せた。鞄の持ち手を握り締める。
夜が広がっているはずの屋外は、人波と光で黒を塗りつぶしたような雰囲気だ。曇っているせいか、街明かりが強すぎるせいか星はひとつも見えなかった。彼女がスーツの袖の下に隠れていた腕時計を引っ張り出した。時刻は十時四十五分。終電には間に合うが、その前に体力がそこを尽きる。そんな悲しい確信を持って彼女は髪の毛を掻き回す。
「こんな接待男に任せろよ」
ド派手な女と酒飲むのは女の得意分野では確実にないでしょ。無い。
少し乱暴な物言いが麻木の口から垂れた。吐き捨てる先は脳内によぎる、「わからないことは聞け」と「一々そんなこと聞くな」を反復横跳びする上司の顔面である。普段なら男性社員があの上司の無茶ぶりから庇ってくれるはずなのに、運悪く麻木を気に入っている優しい社員は出張へと駆り出されていた。
今日はまさか厄日か、とため息を吐く麻木は、スマートフォンのマップアプリを起動した。大通りから外れた方が帰り道は近いのか、ほんのと彼女は考える。一瞬歩きスマホのようなかたちになった、その時だった。
「おねえさん、こんな所で一人なの」
「危機感ないねえ」
顔を上げたそこには駅に続く道ではなく徒党を組んだ男たち。髪色が様々で、チェーンのついたズボンを履いている。凄くテンプレートに添っている。そしてその楽しそうな表情を見る限り、決して道案内をしてくれる訳では無さそうだった。持っていた鞄の持ち手を握り直そうとした手が汗で滑る。黒い鞄は落下しながら中身をスピードくじのように散らける。
「お酒と気持ちいいこと好き?」
「返事しろよ」
今日は厄日だ。彼女がそう確信した瞬間だった。
「あー、悪いやつみっけ」
底抜けに明るい声とともに、ゆらり、と男たちの影が揺れた。くっついている影の中から、一欠片の大きな暗がりが現れた。
多分、人だ。麻木は目を凝らした。姿は逆光でよく見えない。それは瞬きをする間にずんずんと麻木と彼女を取り巻く男に近寄ってくる。そのうち手を伸ばせる距離に届いた影が、一番近くの男の手首を引っ掴んで、……力任せに投げた。人体が重力に従ってアスファルトに叩きつけられる。大の男が放物線を描く瞬間を麻木は生まれて初めて見た。
「投げた」
なげた。脳を整理するためか状況の衝撃を緩和するためか、彼女の唇が勝手に何かを言う。
一拍遅れて何が起きたか理解したらしい男たちを影は見咎めた。騒ぐ彼らに相対する人物はやけに楽しそうだ。
「待て待て、逃げんな逃げんな」
「それ」がピアスをした男の耳たぶを引っ張って振り向かせた。腹を蹴る。もう一人を一本背負いで投げ飛ばし、逃げ遅れた一人を巻き込んで地面に押し付ける。
アクションゲームのようだった。
目の前の暴力に、思わず麻木はへたり込む。自分に矛先が向いていないことだけが救いだ、と思いながら頭を守るように手で自分を被った。声と鈍い音が止まない。怖い。
足音がした。音が止んだ。顔を上げる。そこには、髪の短い男の形をした影が一人立っていた。周りには明らかに意識のない、さっきのガラの悪そうな人達がオブジェのように転がっていた。
助かったのか。いや、状況はもっと悪くなったのかもしれない。思わず頬を抓りたくなるような信じられない光景に、麻木の脳がショートする。
「よっわ」
長針が午後十一時を指した。
呟いた男が残念そうに誰かの頭を蹴っ飛ばすのを、彼女は鞄から散らばった資料を集めようともせず見ていた。座り込んで、呆気に取られたままで。
「もっと体力使いたいんだけどな」
そうとも知らず、早くも目の前の物言わなくなった人間たちを見下ろして男は首を鳴らした。コキ、というその小さな音で彼女が我に返る。完全に放心していた。
「……殺して、ないですよね?」
恐る恐る麻木が言うと、男の黒い目がぐるりと動く。
夜の暗さに負けてしまう頼りない灯りの下では、相手の表情はよく分からなかった。
「あれ。まだいたんだ、大丈夫?」
