普段は和やかな職場だけれど、定休日の前日の閉店前は空気が硬い。
「ヒルベルト」
店内にはまだ最後のドリンクを楽しむお客さんがいるのに、呼ばれて振り返ると歩君が珍しく厨房から顔を覗かせていた。
「どうしたの?」
お客さんに気づかれたくないだろうと厨房の出入り口近くで声を抑えて問うと、冴えない表情で。
「悪い……コーヒー一杯貰えるか?」
「それはいいけど……大丈夫?」
顔色悪いけど、と付け足すと、いつもと同じようになんでもないと手を振りながら厨房に引っ込んだ。
なんでもないようには決して見えないけれど、理由ははっきりしている。
定休日前の営業終了後、カフェでは賄いを食べながらミーティングという名の『女王様の審判』が行われる。
基本的にはその月起こったことを互いに話しながら、新たな企画や店舗内のオペレーションの改善に繋げたりしている。
そんな言い方をすると何やら大げさなように聞こえるけれど、実際のところはホールの様子が見えない厨房組にお客さんの声を教えてあげたり、サービスのタイミングをお客さんに合わせて『一番美味しいタイミングで食べてもらうためにはどうしたらいいか』について、みんなで意見を出し合う会だ。
――それだけじゃ、ないけれど。
酸味の少ない豆を選び、少しだけ薄めにドリップする。歩君の大きめのマグカップに移すと、温めた牛乳を注いでカフェ・オレにする。カウンターと厨房の間の扉を小さくノックすると、歩君がまた顔を出す。
オーダーはコーヒーなのにカフェ・オレが注がれたマグカップを見た歩君は、苦笑いで受け取った。
「悪いな。ありがとう」
「歩君。今日の賄い、なに?」
「クリームニョッキ」
そういえば歩君が厨房の扉を開くたび、バターのいい香りがカウンターまで漂ってきていたのを思い出した。胃もたれしてもおかしくないホワイトクリームの濃厚な匂いが、日付も変わる間際の時間でも食欲をそそるのはすごいことだ。
そう――これがただのミーティングではない理由。
歩君は、夜出すこの賄いをランチかディナーのメニューとして提案しようとしているのだ。
そして、このメニューが採用されるには、従業員の感想の他に大きなハードルがある。
「お疲れさまです、カノンさん」
最後のお客様が店を出たタイミングで、厨房からひよのさんが現れた。
「お疲れ様、ひよのさん」
「よお、嬢ちゃん」
抱えていたファイルをカウンターの端に置き、ミーティングのためテーブルセッティングを始めた香介たちホール組を手伝いに行った。
企画会議を兼ねたミーティングの一番のハードルは、ひよのさんだ。
裏方のひよのさんは基本的にオペレーション外だから、ミーティングはほとんどが聞き役になり、ホールや厨房の助っ人に入る際の情報を聞くだけだけど、メニューの企画になるととてもシビアなジャッジを下す。
オーナーに代わって店舗の売上や事務を統括するひよのさんだから出来ることであり、ひよのさんにしか出来ないことでもある。
お客様の直接の満足につながることだからこそ歩君も引けない気持ちは、サービスを提供する側の僕も痛いほど気持はよく分かる。
だけど……。
そうして。
ちょうど日付が変わるくらいのタイミングで、ミーティングは終わった。
歩君のクリームニョッキは、とても美味しかった。一口より少し小さなサイズのニョッキは、どうやって作ったのか柔らかいのに弾力があって、噛めば噛むほどじゃがいもの優しい甘みが感じられるし、何より絶品だったのはホワイトクリームだった。バターと生クリームに、気持ち混ぜられたブルーチーズが濃厚なコクを生み出しているのに、何故か後味はさっぱりしていた。
『生クリームが分離しない程度に、少しだけレモン汁を足した』
歩君はあっさりと言ってのけたど、乳製品と酸を混ぜ、熱を加えて分離させないようにするのが簡単なことじゃないことは、話を聞きながら隣で思い切り眉を顰めた火澄の反応を見ればわかる。
ひよのさんは、一皿きれいに食べ終えてスプーンを置くと、ニッコリと笑った。
『ご馳走様でした。すっごくすっごくすっご―――く! 美味しいですけど、却下です』
『理由は?』
『一品にかかる時間的コストです』
聞けば、ニョッキも丁度のサイズが見つからなくて歩君の手作りで、ホワイトクリームも作り置きが出来ずにニョッキが茹で上がったその都度混ぜ合わせて作る必要があるとのことだった。
味に妥協ができないからこそ、つい自分で作る手間をかける。――出来てしまうからこそ。
