晶に連れられてやってきた食堂は、陽が差し込んでシャンデリアが輝き、とてもあたたかい雰囲気だった。初めて訪れたわけではないのに、少しだけ指先が緊張してしまう。
席まで案内するように歩く晶は、ふと気づいたように「ミチルもここで暮らしてましたもんね。知ってましたね」と、恥ずかしそうに眉を下げる。
「いえ、魔法舎には久しぶりに来たので、助かります」
隣を歩く晶から見上げられるたびに、ミチルは心がくすぐったくなってしまう。視線を逸らしたいけれど、彼女の眼差しに応えたくて、数秒だけ視線を惑わせてから見つめ返した。
「ふふっ、やっと目が合いましたね」
眼差しが絡み合い溶けた瞬間の、晶の嬉しそうな微笑みに、ミチルの心臓は大きな音をたてる。同時にぎゅっと潰されそうな甘い痛みが走った。
――か、かわいい……!
ミチルは表情にでないよう、必死に下唇を噛んだ。ヒースクリフが恥ずかしそうにしていた気持ちが、今やっと理解できた気がする。
晶に案内されたのは、窓際の席だった。そこは、魔法舎で暮らしていた時、よく南の魔法使いが集って食事をしていた席である。
じんわりと心の中があたたかくなる。覚えていてくれたんだ。いいや、違う。僕の“過去”は、晶様の“今”なのだ。そのちぐはぐな事実に狂わされそうになりながらも、晶のさり気ない優しさが、ミチルの緊張をほぐしていく。
席に腰を落ち着けると、向かい側に彼女が座った。
「ミチル……えっと、その……」
聞きたいことがたくさんありそうな、それでも何から話をしたらいいかわからないような表情が、ミチルに向けられる。晶の双眸には、あの頃とは違い成長した自分の姿が映っていた。
――僕は晶様にどう映っているんだろう。
幼い頃の自分と比べて、成長を感心しているのだろうか。それとも、あまり変わっていないと考えているのだろうか。
――リケの時は、どう思ったのかな。
ふとした疑問に、腹の奥がむかむかとした。リケと比べたって、何も変わりはしないのに、些細なことでもリケと比べてしまう。ミチルの悪い癖だった。さらにそれは、晶のことが絡むと、自分は悪い人になってしまう。
――嫌だな。
ミチルはチクチクと痛む胸にさり気なく手を当てる。静かに息をつき、表情には出さないよう努めて、晶に微笑んだ。
「そういえば、リケがここにやってきませんでしたか?」
「リケ……?」
首を傾げる晶に、ミチルの予想は外れていく。あれれ、もしかして、リケと会っていないのかな。それとも、気づいていないのかな。それならば、もう少し、話を詰めてみよう。ミチルは言葉を続けた。
「リケに聞きました。魔法舎に行ったんだって」
「リケにって……えっ! もしかして、ミチル……!」
晶が大きく目を見開いた。夜空の色をした彼女の瞳が、シャンデリアの明かりを受けてキラキラと輝いている。
驚いている晶の表情は、昔に見た時よりも鮮やかにミチルの双眸に映る。晶の表情一つひとつが全て可愛らしくて、愛おしく感じてしまう。これが、好きな人と話している、ということなのかな。ミチルは成人を目前に控えて、ようやくそれを実感することができた。
「はい。晶様が考えていることは、正解だと思います。リケ、とっても楽しそうに話していましたよ。リケのあんなに楽しそうな姿、久しぶりに見たなあ」
ミチルの瞼に焼きついている、リケの姿。羨ましくなるほどに、晶と会えたことを語るリケは幸せそうだった。
「そっか……。リケと同じ時間から、ミチルはやってきたんですね。リケが元気そうで、よかったです」
テーブルの上に置いた手を組んで、指先を見つめながら晶は呟いていた。彼女がこちらを見ていないことはわかっていたが、ミチルは唇で笑みをつくる。ミチルにできる精一杯の返事だった。
「えっと、ミチルは今――」
髪を片耳に掛けながら晶が口を開く。しかし、その続きは聞こえなかった。
食堂の扉が、大きな音を立てて開いたのだ。
「っ、ミチルが大きくなったって、本当ですか!?」
