「駄目でした」
「そうかあ……」
ぐしぐしとタオルで顔を拭い、明智は首を振った。子犬のようなしぐさだ。
丸喜はイスから立ち上がって、キッチンに歩いた。冷蔵庫を引き開けて、ゼリーを手に取る。
ミカンとか、モモが入っている嬉しいやつではなく、銀色のパックに詰まった味気ない栄養満点のゼリー。
「どうもうまくいかない」
ありがとう、とかすれた声で礼を言う。明智は行方をくらましていた間に、食事が少し苦手になっていた。おいしいものをおいしいと感じる程度の人間性は持ったままでいたようだが、そのあとなぜか全部出る。
今日はヨンジェルマンのサンドイッチだった。忙しい時もさっと食べられて自分のオシャレなイメージに合う素敵な食べ物だったから重宝していた、というので買ってきてみたが、やっぱり駄目だったそうだ。
「入りはするんだけど」
「出てきちゃう?」
「出したがるのか出たがるのかはわからないけど、結果として出る。もったいない……」
不思議なものだ。明智はかなり、シャキシャキ喋る。基本的に思慮深く意思のある少年のままで、とても幻肢痛に悩まされたり、摂食障害に陥っているようには思えない。少なくとも丸喜の知る精神病患者とはそれなりに違っていた。
明智は残った右手でゼリーのパックを握りつぶし、中身をすべて飲み干した。まあ、栄養価としては問題なかろうが、きっとこのままでは胃腸の機能に問題が出るんじゃないかと思う。まだまだご飯がおいしくて仕方がない、二十歳手前の年齢でこれでは、心にも良くない。
「ヨンジェルマンのサンドイッチ、ダメ、と」
「僕、何食べれてますか?」
「その、ゼリー系と……カロリーバー系くらいだなあ」
ノートに書かれた食品の名前と、その上に引かれた打消し線の数々。彼の食べ物の選択肢は少ない。明智は顔をしかめ、自身の口元をさすった。
「丸喜さん的には、これはどういうことだと考えてますか?」
「そうだなあ……君は特殊だからなあ……もう少し考えてること話してくれたらやりやすいんだけど」
「あまりまとまらないのでまだ話しようがなくて」
明智について丸喜が知っているのは、案外うわべのことだけだ。
かつて互いに不躾を働いたときに撫ぜた過去のことしか知らない。母と、父と、いくつかの殺しの記憶。そのどれもが、一生に一度経験すれば十分深い傷となるものばかりだから、具体的な対処を編み出しにくい。病院に連れて行こうにも、監視が付いていたり目立つ彼を連れ歩くのは難しいし、薬をまともに飲めるかどうか、出せるかどうか、必要かどうかも今はわからない。
何より明智自身があまり行きたがらないため、もう少し様子を見たいのが現状だ。
「まあ、僕は君の気持ちや、どうしたいかってことをちゃんとわかってるよ、ってことはわかっていてほしいんだけどね」
「ええ、じゃなきゃこんなところいないです」
「だよねえ。それはそれとしてね、やっぱりまだ生きることに前向きになれてないんだと思うんだ」
現状一番の問題は、明智の強い思考や意思を受け入れきれない心の一部が悲鳴を上げている、それが一旦丸喜が下した判断だった。
明智は文句なしに強靭に育った人間だ。だが、人間の壊れにくさというものは単に体力の多さに他ならない。ゲームで例えるならばHPだ。普通の人間のHPが100だとしたら、明智はたぶん500はある。
その上で480くらいダメージを受けている。同じ瀕死状態でも、回復に時間がかかってしまうのは後者だろう。流した血の量もこちらのほうが多いに違いないし、今まで多量のHPを使用して繰り出していた大技が出せない。けれど明智の精神は基本大技だらけなものだから、体のほうがヒイヒイ言っているのだ。
そしてここはゲームの世界ではない。蓄積ダメージも、痛みの記憶も残るのがこの世界だ。
回復手段は乏しい。食事がまともにとれず、生きる目的も薄ければ、日々の回復より日々のダメージのほうが勝つに決まっている。
明智は右手で左手の断面をさすり、ため息をついた。
「生きることに前向きねえ……」
「僕としては美味しいごはんが結構生きがいだから……君みたいなケースは本当にどうしようかなって感じ」
