「…っ、ぅぐ…っ!あぁっ!」
じんわりと汗ばむような蒸し暑さを感じる部屋で、
尾形はガンガンと頭の奥を金槌で殴られているような錯覚を覚えた。
上も下も分からない程に揺さぶられ、突き上げられ、その度にあっあっと意味を成さない声が上がる。
「もぉ…っやめ…っいやだ…っ」
バチュンッと大きな音を立て、腰が浮かぶほど奥まで打ち付けられ、
抵抗する術のない尾形はグンッと仰け反った。
何度も嫌だと繰り返すのに、自分の上で無言でひたすら腰を振る男、杉元には届かない。
中のモノがぐぐっと蠢くのを感じたと共に、
最奥に叩きつけられる熱。
はぁはぁ、とまるで獣のような息遣いだけが辺りに響いた。
涙やら汗やらでぐしゃぐしゃになった顔を拭う気力もない。
もう、何度こうして中を汚されたのだろう。
なのに、今も尚、尾形の体は浅ましく杉元を欲して離さない。
どうしてこんな事に。
尾形は無理矢理、理性を拾い集めて考える。
だが、そんなものも突如、ふわりと鼻を掠めた杉元の匂いによって早々に打ち砕かれた。
甘い痺れに思考が停止する。
傷だらけの腕にするりと手を伸ばすと、尾形は小さく唇を震わせた。
「ぁ…、もっ、と…」
流されてしまえば後は溺れるだけ。
理性では抗えない、自らの性による本能。
今この空間で、尾形は杉元に支配される為だけに存在していた。
この世には、性別、血液型の他に、
後天的に現れる性がある。
優秀な遺伝子を持ち、天性のリーダーシップを兼ね備えたα、そして、最も数が多い凡庸なβ。
そして、稀少性が高いがαに寄り掛かることでしか生きていけず、世間から虐げられるΩ。
これは数年前までの常識である。
医療が発達した現代では、性による差別が殆ど感じられないよう効果の高い抑制剤が出回っていた。
名目上は、健やかにどの性であっても生きやすいように、という謳い文句だが、
結局は、若くして周りに期待され、
その重圧に耐えきれなかったαが自らの命を絶ってしまったり、
自棄になりΩを襲ってしまうと言ったような事件が相次いだ為、
αの高潔なる血をΩのつまらない命で汚さぬようにと施行された施策である。
けれど、いくら抑制剤で自分のフェロモンを抑え込めても、
劣等遺伝子であるΩに対する風当たりは強かった。
更に言えば、女ならまだしも、男のΩにたいしての人権など無いに等しい。
そして、尾形もまた、自らの性を隠して生きなくてはならないΩである。
だからこそ、尾形は血の滲むような努力をしてそれを隠し続けているのだ。
普段、気の良い友人の顔をしていても、尾形がΩだと解った瞬間蔑み、
哀れんでくる人間を今まで何度も見てきた。
それだけならまだいいが、
中には、友人として傍においてやるのだから、
体を差し出せとまでのたまう奴まで出て来る。
勿論、尾形はそう言う奴等を何かある度に実力で屈服させてきた。
自分は、人から哀れまれ、守って貰うような弱い人間じゃない。
その意識が、Ωとして産まれてしまった尾形の矜恃を支えていた。
誰にも頼らず、1人で生きていく。
他人に助けられるなんて死んでもごめんだった。
とは言え、体質ばかりはどうしようもない。
朝から顔の火照りを感じた尾形は、カレンダーを確認し、
Ωという性質で最も厄介な発情期(ヒート)が来たのだと悟る。
抑制剤でコントロールが出来るようになっているが、
その日の体調によっては効果を発揮しない事があった。
ここ数日間は仕事の納期が重なりそれなりに忙しくしていた事もあり、
疲れのせいか常備薬の効きも悪い。
尾形は自身の性を知っている数少ない上司である月島に、
体調不良による休みの連絡をすると、数分後に彼から労りのメッセージが届いた。
その瞬間、尾形の中にどろりとした物が溜まる。
勿論、月島に悪気はないのは分かっているが、
こういう場面で、尾形は性に対しての劣等感を刺激されてしまう自分を無視する事が出来なかった。
こんな日は、寝てるに限る。
これは日々の疲れをとる為と、溜まった有休消化の為なのだと言い聞かせ、
朝食もそこそこに尾形は布団へと舞い戻った。
明日は休みだし、丁度いい。
一日中引きこもって熱が冷めるのを待てばいい。
そんな事を考えて微睡みに身を任せようとしたその時、尾形のスマホが短く振動を続ける。
「…………?」