と、さっきの吐き捨てる口調とは違って明るい声音で男が言った。フラフラと手首から先を動かしながら、油のようなものがついた綺麗とは言えない靴で歩みよる。
夜の闇に溶け込んだ男に対して防衛本能で肩を強ばらせながら、彼女が頷いた。
「……はい、お陰様で」
最低限の礼節を保とうとしたその仕草は見ないまま、男がしゃがみこむ。そのまま、地面に散らばる薄明るい白い紙を拾い始めた。それを見て、彼女も慌ててそれに習う。元々自分の鞄の中に収まっていたものだということをすっかり失念していたようだった。
黒いインクで印字されたそれを重ねていくうちに、男の長い指が白い紙に赤い汚れをつけた。彼はあー、と声を漏らしながら黒いスーツの裾で手を擦る。
「ごめん」
「い、いえ。すみません、こちらこそ」
あまり行儀は良くなかった。が、麻木は彼の申し訳無さそうな仕草に何となく好感が持てた。多分、さっき酷いことをしていたのを見ていたからだ。この人へのハードルが下がっている、とぼんやり思いながら、彼女は集まって書類としての体裁が整った紙束を揃えて鞄に戻す。
その仕草を首を曲げて見ていた男が、思い出したかのように口を開いた。
「あれね、多分死んでないと思うよ。一応手加減したから」
そう言われた女は一瞬なんのことか考え込んで、すぐに向こうの方で押し入れの中の布団のように折り重なった人のシルエットに思い当たった。
「はあ……」
だめだ。この人やっぱり物騒だ。彼女の中の上がりかけた好感度メーターが再び沈黙しようとした時、そんなことを思われているとは露ほども知らない男が立ち上がった。
「立てる?」
「大丈夫です」
彼女はちらりと自分を省みる。ヒールは折れていない。多分ストッキングは破れたけれど、今日はもう気にしないことにした。
彼女が前を見ると、目の前に手が差し出されていた。さっきスーツで拭かれた手だ。少し躊躇ってから、自分の手を重ねる。
「ありがとうございます、助けてくれて」
「うーん、助けた訳じゃないけど。結果的にそうなってるなら、それでいっか」
力強く女を立ち上がらせた男が、軽い調子で笑った。
そのまま先を歩く男につられるように表通りに出ると、景色が一気に明るくなった。空は暗いままなのに、明かりの数だけがどうしようもなく増えている。
ピンク色のネオンの下で、緩く振り向いた彼が彼女の顔をまじまじと見る。その視線をかわせなくて、彼女も彼を見つめた。二重幅の厚い目と、長めの前髪。頬のところに掠れた浅黒い血が付いていた。
と、その顔が彼女の眼前でにまりと笑う。
「よく見たら可愛いね、スーツでなんでこんなとこいるの。しかも一人で」
こんなとこ。今二人が立っている場所のことを、彼はそう言った。
東京都新宿区歌舞伎町。風俗店やら怪しげな金融の店やらラブホテルなんかが建ち並ぶ場所。日本の中でも明らかに治安が悪いこの街に、彼女は一人で来ていた。
あまり興味が無いせいで、彼女は自分が今いる通りの名前は覚えていなかった。どうせスマホのマップ機能を使えばどうにかなるだろうという安易な考えである。
質問の答えに少し迷っていた彼女が、端的に言った。
「上司の嫌がらせです」
その言葉に目を丸くした男が、少し上を向くようにしてケラケラと子供みたいに笑う。
「そんなことある?」
「ありますよ」
彼女は、実際そのせいでこんな危ない目に逢いかけたんですから、と言いかけてやめた。確かに複数人のチンピラっぽい男に襲われかけたが、この男のせいで自分よりも襲ってきた男たちの方が可哀想な目にあっていることを思い直したからである。
何者なのか、何故突然現れてチンピラを軒並みのしてしまったのか。助けた訳では無い、と言ったが、ではその真意はどこにあるのだろう。
麻木が色んな疑問を持って彼を見つめても、それは伝わることなく流された。代わりに、軽薄な言葉が返ってくる。
「かわいそ。名前は?」
