…仕方のないことだから受け入れるしかない。私は何度も謝る両親に何度目かになるかわからないが大丈夫だと告げて…通過儀礼も無しにとある大きな屋敷の前に立っていた。
周りの視線は冷たいものばかりだ。見定め、警戒、あからさまな嫌悪感がこちらにひしひしと伝わってくる。だけどその視線を知らぬふりを通して。震える声を紛らわして。私はぴんと背筋を立てて口を開いた。
「…これからお世話になります。よろしくお願いします」
私は今日、家のために見知らぬ男性と形だけの結婚…いわゆる政略結婚だ。両親に出された一枚の紙切れに名前を書きハンコを押すだけで苗字が変わることになった。そして一時間もしないうちに苗字だけでなく住む場所さえ奪われた。
目の前の男性たちの中から一人。笑顔で…読めない男性が私の前に立った。
「ようこそお越しくださいました。そう硬くならず、身を楽にしてもらって結構ですよ」
「…はい」
「ここまでお疲れでしょうし、お部屋に案内しましょう。……本日、謙信様は屋敷に不在です。なので挨拶などは結構ですので。もうお帰りなさっても大丈夫ですよ」
…両親はこれ以上はいれないようだ。そんな。という母の声が聞こえたけれど私たちが逆らうことは許されない。すすり泣く母。わかりましたという声が普段よりもいっそう低い父の声。…後ろを振り向いたらいけない。と唇をかみしめて私はじっと地面を見つめていた。
足音が遠のいてゆく。完全に味方はいなくなった。
「…初めまして。俺は甘粕景持と言います。この屋敷にいるときはいつでも声をかけてください」
「…はい」
いつでも、と言われても自分から話しかけに行くなんて怖くてできないだろう。…それに、優し気な笑みを浮かべているからと言って彼が私の味方だとは思えない。
「それではあなたの部屋へ案内いたしますね。…どうぞこちらに」
鋭い視線を感じない素振りを見せて私は屋敷の中に足を踏み入れる。自分の家とは雰囲気が全く違う。それは私の思い込みかもしれないけれど…物音ひとつせず大きな部屋の数々にすでに心が押しつぶされそうだった。目の前を歩く甘粕さんも私には目もくれない。追いつくのも精一杯だ。
屋敷をかなり歩いた後。甘粕さんはぴたりと足を止めて大きな扉の前に立った。私を誘導するように扉を開ける。私もそれに従って中に入る。
その部屋は自分が思っていたよりも広く簡素で…それでも必要最低限の家具のそろっている部屋だった。もっと自分に対しては冷たくあしらわれるのかと思っていたけれどそんなことはなかったようで今まで胸の中にたまりこんでいた不安が少しだけ軽くなった。部屋の中には二人の女性が控えていて、私と甘粕さんが入ってくるとはっと顔を上げて頭を深く下げた。
「あなたは形だけでも謙信様の奥様としてこの上杉家に来ています。…なのであなたが私たちに対して不利益を働かない限り俺たちもあなたには手を出しませんので安心してください」
それが安心できるのかどうかは別として…それでも自分の扱いが最低限保証されていることには感謝しかない。部外者で邪魔者の私にここまでしてくれるなんて思ってもいなかった。
「この部屋にいる女中二人があなたの常日頃の世話を行います」
「えっそ、そんなことは恐れ多いので…」
「ただ世話をするだけでなく、日ごろのあなたの監視も行っていますので。…決して拒否はしないでくださいね」
「……はい」
顔も見たことのない「旦那様」にも勝手に監視されているのか
と思うと一度軽くなった胸の中が再度どっしりと重くなる。でも甘粕さんの言っていた通り。私は何もしなければ最低限ここで過ごすことができる。だから今は耐えるしかない。
「それでは。…部屋の案内などは彼女たちに聞いてくださいね。そのほか何かあれば俺まで」
「わかりました」
「あと…今あなたが来たことで屋敷の中がかなりあれていることに気づいているでしょうが…用心してくださいね。俺個人としてはあなたがいなくても上杉家に損失はないと思っています。あなたは自分の立場を理解してくださいね」
