祝いの酒を用意していたことを、誰にも打ち明けられずにいる。
四年前だ。
九十年もののヴィンテージラベルのルパン。そんな高級な葡萄酒を森さんから紹介されたポートマフィアの重要な顧客の一人である、資産家の狸親父から手に入れた。とある変な異能にかかって、それの解除を人知れず頼って来たのだという。嘘をつけなくなる異能、という資産家にとってはとても恥ずべき異能にかかり、それを逆手にまぁいろいろ恥ずかしいことを口を滑らせてくれた。私が外で異能で喋った秘密を漏らすといけないと思ったのか、資産家の彼は自ら私に言った。この館にある中で君が欲しいものを、一つなんでも差し上げよう、と。
時価数億をくだらないだろう希少品の金剛石。
もうすでに没した有名画家の歴史ある絵画。
はるか昔の職人が作り上げた骨董品の陶器。
金に変えられるものは、なんでもその館にはあった。今すぐ私を楽に死なせてくれるもの、なんて甘美なものはなかったけれど。どれも狸親父らしい趣味の悪い美術品ばかりで、退屈で欠伸が出そうな中で目に入ったのは、それだった。ルパンの葡萄酒。
十六になって、酒の味を覚えた莫迦な相棒を嫌でも思い出す。最近、自分の部下ができたのが嬉しいのか、連夜、任務が早く終われば部下を連れ立って、夜の街に繰り出すのだ、あの蛞蝓は。結局、その先で潰れて、部下がこそこそと私に連絡をくれていることも、あの蛞蝓は知らない。本当に、塩でもかけて溶かしてやろうかと、何度そのみっともない酔っ払いの姿に思ったか知れない。
そんな酒に溺れる相棒の、一番好きな酒は、葡萄酒なのだという。
梶井さんが連れて行くバーならウイスキー、姐さんが好むなら日本酒、それなりにいろいろ酒に触れる機会はありそうな男だが、葡萄酒がいい、と中也は言った。
「バーの中の暗がりの中で揺れる電灯の光に照らされる葡萄酒の色は、血みたいでいい。飲んでてテンションが上がるんだよな」
味の話じゃなくて、見た目から入るのか、この莫迦は。テンションが上がる、なんて幼稚な言葉で飲まれる高い葡萄酒のことを思うと哀れでならない。なんでも森さんがくれた葡萄酒がきっかけだったそうで、名前が思い出せねえ、という中也に、ラベルの色や、味を聞いて(それも、中身は建物の絵が書いてあったとか、匂いは樽みたいな木の匂いがちょっとした、とか子供みたいな感想だ)葡萄酒を特定して教えてやると、中也はひっくり返った。調べたら云十万もする葡萄酒だったという。森さんも子供によくそんなものをくれてやるものだよね。
「幹部の椅子はまだ遠いなぁ……」
そう言って、中也は最近ちょこちょこ金を貯めている。なんでも幹部になった日にもう一度その酒を飲むために、祝い酒貯金だという。絶対、それ私が飲む日が来る方が早いと思うんだけど。
そんな呆れる葡萄酒の騒動を思い出しながら、その狸親父の貯蔵する葡萄酒のボトルに手を伸ばしたのは、何の因果か。
「──主人。もしよければ、こちらを一本、私にいただけますか?」
私の言葉に、お目が高い、と狸親父は褒めながら内心ほっとした安堵の色を浮かべたのが表情の変化ですぐにわかった。当たり前だ。ヴィンテージとはいえ、こんな酒の一本よりもよほど価値があるものがこの館には、たくさん存在する。子供には骨董の価値もわからんか、と言いたげなその狸親父に私は微笑む。
──こんな札束にしかならない悪趣味な美術品よりも、あの蛞蝓の悔しがる顔の方が、よほどおもしろいじゃない?
