未来へ
心地よい/月明り/正しい死に方
泉遼平を幸せにする
目の前にパッと鮮やかな赤が散った。恐る恐る顔を上げると、月明りに照らされた青白い横顔が瞳に映る。
「泉、さん……」
呆然と、名前を呼べば。額から血を流した隣人は、まるで人形のような美しい顔でにっこりと微笑んだ。
九頭玲央が瀬尾浩太の前から姿を消してから、三か月が経った。あれからずっと探し続けているものの、手がかりは未だ無し。そもそも人間ではない玲央を、どうやって探せばいいのか。警察に届けるわけにもいかないし、頼れる人もいない。浩太は途方に暮れていた。
唯一ゆくえを知って良そうな人物といえば、あの日、玲央を襲った男。――隣人の泉遼平。彼は今も変わらず隣の部屋に住んでいるようだったけれど、会うことはほとんどなかった。彼の敵である吸血鬼と友人になった自分は、避けられているのかもしれない。浩太の方も友人を傷つけた男と、あえて顔を合わせようとは思えなかった。
玲央は人間ではない。人の血を食糧にする、吸血鬼だ。それでも彼は、浩太の大切な友人だった。諦めるつもりはない。もう一度玲央に会いたい。何としてでも探し出してみせる。そう思っていたけれど、ただ街を歩いてしらみつぶしに探すのも、もう限界かもしれない。
そんなときだった。玲央と同じような恰好をした男を、夜の街で見かけたのは。足元まである、黒いマントを羽織った、背の高い男。玲央の、吸血鬼の、仲間だろうか。
危険だと、ひるむ気持ちもあった。しかし男をつける浩太の足に迷いはない。――大丈夫。玲央はあんなに良いやつだったじゃないか。だからきっと、あの吸血鬼も。話しかけて、玲央の情報を聞き出す。それだけだ。
やっと見つけた手がかりを逃すわけにはいかなかった。浩太はそっと男の後を追い、人気のない路地裏で男が足を止めたのを見計らって、黒いマントの背中に向かって声をかけた。
「玲央を――九頭玲央を、知らないか?」
返事はなかった。しかし浩太がつけていたことには気が付いていたのだろう。男は驚きもせずゆっくりと振り向いて、暗闇に光る猫のような目でじっと浩太を見つめた。うっすらと開いた口から、長い牙がちらりと覗く。間違いない、この男は玲央と同じ吸血鬼だ。そう思った浩太は、男に縋りつき必死に訴えた。
「玲央は友人なんだ。俺の、大事な……いなくなった。探しているんだ」
どんな些細な情報でも良い。あんたの知っていることを、教えてくれないか。
男は黙って、浩太を見下ろしている。そして、ぽつりとこう言った。
「美味そうな、血のにおいだ」
「え……?」
男の目がぎらりと光り、まずいと思うと同時に、腕に痛みが走る。吸血鬼の鋭い爪が、浩太の腕に食い込んだのだ。
――食われる!
浩太は息を止め、次にくる痛みを覚悟し強く目を瞑る。と、次の瞬間。ふわりと風が吹いて、体が後ろに突き飛ばされた。そして目の前に飛び散る、鮮血。
尻もちをついたまま、見上げれば。そこには隣人の――泉遼平が、自分をかばうように立っていた。
「馬鹿ですか、あなた」
自宅で怪我の手当てをしてもらいながら、浩太は大きな体を小さく丸めうなだれていた。目の前には頭に白い包帯を巻いた泉がいて、浩太の腕を消毒しながらぶつぶつとお小言を続けている。
「全く、のこのこと吸血鬼に着いて行って、襲われるなんて」
「……玲央のことを聞こうと思ったんだ」
玲央――名前を聞いて、泉の眉間にぐっとしわが寄る。
「忘れるべきです。吸血鬼のことなんて」
泉の言葉に答えることはできず、浩太はうつむいた。
なんでもいい、玲央の手がかりがほしくて焦っていた。自分が怪我するだけなら構わなかった。それで、玲央に会えるのなら。けれども自分の軽率な行動で、泉に怪我をさせてしまったのだ。
あの日、玲央を襲ったのと同じ、鈍く銀色に光るナイフで。自分を守ろうと吸血鬼と対峙する泉の細い背中を、浩太はただ見ていることしかできなかった。
浩太に襲いかかる吸血鬼を引きはがそうとしたときに、泉は浩太をかばって怪我を負っていた。けれども泉はものともせずに、吸血鬼に立ち向かってゆく。