それだけ言い残すと甘粕さんが出ていく。扉がバタンと閉まった。…隔離されたような感覚に陥ったけれどそれは間違えてはいないだろう。甘粕さんの脅しも十分承知の上だし私だってこの部屋から出るなんてことはしたくなかった。屋敷で受けた視線を思い出せばわかるだろう。気軽に屋敷の中を歩いているときっと誰かに嫌味を言われることはわかっている。そしてこれは憶測だが…その嫌味に対して何か言ってしまえばすぐに「旦那様」であるこの家の家主…上杉謙信に伝えられるだろう。そうでもされたら家族に危害が加わる。それだけは避けなければいけない。
初日からここまでつらくなるのは想像がついていたけれどそれでもしんどいことには変わりはなかった。それにこの部屋にも監視する人がいる。何か不満でも漏らすものなら…とそこまで思いついて疲れた体に鞭を打つ。
「…は、初めまして。…今日からお世話になります。よろしくお願いいたします」
挨拶をしなかったことや何かため息をつこうものならすぐに報告されるだろう。私は不自然に見えないように笑顔を浮かべて彼女たちに声をかけた。
すると彼女たちは顔を見合わせてクスリとほほ笑んだ。その笑顔はこの屋敷に入ってきた今までの中で…一番柔らかな表情だった。
「そんなに深刻な表情を女の子が浮かべちゃだめですよ!安心してください。私たちは甘粕様が言われていたように確かにお嬢様の監視を兼ねてはいますが決して冷たく接しませんので」
「監視といってもお嬢様の日々の体調や行ったことを告げるだけですので、肩の力を抜いてください。…どうぞこちらに」
これも策略なのだろうかと疑ってしまった。すぐに騙されるようになるんじゃないと告げられている気がして二人の方に素直にはいくことはできなかった。女性二人が顔を合わせるとそそくさと私のそばに駆け寄ると手を取って窓際にあったテーブルへと手を引く。
「ふふっ。そんなに深く考えなくても大丈夫ですよ。私たちは本当にお嬢様の味方ですので。ここにくるまで男性ばかりで心配したでしょう?お茶をお入れしますので少々お待ちください」
「え?でも――」
「いいんです。私たちに任せてください。今日ずっと立っていましたし気が張っていたでしょう?それにあなたの身の回りの世話は私たちの仕事ですので。すぐにご用意しますね」
一人の女性が部屋から出ていく。その後ろ姿を呆然として見送った。目の前に座る女性はお菓子をテーブルの上に並べていく。きれいな箱に入ったクッキーは自分が食べたこともない…小分けされた袋とそこに書かれたメーカーからわかるけれど高級なものだった。自分にこんなものを?!と驚いて首を何度も降るけれど女性も首を振ってどうぞと差し出してくる。
「謙信様からよくいただくものなんです。…私たちだけではもったいないのでお嬢様もぜひどうぞ!来られたら一緒に食べたいと思っていたんです!」
「え、え…っと。ありがとうございます」
とはいっても手は出せずにテーブルに置いた手を右往左往させたまま膝の上に置く。何を話そうにも言葉は出てこなかったので下を向いて顔を見ないようにしてしまう。警戒しなくてもいいかもしれないけれどそれでもその時の私は疑心暗鬼になっていた。
「お嬢様もとても不安ですよね。見ず知らずの年上の男性と顔を合わせないまま結婚を言い渡されて、そのあとすぐに今まで住んでいた環境から引き離されて今はこうやって屋敷全体から警戒されると誰でも精神を病んでしまいます。…でも私たちもお嬢様と同じような環境の者が多いので、そのちがよくわかるんですよ。
それに…今までこの屋敷は男性が多かったのでお嬢様が来られるとわかったときには私たちすごく喜んだんですよ!こうやって冷め切った屋敷に日差しが差し込むように。少しずつでも変化しないだろうかとも考えたんです。それが叶わなくても、この屋敷に来た以上は何一つ不自由のないように私たちがお嬢様を支援いたします。最初は私たちも信頼できないかもしれませんがそれでも構いません。何かあればお気軽に声をかけてくださいね。夜も交代で見回りを行っていますのでご安心ください」