聞かれたまま名乗ろうとした彼女がはたと気付く。
「……どうしてそんなこと聞くんですか」
初対面の人間においそれと名乗る義務など無いのに、どうして自分は何も考えずに自分の名前を教えようとしてしまったんだろう。どこかから流れてきた酒のキツい匂いに当てられたんだろうか。そう考えながら、麻木は少しだけ背筋を伸ばした。
「えー、教えてくれないんだ。俺、恩人なのに」
「はぁ」
さっきまでそんな事露ほども思っていなかったくせに。なんとなく馬鹿らしくなって、流れるように口を開いてしまった。
「麻木舞です」
そういえば、私の名前は舞だった。ぼんやりとそんなことを思いながら返事を待つ。
「あさき、まいちゃん?俺は辰巳」
たつみ。彼女……麻木が口に含むように小さく言うと、辰巳が頷いた。その拍子に崩れて目にかかった黒髪を直す彼を、麻木は見るともなく見つめる。
向こうから歩いてくる赤い顔の人間を避けながら、二人は緩やかに足を進める。
「それ、苗字ですか、名前ですか」
「どっちでしょう」
「……どっちでもいいです」
露骨に口角を上げて顔を覗き込んできた彼から、彼女はわざとらしく目を逸らす。
「マジ? 全然興味ない感じじゃん」
「そういうクイズ、だるくないですか」
高校の頃の苦手だったクラスメイトの顔を思い出しながら、麻木は言った。道端に吐き捨てられたガムを踏まないように足を回す辰巳が口を尖らせる。
「俺は楽しいのになぁ」
細い路地がいくつも伸びる大通り、時折ふらつく人々をシューティングゲームのようにかわしながら歩く。ふと、辰巳がその足を止めた。
「で、帰り道どっち? 俺、あっちなんだけど」
そう言いながら、来た道を戻る方角に長い指を刺してみせる。
「……」
完全に辰巳の足取りにつられて歩いていた麻木は、何かを飲み込んだように言葉を詰まらせた。そう言えば帰り道もわからない、何ならここが歌舞伎町のどの辺りなのかもあまり理解していない。何と説明したものか、と麻木が星が見えない空に視線をやると、辰巳はまた笑った。
「行くとこないなら、今夜は俺と一緒に歩きながら話そうか。多分面白いよ、色々汚いけど」
「はぁ……」
するりとパーソナルスペースに滑り込んでくるような仕草に、彼女はほんの少し戸惑った。案内したげる、と言いながら辰巳は少しだけ二人の間にあった隙間を縮める。袖口が触れないように。
麻木が隣を見ると、視界の大部分を辰巳の着ている黒が占領するようなかたちになっていた。少し甘い匂いがする。
皺がよって所々にシミができているスーツの黒をぼんやり目にしながら彼女は思う。散歩しながら喋る時間はあまり有意義には思えないけれど、きっと自分の殺風景な家で明日の昼まで化粧も落とさず眠るよりは楽しいだろう。それから、苗字だか名前だかわからない名乗りの男になんとなく興味がある。うざったいしよくわからないけど、少なくとも彼女が無関心でも嫌いでもいられない何かが彼の中にはあるような、そんな気がしていた。それに、元々夜の街は仕事に疲れた人間を癒してくれる場所でもあるはずだ。
どちらにせよ色々なことに嫌気がさしていた麻木は、半ば投げやりな思考で頷く。ずれた視点に腕時計が巻かれていない辰巳の左手首が映った。楽しそうな声が降ってくる。
「んじゃ、とりあえず俺の仕事場の方まで歩こ」
麻木の表情は見ないまま、彼はほんの少しだけ大股で歩き出した。彼女は小走りでそれについていく。
さっき見た店の看板が逆再生のように反対側に流れていく。きらびやかなドレスの女性が髪型が崩れるのも厭わず走っていくのが見えた。
「ああいう人、よくいるんですか」
「ん?……おー、走ってんね。さすがにドレスで全力疾走は珍しいんじゃない」
「そうですか」
生ぬるい風が二人を隔てて吹き付ける。
会話をしないとこの妙な街に辰巳が溶けていってしまうような気がして、麻木は休符を潰すように口を開く。
「仕事場……辰巳さんのお仕事は?」
