初めて会ったとき、宇宙人が人間のふりをしたら、こうなのかもしれないなと思った。
最初、碧棺左馬刻にとって、白膠木簓はよくわからない人間だった。
飄々としていて、掴みどころがなく、人懐っこいと見せかけて一線引いており、顔や言葉に乗せた感情は本当かどうかもわかりにくい。聞きなれない喋り方と、意味のわからない単語に、跳ねるようなコミカルな動き。別個体である以上思考も価値観も異なることは重々承知していたが、それにしたって簓は不思議な存在だった。けれど決して不愉快ではなかった。左馬刻が彼を隣に立たせて共に歩くぐらいには。
「うわ、空あっお」
だけど、愚連隊として活動するようになってからも未だに簓の唐突な言動には慣れなかった。不意にぐっと顔を上に向けたかと思えば、至極当然のことを口にする。しかしそんな当然なことが、空が晴れ渡っていることが嬉しくて仕方ないようで、簓は声を弾ませていた。左馬刻とて晴れが嫌いなわけではない。移動に不便はしないし、洗濯物がよく乾く。あと、妹は青空が好き。けれど、それだけだと言ってしまえばそれだけだった。簓はそれ以外の価値を見出しているのか、ご機嫌に空を見上げている。とりあえず左馬刻も倣って見上げた。……普通の、澄んだ青空だ。
「はー、こうもええ天気やと良いこと起きそうな気ぃするなあ」
「そうか?」
「そうやって。……あ!」
唐突に声を上げた簓は、上を見たまま駆け出す。転ぶなよ、と左馬刻が声をかけても上の空だ。一つ年上で事あるごとにお兄さんぶるくせに、こういう所作は子供じみている。呆れつつも左馬刻がついていくと、簓は人差し指で空のある一点を指していた。
「ほら、あそこ」
「なんだよ」
「なんか光っとる。UFOかな?」
指し示す先には、空を横切るようにゆっくりと動く光があった。UFOだとか子供でも信じていなさそうなものを無邪気に信じているのか、こいつ。左馬刻はひとつため息をついた。
「ガキか。飛行機だろ」
「えー。左馬刻ぃ、ロマンっちゅーもんがわかってへんなあ」
案の定簓は拗ねたが、ふと何かに気づいたように呟く。
「白と青……」
「なに?」
「白と、青!」
思わず聞き返した左馬刻に、簓は宝物でも見つけたかのように嬉しそうに顔を輝かせながら自分と左馬刻を交互に指さす。白と青。二人の苗字に入っている色のことを指しているのだろうけど、それにしたって意味がわからなかった。怪訝な顔をする左馬刻とは対照的に、簓はひひひ、と楽しそうに笑う。
「空やん、俺ら」
「……はあ?」
空に白と青を結び付けて言っている、のだろう。それで何故自分たちと空が等号の両側にあるのか、わかるようなわからないような。なんとも言えない表情で頭に疑問符を浮かべる左馬刻に、簓はひとしきり笑顔を浮かべたあと気が済んだのか弾むように地面を蹴って歩き出す。
いつもこうだ。予想外な簓の言動に振り回される。簓に言わせるとお互い様らしいが、結局その事実は揺るがない。
けれど、不思議なことに気分は悪くない。呆れたように息を吐いて、簓の後を追いかけるくらいには。
あのときから存在した、簓の晴れた空のような笑顔が、理不尽な世界での清涼剤だったと気付くのは、まだ少し先の話。
ガラス片に反射した夕陽が目に染みる。左馬刻は眉間に皺を寄せて、顔についた返り血を拭うこともせずしゃがみこんだ。
簓と二人で居るときに敵対グループの連中と思しき奴らから奇襲を受けた。最近この手の輩が増えたな、と相手するまでは良かった。
浅い呼吸はおさまらず、心臓が早鐘を打つ。左馬刻の眼前には、頭から血を流して壁に背を預けたまま座り込んでいる簓が居た。手を口元にやって、彼に息があることを確認した左馬刻は、感情のままに伸した連中を気にも留めず、慎重に簓を背負って歩き出した。
簓は、嘘も隠し事も上手だった。それは大怪我を負ったときでも同様で、脳天に腕で庇いきれなかった一撃を喰らいそこで限界だったはずであろう身体に無理をさせ、最後の一人を倒すまで立ち続けていた。すまん、もうあかんかもと力なく笑って座り込んだときには、バケツいっぱいの水を頭から被ったかのように血を滴らせ、お気に入りの服を汚していた。