奇しくも、しばらくすれば中也の誕生日だ。祝い酒として彼の前に持っていってもいい。あ、もちろん中身は私が飲むよ。空っぽの瓶を前に悔しがればいい。味はどうだった、うまかったのか、と騒ぐ相棒に、私は余裕をかまして微笑みながら言ってやるのだ。「そうだね。君が幹部になってそんなしみったれた貯金なんてしなくても自由に高級酒が飲める日を楽しみにすればいい。まぁ、私と違って何年かかるかわからないけどね」──あゝ、それってなんて愉快な誕生日だろう。
ちょっと重い瓶を片手にしながら、私はその日帰路についた。いずれ来る彼の誕生日の日に備えて。
結論から言うと、そんな日はこなかった。
それが私がポートマフィアで過ごした最後の年だったから。あの頃、明後日、一週間後、一ヶ月後、簡単に私たちは未来の話をした。かつて、私も子供だったのだ。死にたくなるほど退屈な明日が来ることを当たり前だと思っていた。──織田作を、失うまでは。
ねえ、中也。あの頃の私たちに、来年なんてありはしなかったのにね。今も、誰にも渡せないヴィンテージラベルの葡萄酒が私の部屋にあることを、君は知りもしないのだろう。
*
「うわぁ……、最悪」
「あァ? そりゃこっちの台詞だよ、このポンツク」
何抜け抜けと俺たちポートマフィアの縄張りに足突っ込んでんだ。バーのカウンターに腰をかけて、顔を真っ赤にした蛞蝓が呂律も回らない舌ったらずな喋り方で私に絡んで来る。久々に飲もうと帰りに昔馴染みの店に足を伸ばしたのが悪かった。とはいえ、もう時間も夜10時を回る。ここから新しい店を探すのには面倒だった。私は仕方なく酔っ払いの隣にある椅子を引いて腰を下ろした。
「……マスター。モルトウイスキーのロックを一つ」
「蒸留酒だぁ? マスタぁ、俺はコニャックのロック」
「ちょっと。まだ飲む気なの。マスター、彼にチェイサーを」
「まだ酔ってねえ」
「便所の鏡で顔色見てきなよ。その赤い猿の尻みたいな顔の色をさ」
「誰が猿だぁ……」
文句を張り上げたと思ったら、その瞬間、操り人形の糸がぶちりと切れたように、中也がテーブルに顔を伏せた。頬をべたりとカウンターにつけて、恨めしげに私を見上げる。ぱちぱちと目を瞬かせながら、中也が口を開く。
「……ただでさえ死んで欲しい男が今二人に増えた。太宰、手前、ついに分身したか」
「君、相当酔っ払ってるね? まったく、今日みたいな日に一人で深酒なんて、寂しい男だね」
「今日みたいな日ぃ?」
「……、君、誕生日だろ、今日」
ぼそりと私は言ってやった。なんで自分からこの日を口にしなくてはいけないのだ。全く酔った中也が性が悪い。会話が支離滅裂になるから、いつものこちらの調子に持っていけない。中也は私の言葉にふふふ、と気持ち悪い声で笑いを漏らした。
「何。気持ち悪いんだけど」
「今日一番最初に祝いをくれたのが首領だ。執務室に朝一番に戸を叩いたら、一番最初におめでとう、と一言くださった。首領直々にお勧めの蒸留酒を貰った。大事に飲む」
よし。今度、中也の家に忍んだときに、全ての蒸留酒の酒の封を空けてやろう。私は心に誓った。
「昼はなぁ。姐さんが用意してくれた老舗の洋食屋で、うまい肉を食った。普段、和食が好きな姐さんなのに、俺の好みに合わせて洋食にしてくれたんだと」
洋食屋。まるで子供の舌に合わせてやる母親である。そんなことを言ったら、金色夜叉にみじん切りされて私の未来はない。私は口を閉じた。
「午後はなぁ、エリス嬢がわざわざ俺の執務室に来た。いつも俺が淹れる紅茶を真似て淹れてくださった。でもお茶を入れるときに火傷したって言うから、慌てて医務室まで丁重に運んだ」
ああ、目に浮かぶよ。気障な君がエリス嬢を姫君のように抱いて颯爽と医務室にわざわざ運ぶ姿をね。っていうか火傷で、しかも異能の少女にそこまで丁重にする? 君のレディファーストは最早犬といってもいいよ。
