ソファーに凭れながら勇利がうとうとと船を漕いでいる。相槌を打ちながらティーカップを持つ手が不安定に揺れたのを見て、俺はそっと指先を解いて取り去った。今日は少し早く帰ってきたから、ようやく二人の時間が作れるかと期待したけど、この分では無理そうだ。仕方ないと苦く笑い、勇利の身体を引き寄せた。
先にシャワーを勧めてあげればよかった。食後すぐに入浴するのは身体によくないからと、お茶に誘ったのは失敗だった。以前はこうして一緒にお茶を飲みながら今日の出来事を語らいつつ、軽いキスを始めとするスキンシップをとっているうち、甘ったるい雰囲気になったところで一緒に風呂に入ることがしばしばあったのに。
俺もコーチと選手を兼ねていたころは忙しくしていたから、こんな風に寂しい思いをさせていたのかもしれない。自分がその立場にならないとわからないこともある。勇利の頬にキスをして、現役時代より軽くなった身体を抱え、腰の細さになんとも言えない気持ちになった。
勇利の部屋まで送っていくと甲斐甲斐しく寝間着を着せ、少しでも眠れるようにアロマの入った小さな加湿器のスイッチを入れる。厚いカーテンを引き、明日の予定を頭に浮かべながら目覚ましもかけてやる。それでもその前に起こしてあげることが多いけど。
「ん……ヴィクトル……」
「あ、起こしちゃったか。そのまま寝ていいから」
軽く目を開けた勇利の身体を全て上掛けの中に収め、丸い額を優しく擦った。眠気に蕩けた瞳は俺を探して動くが、それ以上大きく見開かれることはなさそうだった。
勇利が引退して二年目。
一年目は引退に伴う取材やテレビ出演を終え、俺と一緒に長い休みをとった。長い間選手として酷使した身体をゆったりと休め、何も気にせずバカンスにも行った。オフシーズンではできなかったことをしながら休暇を過ごしているうちに一年が終わり、今年から本格的にプロのスケーターとして彼のキャリアがスタートした。
持っているタイトルは申し分なく、真面目で努力家、シャイな部分はあるが人当たりもいいとなれば、彼が思っている以上に色々な仕事の依頼があった。現役時代からある程度基盤があった俺とは違い、勇利は引退したあと自分はどうするべきか悩んでいる様子だった。自分の適性や仕事の見極めという意味でも、今はできるかぎり頑張りたいと希望した勇利の背中を押したのは俺だったが、勇利の性格からいってこうなることはわかっていたのに。
「ごめん、ぼく、」
少し寂しくはあるし、心配もするけど、でも勇利が謝ることなんてひとつもない。
「俺の子豚ちゃんが身体を壊さない限りは応援するから、何も謝ることなんてないんだよ」
去年の冬は柔らかだったのに、すっかり痩せた彼は俺の言葉に躊躇いに似た笑みを見せた。
「ん、でも……ごめん、今日も、眠くて……はやくかえれたのに」
勇利は一緒の時間がとれないことを憂うというより、申し訳なく思っているようだった。期待を見透かされたような気恥ずかしさと、余計な気遣いをさせた情けなさにすぐに言葉が出てこない。去年のような蜜月と同じ頻度とはいかなくても、勇利に触れたいと思っているのは確かだ。許されるのなら今すぐにでも。
「余計な心配しないの」
シーズン中は深く触れ合えないのが常だったし、この状態がずっと続くわけでもない。窘めるように頬を撫でる手付きが心地よかったのか再び強くうとうとしながら俺の手のひらに擦り寄った。小動物のようでかわいい。例え身体を重ねなくても、スキンシップで十分幸福で――。
ほとんど寝ているだろう勇利が何かを言いたそうに唇を動かす。明日の心配なら聞き届けてあげないと。俺はそっと耳をそばだてた。
「ヴィク、……あの、ね」
「なあに?」
「ぼく、寝てても、好きにしていいから、ね……」
「う…………ん?」
流れで頷きかけたもののよく考えれば聞き捨てのならない発言を残すと、勇利は言いたいことを言って安心したように一瞬にして眠りについてしまった。
――好きにしていい、好きに、好き……。
勇利が半分眠りながら呟いた言葉が忘れられず、それから数日経った今も俺は悶々と頭を抱えている。当の勇利はいつもと変わらない顔で仕事に出かけ、疲れた顔で帰ってくる。覚えてるか覚えてないかもわからないような言葉の真意を問うことはできなかった。
どんなつもりで言ったんだろう、勇利は。
彼が同じような意味の言葉を零すことは珍しくなく、そしてそれはセックス中であることが多い。そして一種投げやりともいえる言葉を優しく問い詰めたとき、恥ずかしそうに囁いた言葉が忘れられない。俺に何をされても嬉しく思うからだと、勇利はそう言ったのだ。
勇利は相変わらず家に帰り着くなり、日によっては食事も取らず泥のように眠りにつく。俺が家を空けているとき心配になって連絡しても、返事が返ってくることはほとんどない。熱心に打ち込んでいるのはよくわかっているが、離れていると不安で仕方ない。俺は彼の仕事が落ち着くまで仕事をセーブし、共にいる時間を長くとることにした。
食事をつくり、風呂にいれ、今夜も勇利は先に眠りについた。一緒で構わないと言ったのに、起床リズムが変わって迷惑をかけるのが嫌だからと彼の部屋にある、今まで喧嘩のときくらいしか使わなかった小さなベッドに。
一人きりのリビングは落ち着かず、気付けば立ち上がって廊下を歩いている。
「勇利……?」
静かに扉を開け、光が入らないうちに素早く閉めた。入り口に立つだけで勇利の寝顔がよく見え、穏やかに上下する胸元に深く寝入っているのがわかる。俺は許可なく彼の部屋に入り込んでしまった罪悪感に蓋をしながら更に彼のそばへ近づいた。
競技生活から引退したその春、俺たちは約束通り結婚した。
唯一無二の伴侶が、望んだ仕事とはいえ身体を酷使しているところを黙って見ているのはつらい。三十を過ぎ、加えて既婚者とは思えないほどあどけなかった寝顔も今は隈が色濃く、頬が軽く削げている。
前髪をかき分け額に口づけを落とす。柔らかできめ細かかった肌も心なしか荒れているような気がする。せっかく寝付いた勇利を起こしては明日に触るとわかっていても、続いて目尻、頬、鼻先と唇を触れさせる自分を止められなかった。
「……好きに、していいんだよね?」
当然眠っている勇利から返事が返ってくることなんてないのに、変わらず聞こえてくる深い寝息は肯定にしか思えない。こんな風に何度も勇利にキスしたかった。くすぐったいよと笑って、たまに俺の悪戯を封じるみたいに勇利がキスしてくれるのを楽しみに。
願望や欲望を押しつけるだけかと思って疲れた勇利を求めるのは間違いだと思っていたけど、勇利はそんな不埒な俺を許してくれる。免罪符を得た俺が、止まれるはずもない。