彼女の方から話しかけられたことに驚いたのか、瞬きしてから辰巳が顎に手を当てた。
「あー、女の子と酒飲む店で黒服の用心棒? みたいな」
彼が微妙に顔を顰めたのを見て、今度は麻木が首を傾げた。説明しにくいのだろうか。
「じゃあ、さっきのも仕事のうち」
雑踏に飲まれそうな互いの声に耳を済ませる。
「んーん。あれは、たまたま暇してた時に血の気多そうな奴らが居たから突っ込んだだけ」
緩く首を振った辰巳が溜息をつきながら言った。期待はずれだったと言わんばかりに肩を落とす。その仕草はあまりに露骨で、まるでアニメを見ているようだった。
「喧嘩、好きなんですか」
気を抜いた彼女がそう言葉を繋いだ瞬間、向こうの方で何かが割れたような音がした。一瞬話し声がフェードアウトして静寂が訪れる。すぐに何事も無かったかのように客引きの声がし始めたが、辰巳は静かな空気を纏ったまま小さく口を開けた。
「んー」
「あ……ごめんなさい、不躾でしたね」
彼の言葉から困惑のような色を感じて、麻木が頭を下げて謝った。通行人から漂う酒気と香水の香りが混じる。その拍子に襟元が乱れたサラリーマンにぶつかりかけた彼女の腕を引っ張りながら彼が口を開いた。
「いや、麻木ちゃんならそれは良いんだけど。あんま面白くないかも」
「そうなんですか」
「うん、まぁ話すけどね」
「ありがとうございます……?」
麻木は首を傾げる。彼の言葉遣いから真意が見えない、まるで煙幕の向こうにいるみたいだ。麻木ちゃんなら、というのはどういうつもりなのだろう。
他にも考えたいことはあったが、辰巳の早くなる歩調の前では振り落としていくしかなかった。
「あ、こっちこっち」
突然辰巳が足を止める。
平均身長の腰あたりくらいの高さの、筆記体がぼんやりと光る看板。その角の辺りで、辰巳はピンク色のあまり品が良くないライトを浴びて笑った。
「ここが仕事場」
「へえ」
「で、行きたいのはこっち」
彼が視線をやった。華やかな店と店の間に、さっきまでの風景と似た細い路地がある。何事もないかのようにそこに入り込んだ辰巳を、麻木はヒールを鳴らして追いかけた。先は暗い行き止まりなのに、不思議と警戒心はおこらない。雑踏と灯りが漏れてくるからか、すぐそばに人の気配がするからか。
「お喋りするなら、ムードのある静かな場所がいいよね」
ここに満ちているのはムードではなくホコリではないか。そう思ったが、麻木はそれを口に出すことは無かった。
「嬉しいなあ、麻木ちゃんみたいな女の子が俺に興味持ってくれて」
店の裏口と思われる場所から伸びるよく分からない配線を踏んだまま、彼は首元を引っ掻いてへらりと笑う。それを視界に捉えながら、彼女は数回瞬きをした。その言葉は本気ではないだろう、とどこかで呆れながら。
「じゃあ俺の話しよっか」
「どうも」
少し迷った末に麻木はこの返事を選んだ。別にそこまで聞きたかった訳ではなく、話を広げる種のつもりだったとは言い出せなかった。
「元々さぁ、勝つのが好きだったはずなんだ」
スーツが汚れるのも気にならないのか、プラスチックで出来たゴミ箱の葢にどっかりと座り込んで辰已が言う。
それに麻木は立ったまま曖昧な相槌を打つ。ヒールが低い靴で良かった、と思っていた。足はまだ痛くない。
一方自宅にいるかのように力を抜いて頬杖をつく辰已は、麻木の顔を暗い瞳でじっと見つめて言葉を続ける。
「携帯ゲームでも、スポーツの試合でも。特にスポーツはハマってさ、ボクシングとか空手とか、人とやり合う競技はなんでもやった。そりゃもう楽しくて楽しくて、のめり込んでたまに賞とかもらった」
麻木が相槌のかわりに頷くのを見て、辰巳は口角を上げて続けた。
「だからだと思うけど、喧嘩も強いんじゃないかって有名になってさ。ある時イキった族かなんかが襲ってきたわけ」
「今どきいるんですか、そんなの」
麻木が半分ほど疑問を混ぜ込んだ口調で言うと、辰巳は意外そうに口を尖らせた。