のそのそと起き上がり確認すると、勝手に設定されたグループチャットで、
連続したトークが繰り広げられている。
友人である白石と、その友人の杉元。
ふらりと立ち寄った居酒屋で相席になったのが切っ掛けだが、定期的に飲みに行く間柄になった。
お世辞にも愛想が良いとは言えない自分のどこを気に入ったのかは知らないが、
何だかんだ腐れ縁が続いてしまっている。
内容を確認すれば前から約束していた飲み会の話で、
尾形は体調不良を理由に断りを入れると、即座に白石から返信がくる。
気遣うような内容をスルーしていると、もう一つ既読が付いた。
勿論、杉元は白石の様に労りの言葉をかけたりしない。
そもそも、2人は顔を合わせれば喧嘩ばかりの関係なのである。
それでも、何かとつるんでいるのは尾形にとって、
彼等の傍がそれなりに過ごしやすいからだった。
特に、尾形に対して遠慮なく、
正面からぶつかってくる杉元の事はとても好ましいと思っている。
だからこそ、知られてはいけない。
彼らから侮蔑や哀れみの目を向けられてしまったら。
そう思うと、尾形は必死に積み上げてきた壁が音を立てて崩れてしまうような気がする。
ぐるぐると余計なことを考えてしまうのも、
突然のヒートで気が滅入っているのだろうと結論付けて、
溜め息を吐き出した。
それから暫く、1度冴えてしまった頭では寝付くことが出来ず、
何度も寝返りをうっていると、
ピンポーンと部屋の前のインターフォンが押される。
セキュリティのきっちりとしたマンションの筈なのにと不可解に思いながら確認をすると、
思い掛けない人物に目を見開いた。
そこには何故か不貞腐れたような表情の杉元がしっかりと写っている。
慌てて玄関を開けると、モニターで見たのと変わらない表情のままの杉元が現れた。
「…何しに来たんだよ」
「体調、悪いんだろ?」
お見舞い、と差し出されたコンビニの袋に、尾形はわざわざ?と眉を寄せる。
戸惑いながら顔を見上げれば、相変わらず不機嫌そうな顔。
白石にでも言われたのだろうかと考えながら固まっていると、
とりあえず中に入れてくんない?と言う杉元に尾形は目を瞬かせた。
「…体調悪いって言ってんだろ」
「だから、看病」
「…これは、有り難く頂戴するが、看病なんて必要ねぇよ。
…ところでお前、どうやってここまで入ってきた?」
訝しみながら問い掛ける尾形に、杉元は目を瞬かせると、普通に入ってきたけどと答える。
「表のセキュリティはどうした?」
「何度か顔合わせてるからって、管理室の辺見さんが普通に入れてくれたけど」
セキュリティの意味を何だと思ってるんだと顔を顰めた尾形だったが、
遠回しに伝えても杉元は帰る気配を見せない。
顔を見せて少し話して解散。
それすらも戸惑わせるのは杉元がαだから。
はっきりと聞いたことは無いが、ほぼ間違いないと尾形は確信している。
薬で抑え込んでいるとはいえ、ヒート中は鼻が利くのだ。
今もじんわりと額が汗ばんできているのを自覚して、
尾形はどうにかして杉元を帰そうとするが、
「家に入ったら何かマズいことでもあるの?」と問い掛けられれば、
尾形の中に、これ以上誤魔化すのは不自然なのではないかと不安が過った。
部屋が汚いからとか、移したら悪いからとか、
取り繕うと思えばいくらでも言えただろうが、
尾形がそんな事を気にする質では無い事は杉元にもバレている。
「尾形…?そんなに辛いのか?」
思いの外考え込んでしまったのか、杉元が不安げな顔で俯く尾形の顔を覗き込んだ。
ぼやける程に近付いた顔に驚いて、尾形はバッと後ろに下がる。
幸い、抑制剤が効いてきたのかαのフェロモンは殆ど感じない。
「尾形?」
「いや、上がれよ…茶くらいなら出してやる」
薬が効いているのであれば、その間にもてなしてさっさと帰ってもらえばいいだろう。
自分の弱みを見せたくないという焦りが、尾形の判断を鈍らせ、
普段であれば気付いたであろう、杉元の何か言いたげな様子をスルーしてしまった。
玄関の扉が閉じられ、ようやく杉元に向き合った尾形は、
そこで初めて、彼が怪訝な表情を浮かべている事に気付き首を傾げる。
「なんでそんなに躊躇してたんだよ」
「体調不良だって伝えてた人間の所に、
アポなしでわざわざ来る奴がいるとは思わねぇだろ」
