「じゅんなちゃんに相談があるの」
風呂場から帰ってきた星見純那を待ち構えていたのは、珍しく真剣な顔をしたルームメイトの大場ななだった。先に浴室を出てきて随分経つはずなのに、カエルさんのうちわで扇ぎながらも、だくだくと汗を流しているななの姿のせいで、どうもすんなりと純那の頭に話が入ってこない。
「なな……。窓を開けましょうか? それとも扇風機をつけたらどう?」
この暑がりのルームメイトは、ゴールデンウィークのこんな時期から既に布地の少ない格好で過ごしている。キャミソールにショートパンツで、真夏になったらこれ以上どうなってしまうのか、純那は毎年のことながら心配してしまう。
「だってぇ……じゅんなちゃんは、寒くなっちゃうでしょう?」
暑さで溶けているような口調で、ななは力なく首を振った。確かに純那の格好はと言えば、ワンピースの寝巻きに長袖のカーディガンを羽織っていて、最近それがようやく少し薄手になった程度だ。風呂上りでほかほかしている今ですら、脱いでいないほどには違和感はない。
「まぁ、寒くはならないと思うけれど。気にしないでいいのよ? だってなな、せっかく扇風機のお掃除もしたんでしょう?」
ななはううっと唸って、少し考えているふうだ。その間にも前髪の生え際のあたりからつーっと汗が伝っているので、思わず純那は自分の持っていたタオルで拭ってやった。前髪をゴムで束ねてちょんまげみたいにして、上げているというのにこの有様。
「ちょっとだけ、つけてもいい?」
「ええ」と純那は軽く肯く。相談とはそんなことだろうか。2人のベッドの間に鎮座している扇風機はななのものだ。純那としてはクーラーがついている部屋だったので扇風機は必要ないと思っていたのだけれど、ななにとっては死活問題だったらしい。
ななは恐る恐るというように扇風機に近づいて、首を自分のほうに固定すると、えいやっとばかりにそのスイッチを入れた。
「あ〜〜〜〜〜〜すずしぃぃぃぃぃ〜〜〜〜」
風に煽られた声であってもわかるほど、ななの声は喜びに溢れていた。ふうっと目を細めながら、ななはうちわを仰ぎ出したので、純那は生暖かい目でそれを見遣る。扇風機があるのに、うちわまで……。「あ〜〜〜」という喜びの声を聞きながら、純那が寝る支度を整えていると––
「あ、そうそう、それでね。相談なんだけれど」
「え、扇風機のことじゃないの?」
風を得て生き返ったカエルの如く、ななはしっかりした表情で首を振る。
「違うよ〜。寝る場所のこと」
ななは扇風機を抱えながら、純那の方へと顔を向けた。
「暑いから床で寝ようかなと思って」
「床」
純那のおうむ返しに、ななはうんうんと満面の笑みで頷いている。
「フローリングなら涼しそうだから。タオルケットを床にひいてお腹にだけタオルかければ、眠れそうな気がするの。ベッドから落ちることもないし」
ななの言葉に、純那は少し考え込んでしまった。確かにこのところのななは寝苦しそうなようすだった。なぜ純那が知っているのかと言えば、反対側のベッドとはいえ、ななの寝返りが激しく、なんとなく気ぜわしさが伝わってくるせいだった。つまり、純那もあまり眠れていない。ななの快眠は純那の快眠にもつながる。
ななの提案を受け入れるなら、純那のベッドの足元でななが寝ることになるわけだけれど、純那はベッドから落ちるような寝相であった試しがないし、トイレに起きるとしても流石にななを踏むほど朦朧とするとも思えない。いくつか課題が生じるのだとすると––
「体が痛くなるんじゃない?」
「う〜ん。そうかなぁ? でも少し痛いくらいなら涼しい方がいいな」
「床は汚いんじゃない?」
「今日お掃除したよ?」
うーむ。純那として本人がやりたいと言うのなら、さすがに止めるほどではないように思えた。
「それとね、扇風機もつけて寝ていいかな? 風は私のほうにだけ向けるようにするから」
「それは、構わないけれど……」
大丈夫だろうか? なんせあのななだ。寝相がちょっと豪快だから、暑がりとはいえ、風邪をひいたりお腹を壊したりしないだろうか? 夏場ですら、風を直接体に向けるようなことはしていなかったというのに。
しかし、話している傍から、ななの額に汗が浮いているのが見えたので、純那はもう提案を受け入れることに決めた。ななが一人部屋だったらこんなふうに我慢することもなかっただろう。純那のことを気遣って、それでもこの提案が出てきたのだろうから。
「じゃあ、私のタオルケットも貸しましょうか? 床にひくのに一枚じゃ足りないでしょう?」
事実上の純那の了承だった。
「ありがとう純那ちゃん!」
☆☆☆
「快適だよ! おやすみなさい。純那ちゃん」
「おやすみ、なな」
扇風機の唸る低音が部屋に響く。床からは少しもぞもぞする気配があったけれど、純那が気になるほどではなかった。
数時間たったところだろうか、カチッとした小さな音で純那の意識が浮上した。目が覚めるというほどではない、でも夢から浮き上がってふわふわしている状態ぐらい。少しだけ覚醒した意識が扇風機のタイマーが切れた音だと認識していた。純那は元来眠りが浅い性質だ。
ななは大丈夫かしら? そこまで考えたわけではないけれど、純那はなな側に向けて寝返りを打った。
ごとんっ! ぐぅううううん……
(ん?)
扇風機が再び回り出した音がしたので、ななが再びスイッチを入れたのだろうと、そこまではわかる。けれども、その前の「ごとん」という音はなんだろう。純那も眠い、確かに眠くて再び眠りにつけそうなのではあるけれど、どうしても気になって、うっすらと目を開けた。
視力のせいでぼんやりした視界、しかも暗闇なのだけれど。
(んんんんっ?)
あったはずの場所に扇風機がない、ような気がする。純那は思わず跳ねるように上半身を起こし、枕元のベッドランプを灯した。
「な、ななっ‼︎」
ああ、なんということでしょう。慌ててメガネをかけるまでもなく、ななが扇風機を抱きしめて寝ているのが目に飛び込んできた。健やかな寝顔の近くに、荒ぶる扇風機がぶるぶると風を送っている。しかも、床に引いたはずのタオルケットは脇に追いやられ、下手をすると寝返りをうったついでに、それらを巻き込みそうだ。純那の背筋はぞっと凍りつくようだったけれど、動きだけは機敏にコンセントを引っこ抜いていた。
「なな……起きて……」
ほうっとため息をつき、純那はななの肩を揺する。寝苦しくなったのか、眠いのか、ななはぐずるように身を捩るけれど、純那は容赦なくおでこを指先でピンと弾いた。
「うぅ……じゅんな、ちゃん……?」
「なな、床は危険だわ……ベッドで寝て」
「……ぇえ〜……」
純那が取り上げた扇風機は断固として使用が却下された。寝ぼけているななには純那からアイスノン枕とカエルさんうちわを手渡されて、ななは訳もわからないまま、すごすごとベッドに上ることになったのだった。
こうしてななと純那の不眠の日々が続いていく。