馬鹿が、と左馬刻はひとりごちる。誰もここまで無理しろとは言っていない。けれど簓は、左馬刻が思っていた以上に義理堅いのか、求めている以上に尽くしてくることが多々あった。馬鹿が、ともう一度胸中で零す。それで死んでしまったら、元も子もないのに。簓のことを知れば知るほど、彼も人間なのだと思うほど、左馬刻は己の心に彼が住み着く領域が段々と広がっていくのを感じていた。信頼の証で、決して悪いものではない。けれどそれは、裏を返せば失うのが恐ろしくなる、ということだった。一秒でも早く懇意にしている医者のところへ行き、治療をしてもらわなければと簓を運ぶくらいに、大切に想っている。
簓の頭から流れ出た血が、左馬刻の服も汚していく。夕陽にも劣らぬ鮮やかな紅。空、白と青だけじゃないじゃねえか、と思う。けれどこの色は、好きじゃない。
「……死ぬなよ、簓」
聞いているはずはないと理解しながらも、左馬刻は祈りのような言葉を口にする。神様なんて信じていないし、居たとしてもきっとクソ野郎だと思っている。けれど、今はそのクソ野郎に頭を下げてもいいから、簓を連れて行かないでほしかった。まだ、傍で笑っていてほしい。なんでもないような日常を騒がしく賑やかに彩って、ほどほどにでいいけど、振り回してほしい。仕返しといっては何だけど、お前と居るの結構嫌いじゃないぜと伝えたら、あまりに驚きすぎていつも細めている目を見開いたあの顔にまたしてやりたいから。
点々と血痕をつけながら、静かな路地裏を進む。背負った簓の身体は、思ったよりも軽い。こいつ、魂の重さは何グラムだって言ってたっけな、と、走馬灯のように簓とも思い出を回想してはかき消す。まだ死んでいない、死なせない。左馬刻はかんかんと鉄板の階段を上り、目的地の扉を軽く蹴る。数秒ほどして開いた扉に急いで身体を滑り込ませた。
ベッドの上で、簓が静かな寝息をたてている。左馬刻が彼の首筋に手を触れると、きちんと温かくで、命がそこにあるのだと確かめられる。輸血のためにと血を抜いた自分の腕をちらりと見た左馬刻は、簓が起きるまでの時間潰しにと窓の外を見た。
「……空、青いな」
夕焼けに蓋をするように広がる青い光。街を染め上げる色に、左馬刻は目を細める。これは、簓が言っていた何かだった気がする。よく晴れた日の夕焼けの後に見られる光。ころころと表情を変える空模様で、あれがいっとう好きなのだと笑みを浮かべていた理由。
「……ブルーモーメント」
思い出した単語は、誰に返答されるわけでもなく消えていく。そして、時間とともに青は深くなり、夜へと姿を変える。十数分で、青い光は姿を消したのだ。
簓はまだ、目を覚まさない。普段は黙っていてもうるさいほどに表情が豊かなくせに、こういうときはただただ穏やかな寝顔でいるだけだった。
だけど、居なくなられるよりはずっとましだ。
永遠なんてものは、きっと存在しないとわかっている。けれども、左馬刻は一秒でも長く、簓が傍に居るのを望んでいて、手を掴んだままでいる。彼が触れられない光でも雲でもなくて良かったと思いながら。
左馬刻は武骨な指先で、簓の頬をなぞる。早く起きろよ、と呟いた。
蝉が騒がしいのに、静かな夏だと思った。
簓が芸人としての仕事を再開してから、休みの日はどんどん仕事で埋め尽くされていく。その数少ない休みが、今日だった。
特に何か用事をいれているわけでもない。どこかに行きたいわけでもない。けれど、なんとなく家でじっとしている気分じゃない。天気予報士が言った気温は高いのに、簓はわざわざ外に出ることを選んだ。
数年ぶりのオオサカは、変わったようで変わっていない。簓の自宅周辺も、いくつかの建物が増えたり減ったりしていたが、しっちゃかめっちゃかに色を詰め込んだような空気は何も変わっていなかった。
変わったのは、俺の方。蒸し暑い空気の中、蝉の合唱を耳にしながら簓は思う。イケブクロでの夏、こんなに蝉おったっけなあ。そこまで思い出そうとして、やめた。なんとなく、胸がざわついた。乾いたアスファルトを見ながら歩く。誰かが捨てたアイスの棒にアリが集っていて、ああ、アイス食べようかなあとぼんやりと思った。
