声が欲しかったのではなく文字が欲しかったと気付いたのは、彼が病に臥せった後でした。
 彼は既に目が潰れ耳が潰れ、味覚もあるのかどうか怪しく、機能していると保証できるのは触覚と嗅覚だけでした。まぁそれらも途絶えてしまうのは時間の問題だろうと、時計の秒針よりもなおも遅くなっていく胸の上下と、磨り減るように僕のてのひらへなぞられる文字が如実に語っていたのです。
 鳥の囀りがよく聞こえる朝に、庭から摘んできた瑞々しい花の香りを連れ用意した花瓶に生けると、餌を運ばれてきた雛鳥のように彼の眉が動きます。僕はそれを確認するとベッドから皺だらけの彼の手を取り「おはよう」といつもの挨拶をてのひらに書き綴りました。彼は僕の指を弱々しく握り込み、人差し指でとんとんとんとん、と四回指を叩きます。僕と彼しか知らない秘密の挨拶です。挨拶程度であればいちいち彼が文字を綴る必要はないだろうと、身体に気を遣い簡略化して生まれたものでした。
 彼がまだかろうじて命を繋いでいることに感謝しながら、僕は細かったり太かったりとまるで均一性のない不器用な文字が書かれたノートと、彼の国の辞書と、彼が愛読していたであろう表紙が皮脂で色褪せた本を広げてペンを持ちます。彼が床に臥せている横でこうやって本を開き、文字の意味を調べて書き写すのが僕の日課です。僕は一刻も早く文字を覚えなくてはなりません。恥ずかしながら挨拶の文字を覚えたのも最近で、とても物覚えが悪いと自らを叱責するばかりです。
 僕が彼に伝えたいことは文字通り山のようにありました。勿論言葉では全て識っています。好きだ。愛してる。君のことを世界で一番大切に想っている。直接的な言葉は簡単に喉から零れ落ちていきますし、君の金の髪は星の川のように美しく、今は伏せられた神秘の青い瞳は一等星の如き輝きで海に漂う僕を導く道標だ。と、歌い上げることだって可能です。実際に何度も何度もそれこそ彼が眠りについていた後にだって何度も失くした声で語りかけます。当たり前ですがそれが彼に伝わることはありません。僕は声を失い、彼は声を聴く耳を失っているのですから。
 どうしてこんなに物覚えが悪いのかというと、一つ言い訳をさせてください。実は僕が生まれ育った国では文字という文化が存在しなかったのです。何故ならそこに住んでいた者たちは皆、声さえあればそれでよかったのです。文字では到底ありませんが、近しいものであれば貝殻を並べた数であったり、鱗をある等間隔に揃えた模様であったり、泳いだ後に引かれた波の線であったり。精々がそれぽっちで、彼の国のように皆が理解し、共有し、果てはいなくなってしまっても残るものが骨以外にあるだなんて寡聞として識らなかったのです。
僕らは声だけが全てでした。声さえあれば、喉から発する言葉さえあれば、他の者と意思疎通を図るなどそれこそ稚魚のえらを塞ぐよりも簡単なことでした。僕が識っている豊富な愛の言葉は母の声から学び、身を守るために仲間と連携して戦う号令は父の声から学びました。それ以外にもたくさんの喜怒哀楽を両親の声から学び、不自由を味わったことは泡の一つもありません。
カット
Latest / 36:56
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
でみれと
初公開日: 2020年05月17日
最終更新日: 2020年05月17日
ブックマーク
スキ!
コメント
でみれとの人魚姫っぽいパロのお話書きます。キリのいいところまで書ければ。
ディミレト
ディミレトのSS書きます。お試しです。
からたち
@ ⁰ 天使 ? うん そう 天使
天宮 ぴぅ の 初配信 っ 嵐 トか ぁんち ゃめて − ✖
ぴぅ
七夕
ワードパレット七夕
きょむい〜ぬ