少しの嫌味を告げると途端にムッとした表情を浮かべた杉元が、
そりゃ悪かったなと言って尾形に持たせていたコンビニの袋を奪い取った。
先程まで気付かなかったが、大きめのペットボトル飲料やレトルトのおかゆ等、
かなりの量を買い込んできたようで、尾形は呆れたように杉元を見る。
せっせと机の上にお店を開き始めた杉元はその視線には気付かなかったようだが。
物心ついた時から、
人に看病してもらうなんて事なかったなとぼんやり考えながらそれを見守っていると、
不意に振り返った杉元が、「喉とかの痛みは?」と問いかけてくる。
風邪でないのだからそんな症状はないと伝えようとした瞬間、
尾形の口の中にポイっと何かが投げ込まれた。
「………………っ!!!!??」
カカオの香りが鼻を掠めて、チョコレートだと気付く前に驚いて思い切り歯を立ててしまう。
途端、じわっと広がる舌が痺れるような甘さのアルコール。
その瞬間、尾形はザっと真っ青になった。
「尾形!?」
「…おまえ…っ何食わせた!?」
凄い形相で睨みつける彼にたじたじとなりながらも、
杉元はウィスキーボンボンだと答える。
それを聞いた途端、尾形は弾かれたように洗面所へと向かった。
Ωのヒートを抑え込むための抑制剤は、服用の際二つの事が禁止されている。
まずは、胃の中が空っぽの状態で服用をしない事。
強い薬であればあるほど、副作用が強く出てしまうという傾向がある為だ。
そしてもう一つ、
服用前、服用後共に決してアルコールを口にしない事。
特に服用後にアルコールを口にしてしまうと、
相互作用で抑制剤としての効果が無くなるだけではなく、
麻薬を服用した時と同じ異常なドーパミンが放出され、
普段よりも強いフェロモンを発してしまう為だった。
「…っぅえ…っゲホ…ッ」
何度も口をゆすいで吐き出そうとするが、嘔吐くだけで吐き出す事が出来ない。
ただ、舌に触れた程度のアルコールにどれだけの効果があるかは分からないが、
自分はヒート中で、更にその背後には、α性を持つ杉元がいる。
それを意識した瞬間、尾形の心臓がドクンッと跳ねた。
ドッドッとまるで内側から殴られているような程の動悸。
そして、吹き出す汗と上がっていく体温に耐え切れず、
尾形はその場にうずくまってしまう。
「…ごめんっ尾形、お前、ウィスキーボンボン苦手だった…!?」
あぁ、何てタイミングだといくらか冷静な頭で背後を確認すると、
頬を上気させて「この匂いって…」と戸惑う杉元が視界に映る。
むせ返るようなフェロモンに満たされた部屋の中。
杉元は戸惑いながらも尾形の傍に寄ろうとする。
次第に濃くなる杉元の匂いに、尾形は唇をぎりっと噛み締めた。
「…は、ぁ…っお前、もう帰れよ……ッ」
ぜぇぜぇと、まるで全力疾走をした後のように息を乱す尾形を見た瞬間。
杉元の理性がぶちりと音を立ててちぎれたのだった。
「…え?」
ふと我に返った時、まず感じたのは喉の渇きだった。
はっはっと呼吸が短くなっているのは恐らく軽く脱水症状になっているのかも
次いで、湧き上がるのは疑問。
何故、自分はこんなに疲れているのだろう。
脳が霞で覆われたようにぼんやりしていた。
遭遇した事の無い、甘い痺れ。
ぶるっと身を震わした杉元は、
漸く自分が1人じゃ無い事を思い出す。
見下ろせば、青を通り越して真っ白な顔をした動かぬ尾形。
杉元はザッと血の気が引くのを感じた。
耳を澄ませば、ヒューヒューと微かだが呼吸を感じてホッと胸を撫で下ろす。
汗と、涙と、どちらの物か分からない液体でドロドロに汚れた体を改めて確認し、僅かに記憶が戻ってきた。
朧気だが、何度も、嫌だ嫌だと繰り返す尾形を押さえつけ、己の欲望を満たし続けた気がする。
切なそうに自分の名前を呼ぶ声。
涙を浮かべながら背に回された手。
思い出した途端、再び下半身に熱が集まり、頭をもたげそうになる。
「っぁ、ん…っ」
ピクリと反応した尾形の眉が寄せられ、漏れた声に杉元はビクッと身体を震わせた。
自分は、なんて事をしてしまったのだろうと後悔しても遅い。
涙の跡が残る尾形の頬に手の甲で触れる。
振動すら刺激になるのか、気を失いながらも眉を寄せる尾形に気付き、
ゆっくりと腰を引くと、「ぅ…、ン…っ」と尾形から熱のこもった吐息が漏れ、
