drama 5
私物は捨ててくれと言われていたが、どうにもそれはできなかったので結局段ボールに詰めて送った。揃いで買ったものを彼女の分だけ送るのはさすがに憚られたので、身を分けたものだけは残っている。目に入ると思い返して情けなく泣いてしまう、なんてことはなかったが思い返してしまうのは事実なので引き出しの奥の奥に仕舞っている。彼女の存在がすっぽりと抜け落ちたこの部屋で、俺は自分で予想していたよりも遥かに普通を過ごしていた。
もっと、首を絞められるような痛みにじわりじわりと追い詰められると思っていた。あいつがいないと何もできないと思っていた、のに。
いつもと変わらない時間に起きて、いつもと変わらない時間に出社して、いつもと変わらない仕事をして、家に帰って、眠る。それの繰り返しだった。呆れるほどにそればかりで、他には何もない。幸福とは案外質素だったのか。こんな俺だから、#name1#とはああいう終わり方をしてしまったんだろう。それ以外に理由が見つかりそうにないくらい、彼女の存在は俺の中に爪痕を残さなかった。
互いに記念日を気にするタイプではなかったので、正確にどれくらいかはわからないが、ざっと数えて三年間。彼女との交際は続いた。黒い夜空にバチバチと弾けるようなものでは決してなかったが、例えるなら水のような恋愛だったと思う。なくては生きられないと、互いに思っていて。ああ、でも、案外。代用品なんてどこにでもあるもんだな、と。
もしも、友人という垣根を越えなければ、上手くいっていたのだろうか。こうしてもう二度と会うことのない関係になることはなく、二月に一度くらいは時間を合わせて飲みにいくような、そういう気楽な関係だったのならば。
「あー………」
脱ぎっぱなしにした靴下とワイシャツ。使われることのないコーヒードリッパー。目も当てられないような汚さのシンク。インスタント食品のゴミばかり詰まっている袋。酒の缶しか入っていない冷蔵庫。浴槽にお湯が溜まることはもう二度とない。彼女が買ってきた良い香りのするシャンプーは変えることなく買い続けてしまっている。柔軟剤も、そうだ。
選択を間違えたとは思っていない。別れなければ良かったとも、思っていない。それこそが俺達の、最大の理由なんだろうか。
この部屋の中に、俺の中に残っているのが傷だけだとは思いたくなかった。けれど、この部屋のどこにだって、俺の中のどこにだって、見当たるのは傷だけだった。手を繋ぐような甘さはもうどこにも残っていない。ほんとに独歩はしょうがないなあ、と、心底嬉しそうな顔をして言う姿が瞼に焼き付いて離れなかった。それでも骨が、抜けなかったんだよ。
いつか#name1#は、俺のことを忘れてしまうだろうか。俺はその時、#name1#のことを忘れてしまっているのだろうか。二十代後半、アラサーと呼ばれるような年齢。ああ、きっと彼女は。彼女は、姿勢が良くて、寝癖をつけたまま家を出ようとしなくて、魚の食べ方が綺麗で、初対面でも真っ直ぐ視線を合わせて会話ができて、否定的な思考ばかりではなくて、休みの日にはきちんとした格好で出かけて、掃除や洗濯もこまめにして、連絡を頻繁にすることを拒まないような。そういう男と、一緒になるのだろう。
伏せた目から覗く睫毛も、口許が緩くてペットボトル飲料を飲むのが下手なところも、酒を飲みすぎると別人のように甘えてくるところも、香りにはいっとうこだわりがあるところも、不器用な癖に手作りのマフラーを編んでくれるいじらしさも、消えてしまいそうなくらい細い腰も、小さな胸を気にして電気を消せと強請る姿も、涙をこらえるときに決して目を逸らさないところも。もう、俺だけのものではなくなってしまったのか。
そうか。別れるとは、こういうことか。
「っは…情けない、」
まるでどうしても寂しいと泣いた日の#name1#のように。ぼろぼろと溢れる涙は止まることを知らなかった。彼女が気に入っていたキャラクターのタオルを顔に押し付けて、ベッドで身を小さく折り曲げる。泣くのはきっと、これが最後だろう。明日には溶けてなくなる感情の名前は知りたくもない。日々に戻っていくのは、彼女も一緒だ。
いつか君が幸せになるまで、君が俺に残していった癖は取っておきたい。それぐらいは許してくれるだろうか。ああ、#name1#のことだから、しゃんとしなさい、なんて言って叱るんだろうか。きっとそうだろう。