駆け込んできたのは、リケだった。髪が天井や壁に向かって、ぴょんぴょん撥ねて乱れている。全速力で駆けてきたのだろう。すぐに膝に手をついて俯き、息を整えていた。
「っ、はあ……。あっ……! ミチル!」
「こんにちは、リケ」
顔を上げたリケと目が合う。いつまでも変わらない純朴さに眩しくなりながらも挨拶をすると、リケは瞳を輝かせた。
「本当だ! ミチルが大きくなってる!」
「待って、リケ!」
リケが感動していると、続いて顔を出したのは、南の国の魔法使いだった。リケ同様、彼らは食堂の入り口で足が止まってしまう。
ルチル、レノックスのぽかんと口を開ける姿に、ミチルは悪戯が成功したような気分になる。そして、最後にやってきたのはフィガロだった。
「こんにちは。兄様、レノさん……フィガロ先生」
「まあ! ミチル、大きくなりましたね! とってもかっこいい!」
「ああ。ルチルの背を越したんじゃないか?」
「はい、おかげさまで」
ルチルが先頭をきって歩み寄ってくる。その後をリケとレノックスが続いた。ミチルは席から立ち上がり、迎え入れた。
「わあ! ミチル、私より大きい!」
駆けてきたルチルに手を取られ、ぶんぶん振られる。兄様は変わらないな。ルチルの元気いっぱいな姿にミチルの頬はゆるんだ。
レノックスとリケが隣にやって来て、ミチルの視線は自然と扉の方へに向いた。そこには、壁に背を預けて腕を組みながら、フィガロがこちらを眺めている。
「フィガロ先生、こんにちは」
「……やあ、ミチル。驚いたよ。以前はリケで起きたことが、今度はミチルで起きるだなんて。それにしても、随分美青年になっちゃって」
「本当に。僕も驚きました」
フィガロはゆるく微笑んだ。それは、見慣れた表情。口元だけ笑みを浮かべて、目は少しも笑っていない。それは、彼がじっくりと観察している時にする顔だった。
思い当たる節は、ただ一つ。
――僕がどこまで知っているか、気になっているのかな。
きっとフィガロは、秘密を知られてしまうことを、心のどこかで怖れている。フィガロがなにか秘密を抱えているということは、魔法舎にいた時から薄々気づいていたことだ。
ミチルは頭の片隅で、フィガロを想う。ミチルにとってフィガロはもう、南の国の優しい医者である魔法使いという捉え方ではない。魔法舎にいた頃は、まだまだ未熟で、好きな人のことはすべて知りたいと考えて、秘密を知りたくて行動しそうになることがあった。だって、秘密を知っていたら、何かが起きた時に、助けられるかもしれないから。一時期、家に籠ってしまった時に、フィガロがしてくれたように、自分にも何か助けられるかもしれないのだと、ミチルは考えてしまう。
長生きしてきたフィガロの思考には到底追いつけない。けれど、大切な相手だからこそ、知られたくないこともある。それを、ミチルは学んでいる最中だった。
現実ではまだ、心の整理ができずにいて、フィガロと上手く会話ができないことがある。しかし、今この時間だけは、肩の力を抜いてフィガロと話せる気がしたのだ。
「ねえ、ミチル。ミチルは今、いくつなの?」
「僕は十九です。今年、二十歳になります」
「二十歳! ミチルがお酒の呑める歳になるだなんて! いいなあ、未来の私はミチルとお酒が呑めるのかあ。羨ましい」
「あまりハメを外しすぎないようにな」
「二十歳になるなんて……ミチル、とってもかっこいいです! もう大人なんですね」
「はい、お酒には気をつけます。ありがとう、リケ。未来のリケも、かっこよくなってるよ」
「本当? ふふ、ミチルにかっこいいって言われると、嬉しい」
気さくに話しかけてくれる兄らに言葉を返しながら、ミチルはこっそりとフィガロの様子を伺っていた。壁に背中を預けた状態のままのフィガロは、一歩もこちらに近づいてこようとしない。
「――フィガロ先生?」
「……ん? なんだい、ルチル」
「どうかしましたか? ずっと黙りで……」