杉元はぎゅっと唇を噛み締めて思考を無にする。
離れた瞬間、散々注ぎ込んだものがどろりと流れ出て、
杉元は思わず目をそらしてしまう。
男のくせに妙に白い項は綺麗なままで、
その事実にホッと息を吐いた杉元は、
うじうじと考えているよりも先にまずは尾形の身を清めねばと思い、
気怠さの残る体を動かしたのだった。
それから、尾形の目が覚めたのは夕方だった。
ぼんやりと起き出した尾形は、
まず状況が理解できないのかきょろきょろと自分の部屋を見回した後、
杉元の姿を見つけて静かに息をのんだ後、何があったのか思い出したのか、
諦めたような表情を浮かべて目を伏せる。
その表情になぜか胸が締め付けれるような感覚を覚え、
杉元は誤魔化すように、そして恐る恐る「体は大丈夫なのか?」と問いかけた。
「……女と違って男のΩは出すもん出すとおさまんのよ」
暗に大丈夫だと告げる尾形は、伏せていた視線を上げて杉元を見る。
まっすぐ大きな瞳に見つめられるだけで、責められているような気になって、
杉元は思わずと言ったように目をそらした。
ふぅ、とため息が耳に入り、肩を震わせた杉元は、
決意を固めて尾形に向き直る。
「尾形……あのさ……」
「…なんだよ」
杉元の顔に浮かぶのは罪悪感と後悔。
黙ってそれを見ていた尾形は、静かに絶望していた。
だから嫌なのだ。
Ωだと分かった瞬間、気を遣うように、哀れんだ視線を向けてくる。
まるで、そうする事が当然とでも言うように。
「せ…、責任…、取るから…っ」
何を言われたのか理解できず、尾形は眉を寄せる。
それが理解できた瞬間、思わずと言ったように鼻で笑った。
「いらねぇよ」
「でも…っ」
「俺がΩだと他の奴等にバラさなきゃいい」
でも、だってを繰り返す杉元を見て、
尾形は虚しくなっていく気持ちを止める事が出来ない。
責任を取るなんて、杉元の口から聞きたくなかった。
何度と無く口喧嘩して、何度となく殴りあいだってした。
対等で、いたい。
なのに、自分の性が知られた瞬間。
立場は直ぐにこうも変わる。
杉元は、もう尾形を庇護の対象としか見ていない。
「尾形、俺は…」
「こうなったからには分かってんだろ?
マジで体調が悪いんだ。
今日はもう帰れよ」
体調を理由にしてしまえば、杉元はそれ以上何も言えず、
分かった…と言って立ち上がる。
玄関まで見送りに来た尾形は、靴を履く杉元の背中に向かって彼の名を呼んだ。
「…………」
「お前がもし、責任を取りたいなら忘れろ。
お互いなかったことにしようぜ」
尾形の提案に杉元は何も答えない。
ただ、一言「ごめん」と謝って、杉元は立ち去って行った。
尾形は静かになった部屋の中で、深く溜め息を吐き出してソファーに沈み込む。
忘れてしまえば良い。
ただの性欲処理だったのだと思えばいいのだ。
Ωの性欲処理は、もっぱら自慰行為である。
快感に溺れやすいΩは、軽はずみな行為で妊娠してしまう危険性がある為、
特別なパートナーがいない場合、性行為自体控えるようにと医者からも言われていた。
抑制剤にはアフターピルのような効果もあるので、
後、数時間後に飲んでおけば大丈夫だろうと思いながら、
尾形は額に手を当てる。
「………?」
ふと、腹のあたりに違和感を覚えて、さす…と手を這わした。
なんだか、温いような気がする。
まぁ、久しぶりだったし、きっとそのせいだろうと納得して、
尾形は次の日に備えたのだった。
あの日から数週間経ったある日、
尾形は妙な気分の浮き沈みに悩まされていた。
βを相手に性行為をしたことは何度かあったが、
αとコトに及んだことない。
何かホルモンバランスでも乱れたんだろうかと思いつつ、
次に抑制剤を貰いに行く時に聞いてみようと深く気にしていなかった。
「尾形さん、最近太りました?」
昼食をとっている最中、隣のデスクの谷垣に話しかけられ、
尾形はピクリと眉を寄せる。
目を瞬かせている谷垣に悪気はないのだろうが、
身体的な変化を指摘されるのは些か気分が悪かった。
デリカシーがないのかこいつはと睨みつけると、
失言に気付いたのか、慌てて「あ、いや…」と言い訳じみた事を口にする。
「なんだぁ谷垣…?仕事でミスを指摘されたからって、
人をデブ扱いたぁ、良い度胸だな」
「そんなつもりありませんって!