「夕方なぁ。黒蜥蜴と梶井が俺の執務室に来た。一杯飲もうっつーから、付き合いに着いていったら、なぜかその居酒屋に樋口が来てなぁ。三時間、芥川トークをされた。酒は全部樋口につけた」
樋口さん、顔は可愛いのに、どうして男の趣味だけがああなってしまったか。三時間も色恋のそんな話に付き合うポートマフィアもポートマフィアである。
「……長え、1日だったなァ……」
そういって中也はどこか満足そうに眠たげな瞳を閉じる。ちょっと、寝ないでよ。誰が酔った君を送ると思っているんだ。私は中也の小さな鼻を引っ張り上げる。
「っ、痛ってェな、何しやがる」
「ちょっとは酔い冷めた? で、なんでそこまで飲んで、最後にこんな店で一人飲んでるの。君がもてない、一人身の哀れな男なのは重々知ってるけど、広津さんぐらい引っ張ってこれなかったわけ」
「うるせえな、女の気分じゃねえんだよ。……一人、祝いを毎年もらい損ねてる奴がいるんだよ」
「……待ってたなんて、言わないでよ」
「知らねえ」
ふん、と生意気に鼻を鳴らして、中也は目の前に置かれていたチェイサーを煽るように一気に飲み干す。そうして、空になったグラスをテーブルにとん、と勢いよく置いた。多少、酔いが冷めたのか中也が真面目な顔で私を見つめてくる。全てを見透かすような透明なターコイズの瞳。なに、と文句を告げた私の口はなぜか乾いていた。私は思わず頼んだ蒸留酒のロックに手を伸ばす。
「今日のな、午前中の仕事は首領の持っている上客の挨拶巡りだったんだ。久々に顔合わせたな。手前、覚えてるか。趣味の悪い美術品買い漁るのが趣味の商社の資産家の狸」
「……ああ。あの見る目のないお爺さんね。覚えてるよ」
「もう老いぼれだから、耄碌してんのか、黒い街灯を羽織った俺を誰かと間違えてんだよな。爺さんが、あの頃、土産に君が選んだ葡萄酒はうまかったか、って俺に聞くんだよ」
「……ふーん」
「なぁ、うまかったか」
手前、葡萄酒は趣味じゃねえのに、なんであの館の中で手前の趣味でもねえ葡萄酒を唯一、土産に選んだんだよ。
そう問うた中也は、確信するようににやりと笑った。
──そんなのは、私が聞きたい。十六の私が、あの宝に囲まれた館の中で、古い葡萄酒を一本しか選べなかったこと。そのとき、何より、君の悔しがる顔を思い浮かべて楽しみにしたこと。ポートマフィアを抜ける夜に、身の回りのものをかき集めた鞄一つに荷物の中に、その葡萄酒を潜ませたこと。あれから四年経っても、その葡萄酒を空けられていないこと。全部、全部。君のせいじゃないか。
八つ当たりにもほどがある論理だった。私らしくもない。蒸留酒が簡単に回ったのか。私は手に持つロックグラスを傾けて、丸い大きな氷を琥珀色の酒の中でからん、からん、と揺らす。酒は怖い。この四年を、なかったことに、しようとする。
──ねえ、中也。あの頃の私は来年がこないことを、知らなかった。
「……じゃあ、君。聞くけど、その酒が、まだ私の部屋にあるといったら、どうするわけ?」
「悪かねえな。爺さんから聞いたところ、九十年もののヴィンテージのルパンだ。祝いの最後に閉めるには上等な酒じゃねえか」
「……私の部屋に、来てくれるんだ。幹部様?」
私はそっとカウンターの上に置いた手を滑らせて、中也の無防備な右手に重ねた。革手袋の無機質な感触。つまらないその感触に、私は辟易しながら、そっと指先を手袋の隙間から侵入させて中也の肌に、じわじわと触れる。あの頃と変わらない、温い温度。びくり、とたった手の甲をなぞっただけで過敏に中也の肩が揺れた。
「……子供体温。変わらないね」
「……手前の手が冷えんだよ、いつも」
「酔い冷ましには丁度いいでしょ?」
「……悪かねえ」
気持ちいい。そううっそりと目を細めて、私の掌を見つめて素直にぼそりと言うから、困った。本当にこの酔っ払った幹部様は。始末に負えない。