ルチルの問いかけに、フィガロがゆったりと反応する。普段とは違った雰囲気をまとう姿に、ルチルとリケ、晶は首を傾げていた。レノックスは、静かにフィガロを見つめている。
「いやあ……感慨深くてね。赤ん坊の頃から知っているミチルが、こんなに立派に成長するだなんて。チレッタに見せたかったな」
「ミチルは父親似ですね」
「レノックス、そうなんですか?」
「確かに! どことなく父様に雰囲気が似ていますね!」
最もらしい感想を投げて、フィガロは場の空気をルチルやレノックスに渡した。そうして再び賑やかになったことを確認すると、皆がミチルに注目している隙を見計らって、誰にも気づかれないように壁から体を離し、踵を返して立ち去ろうとする。
「フィガロ先生!」
ミチルはいてもたってもいられず、呼び止めた。魔法舎を再び訪れて、一番の声量だった。
フィガロがぴたりと足を止める。晶やルチル、リケの視線が、自分に注がれていることを感じた。しかし、フィガロは振り返らない。
晶を想う時の心臓のざわめきとは違ったそれが、ミチルを襲う。血管が破れてしまいそうだと錯覚してしまうほど、ミチルの中で強く脈打っている。深呼吸を一つしたミチルは、声が震えないよう腹の底に力を入れて、フィガロを見つめた。
「――僕のこと、信じてください」
フィガロに伝わるよう、今のミチルができる精一杯の気持ちを込めた。
背中を向けているため、フィガロの表情はわからない。なにを感じ、なにを思い、なにを考えているのか。南の国で育った時からの恩師は、一見わかりやすそうに見えて、心は酷く繊細なのだ。それを知ったのは、最近だけれど。
「ミチル……?」
リケの小さな問いかけが空気を揺らした。ごめん、リケ。今はそれに応えられないんだ。ミチルは心の中で謝った。
背中を嫌な汗が流れていく。
フィガロの返答を、ミチルは拳を握って待ち構える。
「……もちろん、俺は信じてるよ?」
フィガロが振り向いた。まるで南の国で、村人に感謝されてわかりやすくニコニコしている表情を浮かべている。人当たりの良いそれに、ミチルは幼い頃幾度となく救われてきたけれど、今はもうわかってしまうのだ。
――僕に、フィガロ先生は救えない。
無意識に入っていた肩の力が抜けていく。誰にも聞こえないよう、息を吐き出した。頭の中がすうっと研ぎ澄まされていく。
きっとフィガロにとって、ミチルが数年成長したところで変わりはしないのだろう。大人になったところで、それはミチルの中での『大人』であって、彼の中では永遠に『子ども』であるし、どこまでも生徒であり続ける。
彼を救えるのはきっと、彼女しかいないのだ。
ミチルはフィガロの背中を見送った。声は掛けなかった。言葉が見当たらなかった。
フィガロの姿が完全に消えると、握っていた拳をようやく緩める。圧迫から解放された手のひらは、じくじくと小さな痛みを覚えた。
「フィガロ先生、どうしたんでしょう……?」
「……お忙しい方だから、用事でも思い出したんだろう」
「それにしても、黙って出て行こうとするだなんて。一言、声を掛けてくれればいいのに」
ルチルの疑問に、レノックスがフィガロへの助け舟を出す。しかし、リケは納得せず頬を膨らませていた。
「せっかくの空気を壊したくなかったんだと思いますよ、リケ」
「賢者様……」
「ああ見えて、恥ずかしがり屋だからな」
「そうですか……。フィガロは、オズに似ていますね」
晶がレノックスに続いて、リケが抱いてしまったフィガロへの印象を、やわらかく解していく。リケは頑固なところがあるから、一度決めたら突き進んでしまう傾向がある。リケを周囲は充分に理解しいるから、リケがそれに気づかないよう、やんわりと伝えてやるのだ。
本当に、優しい人たちだ。さり気ない優しさに、リケだけではない。自分も昔、同じように諭されたことが何度もあった。凝り固まった思考は柔らかく溶け出して、トゲトゲしていた気持ちは穏やかになっていく。
「リケは、どのくらいここに滞在しましたか?」