「それが精神科医の言うことかよ」
「もう違うし、っていうかカウンセラーだから精神科医じゃないよ」
丸喜はパソコンのソフトを一つとじ、代わりにブラウザを立ち上げた。
すぐ手の届くショートカットに用意してあるのはお料理サイトだ。
「豚汁とか作ってみようか?」
明智は画面をのぞき込み、小さくうなった。
「豚汁、小学校のときぶっかけられたことがある」
「や、やめとこっか」
「でも具材的には吐きやすそうですね、こんにゃくとか……主成分汁だし」
「過食症の人みたいなこと言わないで、ちょっとでいいから消化しよう」
デスクの横に折り畳みのイスを出してやると、すとんとそこに腰を下ろす。マウスを差し出してやると、それを受け取って、体を伸ばして覗き込んだ。子猫のようなしぐさだ。
パソコンを押して画面を明智側に向けてやると、伸びた体は良い姿勢の位置に戻っていった。
「うーーん……もともと食事にそこまでこだわりがなかったものだから、余計に難しい」
「そうだね、ご飯に興味がないっていうのは結構重症なことが多いからね」
「何の?」
「ウツとか」
「笑える」
実際体調的にはウツなのだから何も笑えはしないが、否定はしないでおいた。明智が異様な頑丈さを見せつけてきても、なるべく油断したくない。因果関係は結局のところ不明だが、明智が家族ドキュメンタリーを見た夜に眠ったまま壁に頭を強打して血まみれになったのは事実だ。やはりメーターが壊れているだけで、ダメージはあるのだろう。
マウスホイールをガラガラ回し、興味なさそうにお料理サイトを見つめていた明智が、ぴたっと手を止めた。
「あー、カレー……」
「カレー?」
「スパイスが効いてるし、何かしゃきっとしそうじゃないですか?」
「ああ、確かに」
「液状だし」
「ドライカレーにしようか」
ええー、と不満げな声が上がった。
いいじゃないか、ドライカレー。丸喜はトマトを入れたドライカレーのおいしさを語り始めそうになって、ぴたりと口を止めた。そしてしばし逡巡し、人差し指を立てた。
「ルブランのカレーおいしかったなあ」
「おいしいけど、デリバリーとかやってませんよ」
「でもレシピを継いだ身軽な少年はいるよ」
え゛えええ、とますます声の不機嫌は深まった。
美少年が台無しの表情だ。思わず笑ってしまった。
「まだ会いたくないんですけど」
「せっかく夏休みなんだから今会っておいたほうがいいんじゃないかい?彼、地元遠いだろう」
きっと左腕が無事だったなら、明智は腕も足も組んだ警戒心丸出しのポーズをとっていたに違いない。今は右手でズボンの布地をつかんでにらむに留まっているが。
「僕、丸喜先生のカレーが食べたいな!」
「冗談言えるなら平気かな?それじゃ電話」
右手が来るかと思って身構えたが、予想外にワイヤレスマウスが飛んできた。丸喜はマウスがヒットした額をおさえてスマートフォンを机に置いた。
「や、やめとくやめとく!痛いなあ」
拾ったマウスも所定の位置に帰らせて、丸喜はカレーのレシピをざっと眺めた。
「明智君、辛口がいい?甘口?」
表示されているレシピはそれはそれは煩雑で、どこで買うのかわからないスパイスにまみれていたため、丸喜は別のページを表示した。大体どこでも売っている、主要なメーカーのカレールーの羅列だ。
「中辛」
「りんごとはちみつがとろーり溶けてるやつ?」
「なんか腹が立つ」
明智の手がマウスに伸びたので、丸喜はマウスを端に避けた。
そのままパソコンを閉じ、立ち上がる。見上げる明智に微笑んで、スマホと財布をポケットにねじ込んだ。
「じゃ、買い物行くよ」
「僕は……」
「待ってて。疲れちゃったでしょ」
ベッドを指さすと、明智は少し黙って、うなずいた。
「お肉って豚?鳥?牛がいい?」
「わからないので、安いほうで」
適当な話を振ったが、実は既に具材は決めてある。
「それじゃ、行ってくるから。何かあったらすぐ呼んで」
「はーいはい。お気を付けて」
豚肉、玉ねぎ、にんじん。隠し味にすりおろしりんご、あとひとかけのチョコレート。
あとは思い出せないから、彼に教えてもらうこととしよう。