あのとき。左馬刻と袂を分かち、その足でオオサカ行きの新幹線に乗った日から、簓は空を見上げていなかった。脳裏に虫が這いまわるかのように、吐き気がこみあげるから。でもなぜだか、理由はわからなかった。左馬刻を嫌悪している理由も。たしかに感情はそこにあるのに、まるで自分のものじゃないかのような違和感。それでいて、無理に引きちぎれないでいる。悲しいほどに。わかってはいたけれど、自分はつくづく最低な人間だ、と簓は自嘲した。この苦しみを暑さの言い訳にするために、外に出てきているのだから。
ちりん。涼やかな音が、その思考を遮断する。
簓は、過去に何度か訪れた記憶のある駄菓子屋の前に立っていた。まだやっていたのか、懐かしい。風に揺れる風鈴も、アイスキャンデーと書かれたぼろっちい貼り紙のある冷凍庫も、建付けの悪い引違戸も、そのままだった。中に居るであろう店主に一声かけて入ると、のんびりとした老婆の返事が来る。ちりん、とまた風鈴が鳴った。
思えば、一人で駄菓子屋に来たのは小学生以来かもしれない、と簓は思い出す。あのときは遠足のおやつを買うために来ていた。小銭を小さな手で握り締めて、ぎりぎりの額までおやつを買おうとして、値札を見ながらうんうんと悩む時間。あれ、楽しかったなあ。ふふ、と笑みが零れて、その直後に頭痛が簓を苛む。まただ。何か、何かに触れられそうなとき、捕まえられそうなときに、痛みが邪魔をしてくる。
次いで、吐き気とめまい。
痛みが、激しく、なる。
せかいが、まわり。
腕に冷たい物が当てられ、我に返る。小さく悲鳴をあげた簓は、すぐ隣に店主の老婆が立っていることに気づいた。いつ見ても全く同じ老け具合で、近所では妖怪か魔女の類と噂されている老婆は、蛙のような口をにんまりとさせて、無言でペットボトルを差し出してくる。冷たさの正体だった。冷蔵庫から出したばかりなのか、水滴がぽたぽたとなだらかな壁面を滑り落ちる。爬虫類のような目を細めて、老婆はペットボトルを簓の手に持たせた。踵を返した曲がった背中が、熱中症には気ぃつけや、と静かに言う。
「……あ、おおきにな!おばあちゃん!」
「百円さね」
「いや金とるんかい!そらそうか!」
「じょおくや、じょおく。うちで病人出ても、この婆にはなんもできんさけ。それに」
あんた、何か大事なもん無くしたんやろ。
続けられた言葉に、簓は息を呑んだ。何も言えないまま、汗が首筋を伝う。老婆は、居間と店の境目にある椅子に腰かけて、飼い猫の背を撫でていた。
大事なもの。無くした。オウムのように、その言葉を反芻する。
だいじな、もの。
「駄菓子屋って、どんなのがあるんすかね」
一郎の発言に、簓はひっくり返りそうになった。なんなら半分くらいひっくり返ってた。だが空却は特に驚いていない様子で、「そういやお前、行ったことないんだっけか」と口にする。連続で衝撃を受けた簓は、今度こそひっくり返った。
「だ、大丈夫ですか簓さん!?」
「ほっとけ、頭打ったら多少はバカなのが治るんじゃねえの」
「誰が馬鹿や!」
心配してくれる一郎とは違い、空却は揶揄うように笑っている。勢いよく状態を起こした簓に、「何やってんだお前」と呆れたような声をかけたのは左馬刻だった。
「ああ、一郎がなあ、駄菓子屋行ったことないねんて。そんでびっくりしてもて」
「……俺も行ったことねえな」
簓はまたひっくり返った。
あのわくわく感を知らないなんて羨ましい、今から三百円やるから騙されたと思って駄菓子屋に行こうという簓の熱烈な説得により、新生MCDの四人は駄菓子屋に来ていた。別に菓子なんてコンビニでも買えるだろ、と言う割にちゃっかり三百円を握り締めている空却は、さっそく店内に入っていき玩具を物色していく。お菓子買えっちゅってるやろーが、という簓の声すら気にせずに。
「三百円、ってなるとなかなか悩みますね。一個一個は結構安いのに……」
「やろ?それが駄菓子戦士の極意や……」
「駄菓子戦士……?」
「なんだこのちっせえヨーグルトみたいなの。こっちは……紐?」
「それ紐グミな。あんまりわけっこできへんから遠足には不向きや」
「なんで俺様の菓子を分けなきゃなんねえんだ」
「はー!?遠足はおやつのシェアこそ醍醐味やぞ!このあと遠足行くんやで!公園でええから!」