「あ、そういうの見てこなかった? まーアレだ、あぁいうのは同じ土俵に立たないと目に入んないからな」
「……」
「話戻すわ。で、喧嘩して気付いた。俺、今まで勝つのじゃなくて、人を傷付けるのが楽しかったんだって」
麻木にとって、辰巳の語りは悲しそうには聞こえない口調だった。
「傷付ける……」
「うん。自分の手足で、他人の上に立って、色んなもんをへし折るの。競争心に従ってさ」
そう言って、辰巳は手遊びでもするかのように節の目立つ指を開いたり閉じたりして見せる。
この男を小学校の教師やPTAに見せたら卒倒するだろうな、と麻木は思った。あと、多分倫理を履修したら落第するだろう、とも。まぁ、それは自分もか。行き交う人々の足を見つめる。
黙っていると、辰巳の目が伏せられた。
「勿論高校は退学処分。親に泣かれてじいちゃんに殴られて、殴り返したかったけど我慢した」
殺人犯になるのは嫌だもんな。彼はそう締めくくる。
変な人だ。麻木は辰巳についてそう確信した。だけど、言っていることが全て理解できない訳では無い。例えば、殺人犯になるのは自分も御免だ。
それから。自分のやりたいことが悪い事だとは知っていて、だけど気付けばそれしか残っていなかった。自分の存在意義、特技、長所。そういうものたちの根底に「好き」なことがあったから。それも、わかる。
メトロノームのように頷く麻木を見て、辰巳はにまりと笑う。
「行く先無くした俺を、半グレのツテが拾って紹介してくれた。だからここで用心棒してるわけ」
そこまで言った時、辰巳の斜め後ろに位置する場所の壁が動いた。よく見るとそこには埃と黒い汚れに侵食されたようなドアがある。それが、内側から押されて開いていた。
真珠のような飾りが付いたハンドバッグを持った女性が乱雑に開きかけのそれを蹴った。
それを見て表情を変えないどころか、視線すら向けずに
「おつかれ」
と辰巳が言う。麻木は何も言えなかった。普段着の、だけどアイシャドウだけ特別濃い女性が二人を背景扱いして大股で歩き去る。
あっけに取られていたが、辰巳はそうではなかったようだ。麻木の目を見つめたまま、風船に空気を送るように話し続ける。
「ボーイに殴りかかってくるやつとか、闘争心高くて楽しいんだよね。ゲロ吐かれるのはほんっと勘弁だけど」
息継ぎをするようにしゃべり続ける男を、麻木はまっすぐ見ていた。なんとなく、自分と影の形が同じような気がして。
「わかります」
ぽつりと言うと、辰巳が自らの頬に手のひらを添えた。
「麻木ちゃんもゲロ嫌いかぁ」
「ああいえ、そっちではなくて。ダメなことが性に合っちゃうの」
首を振りながら麻木が言った。彼女の髪の毛がぱさりと首にかかって、それを軽く直す。
「ん。わかる?」
嬉しそうに辰巳が言った。その表情が純粋な興味に満ちていたから、麻木は躊躇わずに口を開く。
ゴシップや侮蔑の眼差しとは違う。この人なら笑わないだろう、という確信があった。
「私、辰已さんとは違う理由で補導ばっかりされてました」
「何したの」
反射的に、少しだけ躊躇ってから口を開く。
「援助交際」
ヘドロを吐くような感覚だった。それを察したように、辰巳が足を組む。
「そりゃまた、悪い子」
出会ってから一番穏やかな声で彼は言った。その声音からは、歯の浮くような偽善的な気持ち悪さの味はしない。
少しだけ安心した。
程よく酔ったような心地良さで、麻木は続ける。
「はい。だから、一度それがバレてからクラスでもずっとハブにされてました」
「お金困ってたの」
「ううん、全然。でも、恋愛ごっこでお金が貰えるなんてラッキーだなって思ってましたね」
暗い過去だ。忘れたいくらい。だけど、洗いざらい教えてしまいたくもあった。
「へー」
気の抜けた、それなのにどこか柔らかい返事をした。そんな彼の目を麻木は覗くように見つめる。