「一時間から二時間くらい、でしょうか」
「長くて二時間か……」
――そうしたら、僕も同じくらいかそれよりも短いか、かな。
既にこの世界で目を覚ましてから三十分は経過している。終わりが決まっている逢瀬だと理解はしていた。それでも、晶の目と目が合ってしまった瞬間から、もっと近くにいたい気持ちが溢れ出てきてしまう。
リケはいったい、晶と何をして過ごしたのだろう。リケから話は聞いたものの、晶に会えたという衝撃が大きすぎて、ミチルはリケの語ったことをあまり覚えていなかった。
リケと、なにをして過ごしましたかと、晶に聞いてみようか。ミチルはすぐに首を横に振る。いいや、ダメだ。聞いてはいけない。聞きたくない。晶の口からリケとの楽しい思い出を聞いてしまったら、心の中が泥のようなものでいっぱいになってしまう。
――本当は、リケを応援すべきなのに。
リケとは魔法舎に来てすぐに仲良くなった。親友と互いに認識するまでに時間は要さなかったと振り返る。
ここにいるリケは、晶への想いをまだ自覚していないリケだ。髪の長さや声の高さ、魔法使いとしての力量や経験も、ミチルの良く知る親友とは別人である。理解しているというのに、心は焦燥感に駆られてしまう。
【自分に嫌気がさす 海に潜る】
深い海に潜っていく
息ができなくなる。苦しい
【ルチルのナイスパス ルチル優勝 さすが兄様】
「ミチル、何かしたいことはない?」
「えっ……」
驚いて顔を向けると、ルチルの優しい眼差しが注がれていた。
突然ぐんっと背中を押され、海面に上昇した
ルチルの後ろに美しい朝日を見た。
――なんでもお見通しなんだな、兄様は。
再び出逢えただけで奇跡に近いことで、言葉を交わして、隣に体温を感じて、それだけで幸せなんだ。それなのに、これ以上望んでしまったら、我儘になってしまわないだろうか。
時間は止まってくれない。こうしているうちにも、幸せが終わる瞬間は刻一刻と迫っている。リケが滞在した時間と同じように自分がここに居られる保証はどこにもないのだ。もしかしたら次の瞬間、たちまち白い光に包まれて、感謝もお別れも伝えられないまま、真っ暗な自室に戻ってしまうかもしれない。
ミチルは再び拳を握る。小さな痛みは既に感じなくなっていたが、先ほどと同じ部分に爪が食い込んでしまったのだろう。傷が抉られるような痛みがミチルを刺激して、同時に弱虫な背中を押した。
「僕……晶様の作った、ごはんが食べたいです」
「えっ? 私、の……? ネロが作ったものではなく?」
「はい。……だめですか?」
ミチルは両手を腹の前で組み、顎を引いて晶を見上げた。受け入れてくれるだろうか。頭を傾けて
ミチルの方が背は高いけれど、
「わかりました。せっかくミチルが未来から来てくれたので、頑張って作りますね」
「っ……! ありがとうございます、賢者様!」
嬉しい、嬉しい! とっても嬉しい! 賢者様が、僕のために
「賢者様、私からもお礼を言わせてください。ミチルのために、ありがとうございます!」
ルチルはミチルにそっと視線を向けて、発声せずに「よかったね」とゆっくり唇を動かした。ミチルは宇頷き、同様に自分のことのように
「でも……口に合わなかったらすみません」
困った顔をする晶に、ミチルは心の奥がじんわりと温かくなる
いろいろな 気持ちが溢れ出てしまう
フィガロのように大人ならば、相手の気持ちを上手く汲み取り、不快な思いをさせないよう、言葉を返すだろう。しかし、ミチルにはまだそれができない。
「大丈夫です。晶様の作ったものなら、僕は何でも好物になりますから」
窓から差し込む木漏れ日が、シャンデリアに反射して食堂内に降り注ぐ。テーブルの木目はしっとりとした光沢感が際立ち、深紅のカーペットはより深みのあるワインのようにミチルを酔いしれさせる。まるで魔法舎の食堂が、王宮の謁見の間に姿を変えたようだった。
頬を薔薇色に染めて俯く晶に、ミチルは笑みを深めた。