尾形さん、最近食欲あるみたいだし、なんかあったのかなって」
谷垣の様子に、そういえば、と思いながら、
デスク上に置かれた食べかけの弁当を見下ろした。
確かに最近よく腹が減る。
以前であれば、食事は機能性食品のゼリーや、
味気ないクッキーなどで賄っていたが、
それだけじゃ物足りなくなってきちんと食事をとるようになった。
「以前の食事が異常でしたから、それ位の方がめんこいと思います」
「30も近い男にめんこいも何もねぇだろうが……」
谷垣の発言に呆れながら返すと、
彼女が毎朝手作りしてくれているのだという弁当を、
美味そうに食べていた谷垣は、それもそうですねと苦笑いを浮かべる。
ここ最近は、食欲もあるし、よく眠れるようになった。
すこぶる体調がいい。
それもこれも、あの日からだと考えるが、
尾形は一人首を振る。
何度かメールや電話が来ていたが、あれから杉元にも連絡は取っていない。
何かを察したのか、白石もいつの間にかグループチャットを削除していて、
個人的に各々に連絡を取っているようだった。
正直その気遣いが有難い。
ふぅ、と溜息を吐き出した時、尾形の腹の中で、
トットットッとノックされるような痙攣があった。
食後で胃が動いているのだろうか?
胃下垂気味な腹部を撫でた尾形は、
残りの弁当を平らげると、早々にパソコンに向かい合ったのだった。
そして、それから更に2ヶ月程経ったある日、
突然それはやって来た。
朝から謎の倦怠感で更に貧血気味だった尾形は、
出社して暫くして、倒れてしまった。
真っ青になって自分を呼ぶ谷垣の姿や、
己を抱き起す同僚の姿が目の前をぐるぐると回っている。
『救急車を呼べ!』
『いや!タクシーの方が早いんじゃないか!?』
等と頭上で交わされる会話をぼんやりと聞いていると、
不意にふわりと体が浮いた。
「俺が付き添う。救急に電話して指示を仰いでくれ」
体格差は割とあるはずなのに、月島が軽々と尾形を抱き上げている。
朦朧とする意識の中でも驚きはしたが、
結果として、タクシーで近くの病院に行くことになったらしい。
救急車が来て、病院が特定されれば、
自分の性別がバレるかもしれないと抱いていた小さな不安は、
月島のお陰で解消された。
「尾形、行きつけの病院はあるか?」
そう言った月島に、通院している病院の名前を告げたのを最後に、
尾形はそっと意識を失ったのだった。
目が覚めた時、点滴に繋がれていて、
カリカリとペンを走らせる音が耳に届く。
その方向に視線を動かせば、自身の主治医である家永が、
カルテになにやらせっせと書き込んでいた。
見た目は美人な女医であるが、
もういくつになるかもわからない老人である。
αでありながら、この界隈の権威になる為、
自らの体を作り替えたのだと子供の頃、戯れに聞いた。
「あ、目が覚めましたか?」
「ここは……」
「病院です。あなた、倒れたんですよ。
課長代理さんが、タクシーでここまで送り届けてくれました」
当の本人の姿がなく、きょろきょろと見回していると、
「あとは任せたと言って帰られました。
早退の手続きはしておくそうですよ」と告げられる。
何から何まで世話になりっぱなしだなと思いながら、
再び家永に視線を戻した尾形は、
「ここ最近は、体調がいいと思ってたんだが」と続けた。
「でしょうね。貴方、以前が不健康すぎたんですよ。
これからは、もっと体を労わって差し上げないと。
折角の命なんですから」
「…は、何を今更……」
その言葉を鼻で笑った尾形だったが、
家永の言い回しに違和感を覚え、眉を寄せる。
折角の命なんですから?