「……困ったな」
「何が」
「素直な君なんて珍しいから、このまま理性がある君を抱くのもきっと愉しいし、でも四年越しの美酒を飲みたい気持ちもあるし、どっちも甲乙つけがたい」
「……いや、少しは俺を祝うって気持ちはねえのかよ」
手前がやりたいことしかねえじゃねえか。中也が呆れた顔で物申した。
「そうだよ。私の4年前からのモットーは後悔しない生き方だからね。好きにやるさ」
「いや、四年前もくそも手前はずっと自由に好きに生きてるだろうが……、来年じゃ駄目なのかよ」
「え?」
「……もう、四年も五年も、いっそ十年も、ここまでくりゃ一緒みてえなもんだろ。また来年、再来年、その酒をとっておくって考え方はねえのか、手前には」
私は思わず目を瞬かせた。──ねえ、中也。あの頃の私は、来年が来ないことを、知らなかった。君は知っているというのか。どうして大人になっても迷いもなく、そう颯爽と未来の話を口にできるのか。本当に何年経ってもこの男は、理解ができない。──理解ができないから、こうして、また気まぐれに求めてしまう。
「……あると思うの? 今の私たちの関係に、来年が」
「……さあな」
自分で言い出したことなのに、無責任に中也は逃げた。勝手に中也が滔々と語り出す。
「俺たちの関係に来年があるかは知らねえが、少なくとも、このヨコハマの街は来年でも再来年でもあるだろ。夜のヨコハマにはポートマフィアがいるし、なにより、俺がいる。昼の世界には悔しいが探偵社がいる。……手前も、いる」
来年も、再来年も、この街がある限り、手前が死なない限りはうまい酒なんて飲む機会はいつだってあんだろ。
そう言って、中也は私を見つめながら、にやりといつもの右唇だけを少し持ち上げた、下品で不敵な笑いを唇に浮かべた。
「むしろ、早くその酒飲めなかった後悔抱えて死んでくれ、って思ってるけどな。地獄で手前が唇噛んで悔しがる姿想像しながら俺はそのいつかの誕生日にその酒を飲むの楽しみにしてるわ」
「なにそれ」
本当に、むかつく。この蛞蝓。いったいこの後、どうしてやろうか。私はする、と手を滑らして中途半端に指先で侵入した手袋の中で指を滑らせていく。するり、と中也の白い掌を守っていた自慢の革手袋がカウンターの上に散った。彼の指と指の間をくすぐりながら、私は閉じた貝殻のように彼の手を己の手の中に閉じ込める。ふるり、と中也の睫毛が期待するように揺れた。その欲望を明らかにするために、私は微笑みながら口を開く。
「……それよりさ。君、今までの発言の意味、わかってる?」
「なにをだよ」
「君が言ったこと、酒より、今日は私に抱かれたい、っていってるのと同じだけど?」
「は……?」
「仕方ないなぁ。それだけ君が望むなら、今日という祝いのために私が一肌脱ぐしかないじゃない? 文字通りね。大事な相棒きってのご要望だものね」
「ち、ちがう! んなわけねえだろ!」
「はいはい。マスター、お勘定。私の分も彼の会計につけて」
「おい、さらっと俺の会計と手前の分を混ぜてんじゃねえっ」
きゃんきゃんと子犬のように喚く中也を尻目に私は砂色のいつもの外套を羽織る。喚く中也の頭の上に、カウンターのそばに置いてあった彼のご自慢の帽子をぽんとのせて頭をぽんぽん、と叩いた。何すんだ! とまた大きな声で喚く中也に、私はそっと耳元に唇を寄せる。
「早く帰らないと、今日という祝いの時間が終わってしまうよ、中也」
改めて、おめでとう、中也。
四年越しに告げた祝いの言葉に、わかりやすく赤く染まった耳朶を少し愛おしく思いながら、私は今日という残りわずかな時間を愉しむために、バーの回転扉の鐘を鳴らしながら夜更けのヨコハマの街へと先に出る。
四年ぶりの祝いの葡萄酒の味を、私たちが一体いつ知るかは、私たちが生きるこの街だけが知っていればいい話なのだ。
END