夜景が綺麗なこのレストランは、森山と何度も足を運んだ行きつけの場所だった。
ガラス張りの窓からは、目が痛くなるほどのビルの明かりが夜を照らしていている姿が一望できる。今、この明かりの一躍を担っているだろう森山由孝は、約束の時間を過ぎても現れることはなかった。
「一人でぜいたくなディナーを食べるのも、悪くなかったよね?」
会計を済ませて、高層ビルから足早で飛び出した。ヒールを不規則にならし、自分に言い聞かせるように独り言を都会の夜に放ってみた。
『本当にごめん。間に合いそうにない』
約束の時間を半時間過ぎたところで、震えるスマホの中に冷たい文字が並んで、画面が暗転した。
予感はしていた。わかってはいても、裏切られたような気持ちがして、つま先にぐっと力を入れていないと足が震えそうになる。
社会人として年を重ねていくうちに、すれ違うことは増えていく。理解した上で、彼の負担になりたくはなくて、分別のある彼女として精一杯頑張っている。それでもつらいものはつらい。毎日一緒にいられた学生の頃に戻れたら、どんなに幸せだろう。コートのポケット内でスマホが何度も震える。電話越しに情けない声が出てしまいそうで、取る気になれない。最悪な気分だ。困り果てて立ち止まり、顔を向けた先にふと、こじんまりとしたフラワーショップが見える。花といえば大学生の頃、森山が花屋さんでバイトをしていたことを思い出す。
『ハニーみたいに可愛い花だよ』
『絶対にハニーに似合うと思って花束を作ってきたんだ』
そういって、会うたび会うたび、律儀に花言葉を添えて花を贈ってくれたあの頃が懐かしい。
『プロポーズするときは、この花を贈りたいと思ってる』
店頭に並んだ件のアイリスを見つけて、うれしかったはずの言葉が、今の私を猛烈に悲しくさせた。
「ハニー!本当にごめん!」
泣く寸前の私の後ろから、人目もはばからず大声で謝り、駆けてくる森山の姿が見える。冬なのに、額に汗がにじんでいる。
「電話でないから、心配したよ…」
「……森山、わたし、もう限界かもしれない」
冷気をまとった彼のスーツにしがみつく。会いたかった。もうこんな寂しい思いはしたくない。いっそ私を揺さぶる君が憎い。
「ごめん…本当に。こんなに可愛いハニーに、こんな顔をさせるなんて、俺は大馬鹿者だ…」
しがみつく私の背中に手をまわし、抱きしめ返す彼の腕が少し震えている。フラワーショップから香る花たちのいい香りが、一層強く鼻腔を刺激した。
「俺がハニーにプロポーズするとき、贈りたいと言った花を覚えていてくれてる?」
瞳をまっすぐ見つめる誠実な顔。アイリス、と泣きべそ声で答えれば、格別に優しい表情で跪き、君は言った。
「愛の約束を、させてほしい」
真っ白な花束が、彼の背中から目前に差し出された。そして、結婚してほしいと、言葉を続けた。
「本当はあの行きつけのレストランで、かっこよくプロポーズがしたかったんだけど」
情けなく、ふにゃりとした苦笑い。このプロポーズも、森山らしいといえば、森山らしかった。
「ずっと一緒にいる方法、これしかないと思って」
唐突なプロポーズに動揺する私の返事を、君は胸を熱くしながら待っている。
「私も、森山を大切にしたい。ずっと一緒にいる。約束する」
花屋の店先に並ぶどの花よりも君の笑顔はまぶしい。
足が浮くほどに、森山は私を花束ごと抱きしめた。
アイリスの花言葉「愛の約束」「あなたを大切にします」