ドクンッと心臓が跳ねる。
その様子に気付いたのか、家永はスッとカルテを置くと、
困惑する尾形に近付き、その顔を見下ろした。
「おめでとうございます。ご懐妊ですよ」
その言葉を聞いた瞬間。
鈍器で頭を殴られたような衝撃が走る。
今、この医者は何と言った?
「ご、懐妊…?ふざけんな!!何かの間違いだろ!!」
ガバッと起き上がった尾形の肩を落ち着いてください!と抑えながら、
家永はカルテに挟んでいたのだろうレントゲン写真を尾形に渡した。
「男のΩは…、受精すると、子宮のような器官が作られます。
受精してから凡そ2ヶ月程度。
それ以前であれば、他の疾患も考えられますが、
貴方の場合、心当たりがあるんじゃないですか?」
心臓が嫌な音を立て、血の気がサァーっと引いていく。
レントゲンにははっきりと影が映っていて、
尾形は思わず自分の腹に手を置いた。
その混乱を感じ取ってか、家永は目を伏せると、
「失礼ですが……」と気遣わし気に口を開いた。
「貴方、まだ番っていませんよね?相手は……」
2か月前。
時期的には確かに丁度合う。
けれど、信じられなかった。
静かに首を振る尾形を見て、
家永は「やはりそうですか…」と小さく呟く。
「……これから先、どうするかは貴方次第です。
今は混乱しているでしょうから、一度、家に帰って相手の方と…」
「そんなの…産む訳ねぇだろ……っ今すぐ」
「混乱している貴方の言葉を鵜呑みにする訳にいきません」
今日は、帰りなさいと言って専用の薬を処方され、
尾形は呆然としながら病院を後にした。
夕焼けに染まる町を歩きながら、
尾形は再びトットッと腹を内側からノックされた気がして、
そっと腹に手を当てる。
話を聞いてしまった後では、
どうしてもそれが一つの命だと認識してしまって、
ぶわっと鳥肌が立つのが分かった。
親になる?俺が?
その事実を認識した瞬間、尾形は恐怖に近い感情を抱く。
伸ばした手を振り解かれた。
汚物を見る様な目で見下ろす父親の姿。
そんな環境しか知らない自分が、何を生み、何を育てると言うのだ。
「冗談じゃねぇ…っ」
グッと噛み締めた唇から血が滲む。
まだ貧血が残っているのか、
ぐらりと壁に手を突くと、背後から「尾形!?」と声をかけられた。
それは、今、最も聞きたくない男の声。
振り向かなくても分かる。
思わず舌打ちをすると、心配そうに顔を覗き込んでくる男、
杉元が「大丈夫かよ、お前!」と肩を支えた。
「いつもより、顔色最悪じゃん…っまだ、16時だろ?
お前、仕事は?」
「……体調が悪かったから病院行って、その帰りだよ」
尾形の言葉を聞いて、更に心配を色濃くする男に、
本当の事を告げたらどうなるのだろうと言う悪戯心が沸く。
また、責任を取るだとかなんだとかいうんだろうか?
それとも狼狽えるんだろうか。
「杉元、俺、ガキが出来たぞ」
そう告げた瞬間、息を呑んで真っ青になる杉元。
それを見た途端、尾形の中でザっと体が冷たくなっていくような気がした。
あぁ、やはりそうだ。
当然の反応じゃないか。
「…嘘だ。ばぁか」
ハッと笑って言い捨てた途端、胸倉を掴まれ、後ろの塀に押し付けられた。
背中を強めに打ったことでヒュッと息を詰めたが、
咳込むまでには至らない。
ギラギラと夕日に照らされて赤く色づいた、
杉元の色素の薄い瞳が怒りに燃えている。
「笑えねぇ冗談止めろよ…。体調不良じゃなきゃ、ぶん殴ってるぜ」
それだけ言って、立ち去る杉元の背中を視線で追った尾形は、
あぁ、やはりだめかと溜息を吐き出す。
これで産んだとしても、
唯一愛情を注げるであろう杉元に期待出来なければ、
不幸な命が増えるだけ。
分かっていた事じゃないかと自嘲気味に笑った尾形は、
乱れた髪の毛をかき上げる途中、はたと動きを止めた。
『産む』という選択肢を考えていた?
