こんな味だったっけ、と思う。
もっと甘くて、ぽってりと、とろりとしていた気がする。
子どものころ、読んでもらった絵本のなかに出てきた葡萄酒は、つやつやした紫色で、動物たちやひとが唇を葡萄の色に染めて、それは幸せそうに飲んでいた。
鮮やかで、優しい葡萄の色を覚えている。母の指がページを捲って、読み聞かせてくれる。紙が擦れる音と、母の声とのほかに、ぷくぷく弾ける泡や甘酸っぱいかおりがふわっと広がって、小さな迅の喉をとろりと落ちていったのだ。
甘くて、ぽってりとしていた。
「こんな味だったっけ」
今度こそ迅は呟いた。
紫色に染まっていない唇に、まるで葡萄の皮をむくみたいに指を添えながら、こんな味だったっけともう一度首を傾げる。
首を傾げたのは、迅の隣で、一緒にマグカップを握っていた嵐山もだった。緑色のひとみが眦を緩やかに結んでいる。
「こんな味って、まさか、これまでも飲んだことがあったのか?」
先日、二十歳になったばかりの迅は、世間一般的に、はじめてアルコールを嗜んだということになっていなければならないが、その口ぶりからすると、どうやらいけないことをしてきたのかと言外に問われている。長い睫毛の奥の、葡萄の葉みたいなひとみは、強く咎めてはいなかった。いたずらっぽく光ったまま、迅のことを見つめている。
「ないよ。最上さんも(しぶちょー:呼び方みなおし)もそういうのうるさかったから」
「へぇ」
「意外でしょ」
迅が肩を竦めた。
「いや、そうでもないな」
マグカップのなかで揺れる紫色の液体を横目で見遣って、嵐山は、ゆっくり、小さく首を振った。
迅のいう最上さんや林藤支部長は、聞くに、迅のことを息子みたいに可愛がって、大切にしていたようだから。
そういう嵐山のまっすぐなひとみに、迅はむずむずとする唇を噛んだ。マグカップを握り直す。
「……昔、母さんに読んでもらった絵本に、葡萄酒が出てきて」
夜の風が少しだけ火照る頬を冷ましてくれた。屋上であびる風は、心地よかった。
「それが、すごく甘くて、おいしかったんだよね」
迅の指先がマグカップの淵をなぞる。
嵐山はそれを静かに見つめていた。
一緒に葡萄酒を飲もう。
二十になったばかりの迅が、十歳の子どもみたいにひとみを輝かせて、嵐山のことを玉狛支部の屋上へとそう誘った。嵐山の誕生日はもう少しあとだったけれど、そんなものはもう誤差だよと、迅はやはり子どもみたいにはしゃいでいて、ね、いいでしょ、いっぱいだけ、と言われてしまえば、嵐山には断る理由もなかった。
最上さんや林藤支部長に隠れて、こっそりシャンパンやチューハイの缶を開けたことならあったけれど、ふたりとも、葡萄酒を飲むのははじめてのことだった。
ふたりとも、はしゃいでいた。はしゃいでいたわりに、マグカップのなかみはあまり減っていなかった。
嵐山の視線に気が付いたのか、迅が照れたように笑って、
「思ってたより、苦かったね」
と口元をほころばせた。
薄い唇のあいだからつんと尖る白い歯をちょっぴり覗かせる迅が、あ、と不意に嵐山の顔を見上げる。嵐山がどうしたと無防備に首を傾げている。
迅は、ずい、と身を乗り出して、嵐山の唇に薄い肉をそっと押し付けた。唇の下で、驚く気配がした。葡萄の葉のひとみに、自分の目が反射している。
迅は瞼を震わせた。長い睫毛が、吐息が、触れあって、くすぐったかった。
「ふふ。甘いね」
ぱちっと、かおりが弾けた。ああ、これだ、と迅はふるった。甘くて、ぽってりとした、とろりとしていた鮮やかで美しい、あの葡萄の色。それが今、めくったばかりのように、瑞々しく、蘇ってくる。