急速に色を失い、崩れていく世界を、僕は一つでも見逃さないようにと見つめていた。
後ろめたさを背中に感じながら、崩壊する心象風景から目を逸らすことは僕にはできない。唇を引き結び、ぎゅっと拳を握り、忘れないようにと記憶に刻み込む。
「……いかなきゃ、ね」
僕は自分に言い聞かせ、ここに残していくものと一緒に、世界を振り払うように踵を返した。大股で、一歩、二歩、三歩。
「どこ行くの」
その声に、足を止める。呼び止める声を無視して進むこともできた。今の僕には簡単なこと。でも、僕は報いなければならない。意志をもって、振り返る。
「みーくん」
そこに立っていたのは、黄色の色彩。『僕』以外の、最後の人格。
「……まーちゃん」
まず僕に現れたのは、安堵だった。まだ、いてくれていたという安心。けれど、彼の目を見て、それを口にするのははばかられた。非難と、憎しみと、怒り。戸惑いと、悲しみと、懇願。相反する感情がごたまぜになって、全てが僕を射抜いてくる。
「どこ行くの、って訊いてんの」
僕を詰るように、まーちゃんは尋ねてくる。じわりと罪悪感が心臓をひりつかせる。でも、決意は揺らがなかった。
「僕は、『僕』のために。『私』と決別する。……君と、決別する」
途端、喉元にナイフを突きつけられたような心地がした。彼のあふれ出た恨みが僕にぶつけられたのを感じた。
「なんでさ」
まーちゃんが一歩、僕に詰め寄る。
「恋を捨てるだけじゃなくて、『私』まで捨てるの? アタシを捨てるの? あの日の約束はどうなったの、嘘をついたの?」
疑問のかたちをとった責めが、僕に投げつけられる。
「ごめん。それは、僕は謝らなきゃならない。ごめん」
「謝れなんて言ってない!」
苛立ちとともに、まーちゃんがまた一歩踏み出す。
「みーくんおかしくなっちゃったんだよ、愛なんてさ、そんな必要もないもの大事に持って! 恋を捨てて、みんなを捨てて、世界を捨てて、自分は好きな道を行きますハイさようなら、なんてさ! 狂ってないとできないよ! おかしいよ! おかしい! おかしい! みーくんは壊れたんだ! そうだよ!」
矢継ぎ早に放たれる言葉の勢いのまま、まーちゃんは一歩僕に近づき、僕の首をがっと掴んだ。ぐっと気管が締まり、僕の喉から咳が飛び出す。
彼の言葉は、痛かった。何度もその考えを逡巡した。それでも。
「……そうだね、僕は狂ってるし、おかしいし、壊れてる。あの時に、僕は、もう『ぼく』ではいられなくなった」
まーちゃんが、驚いたように顔をこわばらせた。首を掴む指が一回ぴくりと動く。
「なんでそんなこと言うの? なんで認めるの!? 違う、違う違う違う! みーくんは何も悪くない、悪くないんだよ、そんなにしたあいつが、」
まーちゃんはぶんぶんと首を振り、そして、僕のチョーカーを見た。
「そうだ、あいつが悪い、こんなの、こんなものなければ!」
まーちゃんは首を掴んだ手を、チョーカーにかけ、そのまま力任せにぐっと引っ張った。その力に足を取られ、僕はまーちゃんにのしかかられる形で転倒する。がり、と爪が首をひっかき、締められる首がぎりぎりと鳴る。
「まーちゃん、」
「うるさい! 黙ってて!」
彼はチョーカーを引きちぎろうと何度も力を込める。首が締まり、視界が白くかすむ。
「まーちゃん、聞いてよ」
「何!?」
チョーカーを引っ張っていた手を叩きつけるように離し、まーちゃんは僕の襟を掴んで引き寄せた。
「僕は、何をしても、どこかに行くよ」
「……は?」
「僕は狂ったんだ。そして世界を壊した。でも、僕はここと一緒には消えられない。ここにはいられない。だから、出て行くんだ。ここではないどこかに、行くんだよ」
まーちゃんは、黙りこくった。そして、なにそれ、と呆然と呟いた。
「なにそれ、なにそれ! うそ、嘘嘘嘘! なんでよ、なんで、どうして!? みーくん、一緒にって、ねえ」
「ごめん。ごめんなさい。僕は謝らなくちゃいけないし、これからもずっと償い続けていく。君にも、みんなにも」
まーちゃんの言葉が要領を得なくなっていく。愕然たる事実に狼狽え、ぼろぼろと涙をこぼし続ける。
「……ごめんね、まーちゃん」
瞬間、彼の両手が僕の首に食らいついた。気道が潰される。空気も血液も、全て通らなくなる。
「そうだ、そうだよ」
まーちゃんは無理に笑おうとして、口元をひくつかせていた。
「ここで終わればいいじゃんか、ねえ、みーくん」
僕の体が酸素を求め、四肢をばたつかせる。それを意に介さず、まーちゃんはさらに指に力を込める。
「みーくんはどこにもいかなくていい。どこにもいかないでよ。一緒にいるんだよ、最後まで、ずっと」
僕の力では、もう抜けられないことを悟る。そこで僕の意識は、抵抗を諦めた。
……彼は、気づいているんだろうか。
僕は消えても、もう『私』には還らない。還れない。何をしても、僕は『私』ではないどこかに行く。これで、もう、お別れなのだ。
ああ、でも。
一人で歩いて消えるのは、少し寂しい心地がしていたのだ。まーちゃんのいるここで、まーちゃんの手によって消えるほうが、よっぽど。
まーちゃん。君のことが、大好きだ。みんなのことも、大好きだ。
『僕』は、『私』のことが、大好きだ。『ぼく』も、きっと、大好きだった。
思考が飛び始める。体が力を失っていく。
さよなら。ごめんね。ありがとう。
僕がいなくなっても、元気で。
そう伝えたかったけど、声を出す力すら、僕にはなかった。
意識が、黒く途切れる直前。
「やだ、置いて行かないで」
そんな切実な願いを聞いた。
それで、最後だった。
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文字書き配信 白幸
初公開日: 2020年04月12日
最終更新日: 2020年04月12日
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