自分が?杉元が、責任を取ると言ったのなら。
そこまで考えて、再び冷水をかけられたかのようにぞっとする。
尾形は、その足で再び病院に駆け込んだ。
診療時間はもう過ぎていたが、
中で整理をしていた看護士が、尾形の姿を見て目を見開く。
「診療時間はもう過ぎて……」
「いいから、家永を出せ」
その剣幕に圧されながら、
ちょっと待って下さいと奥に引っ込んだ看護士は、
カウンターに手を突いたまま動かない尾形の元へ戻ってきて、
「奥へどうぞ」と通した。
診察室の机の上で書類を整理していたのだろう家永は、
息を乱す尾形を見上げて、「どうされました?」と問いかける。
もう、何を言おうとしているのか、
見透かしたような瞳に尾形は幾ばくか冷静になると、
家永の前の椅子に腰を掛け顔を手で覆うと「堕ろしてくれ」と一言告げた。
「……相手の方は」
「相手なんていねぇ。
いたとしても、産むことなんて出来ねぇ。
望まれない、愛情を貰えないガキを外に出す訳にいかねぇ」
だから、早くと言った尾形を静かに見守っていた家永は、
キィっと机の方に視線を向けると、
何枚かティッシュを尾形に差し出し、「ならば…」と口を開いた。
「どうして、貴方は泣いているのですか?」
泣いている?誰が?
その瞬間、ぼたぼたと目からこぼれる涙が、
自分のスラックスを汚している事に気付く。
ぎゅっと拳を握った瞬間。
トンッと腹の中から蹴り飛ばされたような気がした。
思わず自分の腹を見下ろした尾形を見て、
家永は立ち上がり、尾形をそっと抱きしめる。
人の温もりを感じたのは久しぶりで、
家永からはどこか懐かしい匂いがした。
「相手から貰えなかったとしても、貴方が与えてあげればいい。
どのみち、今、貴方に宿る命には、貴方しかいない」
トクン、トクンと感じる鼓動は、
家永のモノかそれとも自分のモノか。
目を見開いた尾形は、キュッと自分の腹部のシャツを握る。
「それでも、やはり無理だと思うのならば、
貴方の言うように、堕ろしましょう。
けれど、私は初めから親になれる人間なんていない。
親も、子供に認められ、ようやく親になれるのだとそう思います」
「無理だ…俺には…、俺は、知らない…」
人の愛し方も、愛され方も、何も…喘ぐように声を震わす尾形に、
家永は、これはあまり知られていないのですが、と続ける。
「政府では、Ωの妊娠やヒート、
性行為について色々と情報を開示していますし、
性犯罪で妊娠してしまったΩの情報が嫌でも耳に入ってくるから、
世間では誤解されがちなのですが、
通り魔による性犯罪におけるΩの妊娠率は、
全体の1割にも満たないんですよ」
その言葉に顔を上げた尾形に安心したのか、
そっと体を離した家永は「逆に」と続けた。
「αに襲われ、受精してしまった例の殆どが、
顔見知りであったというデータが出ています」
つまり、相手を知っていて、
それなりに相手に好意を持っていなければ、
受精する事はないという事。
「それじゃあ…なんで」
「簡単に妊娠しないという認識を、
世間に公表してしまえば、性犯罪や、
Ωのヒートの特性を狙って風俗を経営する輩など、
後を絶たなくなってしまうでしょう?」
あの大まかな情報は、貴方達を守る為にあるんですと言った家永は、
話がそれましたねと苦笑いを浮かべるとつまりと続けた。
「貴方が相手に少しでも好意を持っていなければ、
その命は誕生しなかったという事になります」
わかって、いるんでしょう?と微笑む家永に、
尾形は静かに目を伏せる。
俺は、知っている?
人を愛するという事を。
与えられずとも、与える事が出来る?
あの日、初めて感じた温もりが、再び宿ったような気がした。
自分にも、与えられるものがあるなら。
守って、あげられるなら。
自分の手にゆだねられた命を、初めて掬い上げたいと思う。
その様子で、意思を悟ったのか、優し気に微笑んだ家永が、
「私も、サポートしますから」と力こぶを作って見せたのだった。