「いい年した男四人が遠足って……あ、これ金足んねえわ。簓ぁ、くれ」
「なんで空却はシャボン玉買ってんねん!二つも!おやつを!買え!」
ぎゃいぎゃいと騒ぎながら菓子と玩具を選ぶ四人を、穏やかな雰囲気の老夫婦が見守っている。
あの馬鹿みたいにはしゃいだ時間。間違いなく、色あせない輝きを持っていた時間。
ああそうか。あいつらが居ないから、夏がこんなに静かなのか。
気付けば、簓の足元には猫が居座っていた。何もかもを見透かしたような瞳で簓を見上げている。簓を責めるようで、慰めるようで、どちらともつかない目。
あの輝かしい夏が来るはずだった未来を、簓が自らの手で断ち切ったのだと知っているかのような目。
ちりん。風鈴が、鳴る。
たじろいだ簓は、飲料を貰っておいて何も買わないのもどうかと思い、アイスキャンディーと、駄菓子をいくつか買って足早に店を出る。日陰のないアスファルトの上は、焦がされるように暑い。
アイスキャンディーの封を切る。あの遠足のあと、帰りに皆でアイス買ったな、ということを思い出す。買ったのはコンビニで、簓のおごりだといったら三人ともこぞって高いものを持ってきて、呆れつつもお前ら面白いなあと笑った日。
あの日と同じ、太陽が空に昇っているのに。
「……空、青いなあ」
目に染みるほど、晴れ渡った空は、鮮やかな青だった。
アイスが溶けて、手を伝って、甘い涙をアスファルトに落とす。どこからともなく、アリが群がってきた。
空なんだとよ、俺たち。そう言って笑う兄の笑顔は、穏やかで、楽しそうだった。
欲、というものは汚らわしく扱われがちだけど、合歓は嫌いではなかった。
人は、欲で生きている。生きて、社会を作って、愛して、今日を明日にする。人が人である限り、切って離せないもの、だと思っている。
だから合歓にも欲が、綺麗な言葉で言うと夢がある。
青い空気と、白い雲。簓が左馬刻と自分を指して言ったのだと、左馬刻は可笑しそうに笑っていた。けれど、合歓はぴったりだと思った。そう口にすると、左馬刻はお前のほうがあいつの感性についていけるのかもしれねえな、と言っていたけれど。
簓がどういう考えで、その言葉を口にしたのかはわからない。だって合歓は合歓だ。それ以外の誰でもない。合歓はただ、二人が青空の下で笑っているのがとても似合っていて、それで、ずっと二人が笑っていますようにと願っているから。それだけだった。
願うだけでは、意味はなかった。中王区に取り込まれて、そこから足掻いて、必死で足掻いて、兄やたくさんの人に助けてもらって、過去を乗り越え歴史に引導を渡したとき。身をもってそう知った。行動が伴わないと、願いは叶わない。かつて左馬刻が、合歓を守るために手を血まみれにしてきたように。
だから。
「簓さん。もう今日の夜に帰るって本当ですか?」
中王区という垣根が無くなり、新たな時代の幕開けを人々が目に焼き付けた日から数日後。誰も彼もが怪我塗れに砂ぼこりまみれで、顔を見合わせて笑い合ってから、祝杯でもあげないとやってらんないでしょ、と声を揃えたのに。簓はそれを仕事があるからと断って早々に帰ろうとしていると一郎から聞いた合歓は、一郎と空却を連れてつかつかと簓に歩み寄った。簓はどこか決まりの悪そうな顔をしながらも、よくテレビで目にする笑顔を浮かべてすまんなあ、と言う。本当に聞きたいのは、そういう言葉じゃなかった。けれど望み通りの言葉を引き出すには、まだ段階を踏む必要がある。
「なんだよ仕事ってよォ、付き合い悪ィなあ~断っちまえよ!」
「アホ、服引っ張んな!お前ほんま大人になったんやからちょっとは落ち着き見せぇや空却」
「やだね。せっかく酒飲めるようになったんだ、勝負しようぜ~」
「飲む前から酔っ払いみたいな絡み方してくんなや……一郎、これなんとかしてえやあ、やかましくてかなわんわ」
「……や、ちょっと返品不可っすね」
「押し売りされたん俺?てかさっきから一郎変やで、どないしたん?」
簓に声を掛けられるまで一郎が何か言いたげに俯いていたことに気づいていたのか、簓は彼の顔を覗き込んだ。先ほどまで騒がしかった空却が、その瞬間ぴたっと黙り込む。簓の上着を掴んだまま。
一郎は、簓に隠し事ができないと判断し、しばらく視線を彷徨わせてから、口を開く。