「大人になっても、あんまり変わりませんでした。そのせいか、職場でも女性の友達は出来にくくて」
その代わり男性社員には可愛がられて、という部分は黙っていた。そんなこと、別に言わなくても話はできる。それに、自慢に聞こえたらなんだか嫌だった。
頷いていた辰巳が、わざとらしく手を打った。
「もしかして、嫌がらせしたって言ってた上司も女の人?」
「正解です」
「やっぱり」
クイズではないのに、辰巳はくすくすと笑って喜んでみせた。
(面白い人だな)
麻木は心の底から思う。子どもっぽく暴力的で、なのに胸ポケットに入った煙草の箱が曲がったネクタイよりも似合う男。重たい二重の目で楽しそうにつまらない話をする辰巳はアンバランスで、それが気持ちよかった。
「麻木ちゃん可愛いのに、なんでそんなことになんのかね」
彼は退屈そうに指を弄ぶこともなく、蓋の閉じたゴミ箱に座ったままただ正面から麻木を見つめて言った。その目が心底不思議そうな色に見えて、麻木も首を捻る。
「……なんででしょうね」
一瞬、頭上の雲が晴れた。月の光が少しだけ射し込んで、腕時計の文字盤を照らす。
昔から「恋愛の好き」という気持ちがわからなくて、と。喉まで浮かんできたものの、言わなかった。多分、辰巳はそれを聞いて笑わないだろうとかんじた。
それに。麻木の胸に残る泥を、腐った過去を、少女漫画のスパイスのような可愛い思い出にはしたくなかった。結局悪いのは全て自分。承認欲求と自尊心を簡単に満たすために、自分を切って売ったのだ。
多分、そういう部分は言わなくても周りに察されている。一人になった理由なんてそんなものだ。
自分だって、「自分を清いものだ」と信じて疑わない同僚たちをどこかで馬鹿にしている。
麻木はそう考えながら、切れかけの街灯に群がる蛾たちを見ていた。
「人生難しいね」
清く正しく生きていくのに向いていないのだ。だからこうやって日の当たらない街で、太陽の代わりに蛍光色のライトを浴びて生きている。暖かい陽の光の代替品にならないとは知りながら。たぶん、お互いそうだ。
麻木は初めてそう思った。
「ほんとに、そうですね」
でも、決して一人ではない。
彼の黒い目には微かに、笑えるくらい神妙な顔をした麻木の姿があった。
「終電近いよ」
夢から覚ますように、さっきと変わらない表情で辰巳が言った。そこには余韻のかけらも無い。
いつの間にか酒の匂いは薄らいで、代わりに変に甘い香りが漂っていた。麻木は少し痛む踵を持ち上げた。
「本当だ。私、帰ります」
「おっけー。気を付けなよ」
本当に何も無かった。だけど、そんな日も決して悪くはない。
辰巳がへらりと笑って、他人に戻るようにスマートフォンを取りだした。それを見て、麻木は咄嗟に口を開く。
「今日のお礼は」
助けてもらったことと、中身のない話をしたこと。軽い散歩をしたこと。きっと彼にとってはなんでもない行為だったにしろ、麻木にはそれに対するお返しが必要だ、と思えた。
それがたとえ言い訳でも。
その言葉に一瞬口をぽかんと開けた辰巳は、いたずらを思いついたかのように笑って見せた。
「んー……じゃ、今度店に来てよ。俺、ちゃんとしてるから名刺持ってんの。これがあれば来れるでしょ」
俺って用意周到、と笑いながら、辰巳は上着の内ポケットから端が曲がったカードを取り出した。指が触れ合わないように、麻木がそれを受け取る。男物の香水だろうか、一筋の風のような甘い香りが二人を結ぶように漂った。
「……はい。必ず伺います、辰已さん」
「いい子ちゃんだ、麻木ちゃん」
へらりと笑った辰已は、きっと上等であろうスーツの裾で口元を拭って微笑んだ。ツキノワグマの模様のように、ぐにゃりと口角を上げて。
それがどうにも可愛らしく見えて、麻木はせり上がる感情のまま言葉を投げる。
「会いに行きますから。私のこと覚えてて下さいね、辰巳さん」
彼女が視界がぼやけそうな程に目を細めているのは、決してネオンが眩しいからでは無かった。