『鳴海さんがお客さんを大事にするように、このお店を大事にするのが私の仕事ですから』
ひよのさんの言葉に、歩君も言葉を飲み込んだ。後で話そう、と言う低い声にひよのさんも頷いて、今回の『女王様の審判』は解散となった。
「ひよのさん、」
片付けも終わった頃に声をかけ、カウンターの中に手招きすると、ひよのさんはバインダーを手にカウンター内にやってきた。
「来月、季節限定の紅茶葉で少し高めの茶葉を使いたいんだけど、味見してくれる?」
淹れたての紅茶を差し出すと、ひよのさんは一呼吸おいてカップを手にとった。ふっ、と息を吐いて、カップに顔を寄せると、目を閉じてゆっくりと香りを吸い込んだ。
そうして目を開き、琥珀色の液体を見つめてカップに口をつける。
僕は、ひよのさんの味見のときの仕草がとても好きだ。最大限美味しく味わうために、自分自身を整えて臨む姿を見ると、素材や作った相手への敬意を感じるから。
だから歩君も、ひよのさんのジャッジを信頼している事が、僕には理解る。
「美味しい……色は淡いですけど、すごくいい香りですね」
「マックウッズっていうイギリスの老舗のブランドの茶葉なんだけど、シングルエステイトで茶葉の製造から加工までを一貫して行ってる」
「希少価値が高い茶葉なんですね」
なるほど、と二口目に口をつけて、ひよのさんは頷いた。
「先月からの限定アフタヌーンティーセットのおかげでドリンクも紅茶の注文が伸びたから、飲んでもらいたいんだよね。でもコストがかかるから流石にレギュラーには出来ないと思って」
「それで、限定なんですね」
カップの中身が半分になったところで、ひよのさんは少しだけ砂糖とミルクを混ぜた。――これもいつもの味見の方法。
「……紅茶に力を入れた分、今月はコーヒーの方は少し売上が落ちてるんです。なにかいいアイデアありませんか?」
「それなんだけど、平日のカフェタイム限定でカフェラテに3Dアートを入れるのはどうかな?」
綺麗に混ざったミルクティーを、ひよのさんはゆっくりと飲み干していく。
「3Dアートはインスタ映えするけど時間がかかるでしょ? だから、お客さんが多いときには出来ないけど、最近平日のカフェタイムに女性のお客様が減っている気がするから、良い宣伝にならないかな、って」
カップを傾け、中身を飲み干したひよのさんは丁寧にカップをソーサーに戻した。かちゃん、と陶器特有の高い音が小さく鳴る。
「……わかりました。紅茶の価格を検討するので、仕入れ値を後で教えて下さい。3Dアートの方も、やる方向で検討したいのでまたお時間もらえますか?」
「もちろん」
ひよのさんからカップを預かり、ほっと胸を撫でおろした。
企画の提案は緊張するけれど、実のところ僕自身は不安に思ったことはあまりない。というのも、お客様に美味しさを提供する厨房とカウンター組の中でも、僕の企画が弾かれることはあまりないからだ。
それが、ずっと不思議だった。
「ねえ、ひよのさん。聞いてもいい?」
厨房奥の事務室に戻ろうとしたひよのさんは、小首をかしげて振り返った。
「……どうして歩君には厳しくて、僕には甘いの?」
ひよのさんは、少しだけ目を瞠った。
ひよのさんが企画の評価で差をつけていると思っているわけじゃないけれど、不思議だった。今日のニョッキもすごく美味しかったから、メニューとしては人気が出るのは間違いない。確かに、却下の理由は納得したけれど、全く無理なオペレーションでもない。
僕の企画も、逆に言うと高級茶葉にこだわる必要はない中で、値段の検討だけの条件付き採用だ。
「私とカノンさんは、考え方が似てるんです」
ひよのさんは、笑った。それは、ニョッキのジャッジを下したときのような、満面の笑顔じゃなく、なんだかとても優しくて。
「お店を守るってことは、お客様の満足を得ること。それには、働く人のことも守らないと、品質が落ちてしまう。……鳴海さんは、お客さんのために無茶をする人だけど、カノンさんは違う」
「……そう?」
「お客さんを大事にしてない、っていう意味じゃない。お客様に楽しんでもらいながら、お店のことも大事にしてくれている。――だから、信頼してますよ」
おやすみなさい、と笑顔を残し、ひよのさんは厨房へ戻っていった。
――信頼している。
その一言が、とても嬉しい。
僕にとっては、まるで女神の託宣を受けたようで、自然に唇が上がるのを感じた。