「……ちゃんと話さなくて、いいんすか」
その言葉に、簓は少しだけ表情を固まらせた。誰と、とは言わなくても伝わる。簓がまだ蟠りを解いていない人間は、一人しか居ない。
左馬刻だ。
「……話すっちゅーてもなあ」
慎重に言葉を選びながら、簓は眉尻を下げた。けれど、彼の得意分野である舌戦に持ち込ませない策を、合歓は用意している。
「お兄ちゃんと、口をきくことすら嫌ってことなんですか?」
悲し気な彼女の声音に、簓は咄嗟に「そういうわけとちゃうけど!」と声を上げる。言ってしまった言葉は取り返せない。それを良く知る彼はしまったとすぐに後悔するが、十分すぎるほどに遅かった。相変わらずこいつ可愛い顔して恐ろしい、という空却の視線を気にせず、合歓は真っすぐに簓を見つめる。気迫のある紅の瞳は、左馬刻の目つきによく似ていて、兄妹なのだと簓は思い知る。ねえだったら、少しでもお話していきましょうよ。柔らかに紡がれる言葉からは、逃がさないという意志が見て取れる。助けを求めようと一郎と空却も見るが、真剣な顔つきで簓を見ていて、おそらく彼らも合歓と同意見なのだろうと察する。洗脳という業を簓と同じく背負って、それでもなお乗り越えた彼らは、どこまでも輝かしかった。
「……このままだと、後悔すんぞ」
「簓さん、遅すぎるってことはないです」
きっと、彼らの言う通りなのだろう。それでも、と簓は視線を下げる。真っすぐな彼らと目を合わせていると、自分の罪を忘れてしまうような気がしたから。
あのとき、両親の仲を取り持てなくて。
あのとき、盧笙の夢を壊してしまって。
あのとき、左馬刻を目いっぱい傷つけてしまって。
だからもう簓は、戦いが終わったら、もう大切な人と直接は関わらないでおくつもりだった。左馬刻が、皆がそろって笑っていて、もうそこで簓の中ではエンドロールが流れている。皆の笑顔を守ることに少しでも手を貸せたのなら、それで十分だった。めでたしめでたしに拍手をして、映画館から出ていくみたいに、もうそこに簓の居場所は無い。あってはいけない。
だから簓は、かつての後輩二人の言葉に首を横に振った。
「すまんな。俺、行きたくない。きっと後悔するってわかってても」
「なんで……!」
声を荒げようとした空却を一郎が制する。それで一度大人しく引き下がるあたり、ああ空却も大人になったのだと簓は思う。きっと二人はこれからも良い関係を保ちながら歩んでいくのだろうと、どこか眩しいものをみる心地で、もう一度だけすまん、と言う。
「もうええやん。あいつも幸せそうなんやし、過去のこと抉る必要もないやろ。これでええんや」
「……簓さんは、本当にそれでいいんですか?」
合歓が足を踏み出す。簓のすぐ前に立ち、そっと袖を握る。きっと、彼らの手を振りほどけば、彼らから逃げてしまえば、もう掴まれることはないのだろう。なんとなく、そう確信する。簓は、伏せた目をそっと合歓に向けた。
「……ええの。左馬刻が幸せやったら、それで十分」
「……って言ってるけど、お兄ちゃんはどう思う?」
合歓が発した言葉に、簓は慌てて周囲を見渡した。ほどなくして、鋭い眼光で簓を見つめる左馬刻が物影から姿を現す。なんで、いつから。微笑む合歓の顔に、ああこの子そういやめちゃくちゃ強かなんやったわと内心で頭を抱える。それに、逃げようにも空却と合歓にしっかりと服を掴まれていて、一郎が背後に立ちはだかっている。逃げ場がないまま、左馬刻が近づいてきて、それから年下三人が離れた。
「えっちょっお前ら」
「お兄ちゃん、緊張で顔怖くなってるよ、頑張って!」
「じゃーなー簓ァ、精々頑張れよ?」
「簓さん、すみません……!けどこれ以外なかったので!失礼します!」
困惑する簓を、三人は置いてけぼりにする。あとに残されたのは、彼と左馬刻だけ。
半ば強制的に向き合わざるを得なくなった状況。けれど、歯車が噛みあい、回りだす音がした。
少し離れたところから見守っていた合歓は、兄と兄の想い人が言葉を交わし、とうとうしっかりと抱きしめ合ったところで漸く満足げに笑みを浮かべた。
空、捕まえた。
きっとこれからは快晴だと、合歓は鼻歌を歌いながら、軽やかに歩き出したのだった。