目の前の女性の顔は見えない。…それでもこの屋敷に入って初めて感じた暖かな雰囲気に少し気分が紛らわせそうだった。何か話すべきか悩んでいると部屋から一度出て行った女性がぱたぱたと戻ってきた。手にはティーポットとカップがもたれている。
「あらあなた遅かったわね」
「す、すみません~!ほかの女中に止められたんです!お嬢様のことについて質問責めで…あっ!それで他の子も参加したいって言っていました!独り占めしてずるい!って言われました!どうしましょう?」
その言葉と同時にドアの向こう側から何やら複数人の声が聞こえてくる。そのどれもが女性のものだった。目の前に座っていた女性が息を吐くとずんずんと扉の方へと向かっていく。ティーポットを持った女性が私の隣に座ると「安心してください~」と話しかけてきた。
「あんたたち!!今日はまだ来たばかりで緊張しているんだから私と年の近いあの子にするって話し合いをしたでしょう?!仕事に戻りなさい!どうしてあなたたちはそうやってすぐにきちゃうのかしら…」
「だ、だって~!屋敷に入ってきたときの表情がすごく悲しそうでしたよ!どうにか励ましてあげられないかと…!」
「いいから仕事に戻りなさい!逆に気を張らせたらいけないでしょう!またすぐに会わせてあげるから!」
何やらもめている様子で何度も何度もそちらを見つめてしまう。目が合う人みんな表情を硬くするどころかにこやかに微笑んで手をぶんぶんと振ってくる。
「えっと。皆さんでお茶を飲むのは…」
「だめですよ!皆さん今日もお仕事があるんです!明日か明後日なら大丈夫だと思いますので今日はすみませんが…」
「そ、そうなんですね。確かにこのお屋敷広いですもんね…すみません」
「いいんですよ!むしろ私たちにも優しくしてくれてありがとうございます!すごく嬉しいです!」
「…そんな。むしろ私なんかに優しくしてくれてありがとうございます。…部外者で邪魔者のはずなのに」
安心してなのか…思わずそんなことを言ってしまった。それに気づいて慌てて修正をしようと口を開いたけれど、言葉が出てくるよりも先に女性が私の両手をつかんだ。その手は決して強くはなく、手だけでなく全てを包み込むような温かさだった。
「部外者なんかじゃないです!邪魔者でもないです!お嬢様はそんなに謙遜なさらないでください。もっと堂々しても大丈夫なんですよ!私たちは何かあれば今のようにすぐに駆け付けます。人数がもっともっと必要なら他の人も手伝わせます。この屋敷で過ごしている間、何からも必ず守ってみせます!」
「……!」
「だから安心してください。ね?部外者とも、邪魔者とももう言わなくてもいいんです。それに私たち女中も大切なお嬢様にそんなことを言われると傷ついてしまいます。なので…金輪際そんなことを言ってはいけませんからね!」
「は、はい…!」
思わずその言葉に返事をしてしまっていた。ドアの方から聞こえる喧騒は耳に入ってこない。今まで胸の中で渦巻いていた悲しみも少し浄化された気分だった。女性は嬉しそうに笑うとお菓子をひょいと箱の中から取り出して封をあけると私に差し出してきた。
「ようこそお越しくださいました。…これから末永く私たちをよろしくお願いいたしますね。私たちもお嬢様のそばに寄り添い、支えられるように努力いたします!」
「…私の方こそ。…その、よろしくお願いします」
「ふふっ!チーフよりも先に仲良くなってしまいますね!お嬢様と年齢も変わらないですし、私とは気軽に話してもらっても構いませんからね!」
ドアの閉まる音と同時にチーフと呼ばれた女性が私と打ち解けた女性を見て少しだけ残念そうに眉をひそめて目の前に座った。
その日初めて私は屋敷の中で私らしくいられたのだと思う。…その時だけは緊張がゆっくりとだけどほぐれたように感じた。
一時間程度話をした後に屋敷の中を案内すると言われたので私は二人の後ろをついていった。
また書く!