気怠いままの身体が、ひとつ、ふたつ、静かに横たえられていた。波打ってごわつくシーツの上、劈開した時空の間に落とされたよう、静かな時間のなか、目を覚ましたものだった。
肌を融かした疲労感は、逆説的に今を生きる証左を差し向ける。それは或いは大袈裟でも、最早誰にも止められるものではない。
滔々と鳴る胸の鼓動と、微かに耳につくひとりの寝息を耳にして、安堵の息は、俯いた先の胸元に、そっと落とした。何も身に着けていない胸元が一瞬温まったあと、うっすらとした寒さに襲われた。薄い毛布を口元まで寄せて、視線だけで天井を見る。
他人事のような幸福感は、未明の空の青銅色。微かな寝息が耳につく初春の空に、まだ太陽は、上りきらないようだった。
視線を眼前に転じれば、断続的な寝息を立てるのは、"そうした間柄にある"人物だった。布団に覆われなかった薄い肩は白く、ロノウェはそっと、布団の端を首元にまで引き上げた。常であればロノウェよりも早い時間に目覚めるその人が、こうまで深く眠っているのは、昨晩の無茶によるものだろう。熟睡の機会が生まれたことに対する安堵と申し訳なさの鬩ぎ合いの中で、じっと、その面貌を見つめていた。
憂愁の降り積む目蓋は、その奥に輝くものを宿しているとも知らずに、うっすりと、青白い。そしてその睫毛に、かつて降りかかった憂愁を思えば、やる方ない思いが後ろ髪を引く。
どうして、いっしょにいてくれるんだ。――決して、その愛を疑いたいわけではないけれど。
どうして、俺が愛されているんだ。――誰しも何かの綻びがあることは、理屈の上では知っているけれど。
どうして、こんなに幸せなのに、こんな欲が、湧いてくるのだろうか。――好きだと、一言、口にしてほしい、だ、なんて。
胸はむなしく疼くだけ。愛し愛される営為はその実、奪い合いめいて、さんざにすべてを蹂躙しつくしたかと思えば、残された心に、花冷えの風が透っていく。鼓動は身体を支配して、それ一つきりに生かされている自分自身が、いかにも小さくみじめに思われた。
穏やかな呼気に合わせて、薄い掛布団は小さく上下する。その肺を満たした春の空気が、いのちをじっとりと”未来”へ推し進めていく。呼吸をせずには生きられまい。心臓が動かずには生きられまい。実に自然で脆い機構や機制のうえにあるこの生命が、否応なしにその身を引摺っていく(「のんきな患者」)までの間の一瞬、でも、こころが、身体が、生命が、自分のために、使われたなら。
●なにいってるかよくわかんないですね
「……傲慢すぎる………」
ふと漏らした一言に、驚いたのはロノウェ自身であった。その驚きをよそに、アンドラスはぐっすりと眠り続けている。居た堪れなさは、否めなかった。
掛け布団を過剰に奪いすぎないように、ゆっくりと背を向けるように寝返りを打って、ロノウェはぎゅっと目を閉じた。こうして一つの掛布団を分かち合えることに、愛がないはずはない。分かっている。――分かっているからこそ、いままで、こんな物思いに陥ることはなかった。
静かな呼吸の音がする。決して耳から離れない。
その呼吸を割る想像をする。「愛していると言ってくれ」。嘆願する自分がいる。
互いが互いの心臓の動きを知っている。らしくもない願いに、らしくもない一言が、あの唇から寄越される。肺を満たした春の空気が空費される。互いの胸は、一度きりきり痛むだろう。
その一言に、果たして自分は、喜ぶことが出来るだろうか。
●川端「心中」梶井「ヴァリエイション」伊藤「生物祭」
膝を抱え込んで、悪しき欲望の萌芽に脈打つ鼓動を御したかった。出来なかった。
またしても、と歯噛みして、穏やかな寝息の続く寝室を、抜け出そうにも、難しい。
●
●私はお前にこんなものをやろうと思う。一つはゼリーだ。(城)
「太陽光を浴びるといいよ。ヴィータの身体に必要な栄養素で、どうしても、食事からは摂れない栄養素があって、……それは日光浴で●のみ●、取り入れることが出来る」
目覚めて最初に出会った人物が、疲れが顔に張り付いた恋人――昨晩は散々に自身の身体を蹂躙しつくした恋人であった、アンドラスの心情はいかほどのものであろうか。申し訳ないと思いながらも、謝ることなどできるはずもなく、それが余計にロノウェの罪悪感を掻き立てた。
アンドラスはといえば、昨晩の肉体への負荷なぞ知らないような顔をして、てきぱきと医務室の洗濯物を干していく。慣れた手つきに感心して、シーツを洗う手は、どうにも止まりがちになる。
春の日の、穏やかな空模様だった。風は緩やかに吹き過ぎて、シーツは揺れて、その隙間から、鮮やかなオレンジ色の髪が見え隠れする。生きた人間の、楚々とした生活の姿であった。●(「城のある~」)手を止めてしまえば迷惑であろうという最後の意識で、手元の洗濯板とシーツに向き合って、点々と散る血痕を、なるだけ綺麗に洗い落とすよう努めた。
「……いい天気だね」
「ああ、本当に」
足元には蒲公英が咲いている。空は目に麗しい色を見せ、鼻先を漂う春の香りも、耳に届くその人の声色も、どことなく、温かい。
●
「春は好きかい?」
何気ない一言のつもりで吐いた一言に、ロノウェは自身の動揺を悟るに至った。“その一言”を耳にしたいが故の問いかけであったとすれば、こんなにも卑劣なやり口はない。