『今に応援が来ます』
小さなナイフで吸血鬼を切りつけながら言った泉に、吸血鬼は分が悪いと思ったのかまるで闇に溶けるように去っていった。泉の方も、追いかける気はないようだった。その場に立ち止まり、血に塗れたナイフを拭っている。
怪我をした自分が、いるからだろうか。
タイミングよく助けに入ってくれたということは、きっと泉もあの吸血鬼を狙っていたのだろう。そこに自分が現れて、あげく襲われて。泉の足手まといになってしまった。そんな自分が情けなくて、浩太は思わず下を向く。
『さ、帰りますよ』
けれども泉は責めることなく、未だ尻もちをついたままの浩太に、手を差し伸べた。
『泉さん、あんたの仲間が来るんじゃ……』
掠れる声でなんとかそれだけ言えば、あんなのはったりです。と泉は笑ったのだった。
「どうして、俺を助けたんですか」
自分の怪我なんかそっちのけで、浩太の怪我の様子をみようとする泉を何とか説得して、まずは彼自身の怪我の手当てをさせて。それから浩太は尋ねた。どうして、玲央の友人である自分を。怪我まで負ってかばってくれたのか。てっきり自分も玲央と同じように、泉に敵視されているものだと思っていた。
問われた泉は、目を丸くして驚いて、ぽつりと零した。
「あなたが、僕と同じ、人間だから……」
どうしてそんなことを聞くのかと、戸惑っているような声色。彼にとって吸血鬼は――玲央は敵で、自分は守るべき同胞。ただそれだけの理由で、浩太を助けてくれたのだと言う。
まっすぐに浩太を見つめる泉の青い瞳は、まるで無垢な――何も知らない子どものようだった。
驚いたことに泉は仲間を守って自分が傷つくことを、なんとも思っていないようだった。吸血鬼と戦い傷を負うことも、もしかしたら命を落とすことさえも。
「だって、それが僕の役目なんです」
どうしてあんたがそこまで。歯を食いしばり唸るように尋ねる浩太に、泉は言った。まるで聞き分けのない子どもを諭すみたいに。
「たとえ今日、僕があの吸血鬼にやられていたとしても。あなたを守れたなら、本望です」
迷いなく、泉は笑う。人間を守って死ぬことが、自分のもっとも正しい死に方なのだと心底信じているように。
「辛すぎるだろ、そんなの」
浩太の言葉に泉は不思議そうに首を傾げた。そうして何も応えないまま、慣れた手つきで腕の傷を消毒してしまうと大きなガーゼを張り付け、できましたよ。と優しくたたいた。
「傷、残らないと良いのですが……」
それは、あんたの方だろう。自分の方がよっぽどひどいけがをしているくせに、浩太の傷の心配をして。笑う泉に、浩太は
いつ死んでも良いのだと思っているこの男を、ここに繋ぎ留めたい。自分が未来へ連れて行きたいのだと。
吸血鬼に襲われた後でも、浩太が玲央のことを探すのをあきらめることはなかった。吸血鬼のなかにも、玲央みたいに良い奴もいるし、そうでない奴もいる。
そして泉とはまた以前のように、あいさつを交わすようになった。実家から送られてきた食べものをおすそ分けしてみたり、時には自宅に招いて一緒に食事をした。
はじめは戸惑っていた泉も、だんだんと心を開いてくれて、浩太に自分のことを話してくれるようになった。
植物が好きで、ベランダでいくつかの鉢植えを育てていること。朝が弱いから、よく寝坊をしてしまうこと。吸血鬼退治の仕事の他にアルバイトをふたつ掛け持ちしていて、普段は日中に働いていること。
知れば知るほど泉は、普通の青年だった。
泉が吸血鬼退治の仕事を辞めることはなかったけれど、怪我をして帰ってくることが減った。どんな小さな怪我でも見逃さず、浩太がうるさく言うようになったからだ。
泉の隣が心地良いと感じるようになった。泉にとって、自分もそうであればいいと思った。自分たちは友達にならなくても良い。ただ、おせっかいな隣人を、少しでも頭のどこかに留めておいて欲しい。彼が傷つきそうになった時、心配をする奴がいるのだと、知っておいてほしかった。