焼きたてのパンのような色合いのやさしい色のドアを開けると、カランという軽快なカウベルの音に迎えられる。
どこかなつかしい、さほど広くない店内は香ばしい香りに満たされており、店に入るたびにすうっと深呼吸をしてしまうのは致し方ないことだろう。
肺の奥までいい香りで満たしたあと、くるりと店内を見渡すとつやつやした焼きたてのパンがところ狭しと並んでいる。オープン直後に来たので、すべてほかほかと湯気が立ちそうなくらい焼きたてだ。
おもむろにトレーとトングを手に取って、さて今日はどうしようかと考える。このために、通勤かばんを両手が空くリュックに変えたことは倉持だけの秘密だ。
腹は、すでにくうくうと情けない音を立てている。
二、三歩進んで、温度のないそっけない字で「新作」とポップがつけられたパンを見つけた。見た目はなんの変哲もないクリームパンだが、書かれた説明を見て倉持は頬を緩ませる。
「クリームプリンパンて」
なんのひねりもなくどストレートである。
せめてプリンをプディングと表記するとか、もうすこし洒落た名前にしてもよかったのではないだろうか。女性客も多いのだし。考える気もなさそうなのが透けて見える。
しかし、このパンはきっと、ほぼ百パーセント自分のために作られたものだろう。そう考えると胸がほっこりとして、倉持はきつね色のそれをひとつ掴んでトレーに乗せた。
さて、朝食にはひとつでは足りそうもない。
あともうひとつくらい何か――そう思ったところで、店の奥からまた焼きたてのパンが乗ったトレーを抱えて、野暮ったい黒縁眼鏡をかけた男がやってきた。髪の毛が入らないようにだろう、太めのヘアバンドが似合っている。しかしタオルを巻いているときもあるので、こだわりがあるというよりは適当にそのへんにあるものでまとめていると見て間違いない。
「お、倉持じゃん。おはよ。相変わらずはえーな」
「おう。もう朝はここのパンって決めてんだよ」
倉持がカチン、とトングを鳴らして笑うと、目の前の男――御幸は「だろ」とドヤ顔で誇らしげに笑い、そうして、持っていたトレーを空いていた場所に陳列した。今まで見たことのない新商品であろうそれに、倉持は御幸の肩越しにひょいを目をやる。
「それなんだ?」
「あ、これ? 食べごたえあるやつの種類もうちょい欲しいとか言ってただろ。甘辛いタレに漬けたチキンカツとキャベツの千切り挟んだやつ。チキンカツパンとか?」
「……いや、せめて和風チキンカツサンドとかにしとけ」
ネーミングもへったくれもない。
男の拳よりもすこし大きいくらいのパンからは、甘辛いタレをまとったつやつやしたチキンカツと、たっぷりと敷かれたキャベツがはみ出している。見るからにうまそうでついごくりと喉を鳴らしてしまった。
「別に名前なんか何でもいいけどよ。んじゃ、それも一個」
「はいよ。まー気休めだけど、どうせ昼も夜も外食ばっかなんだろ? ちょっとは野菜も食えよな」
毎回言われるので、最近はコンビニでサラダを買ったり気をつけるようにはしている。
しかしそれを言っておせっかいを焼いてもらえなくなるのは嫌なので表には出さずに、これまた明らかに自分のために作ったと思われるそれもひとつトレーに乗せて、倉持は短く「おう」と返事をした。
この男は無自覚なんだろうか。これで、自惚れない男はいるのだろうか。
「じゃあ、これとこれ、ふたつ」
「ん、いつもありがと」
小さいレジで手早くパンを包むと、目の前の男はニッと笑って「いってらっしゃい」と倉持を見送った。
すこしだけ顔が赤くなったのを悟られないうちに、倉持は努めて冷静を装ってパンを受け取ると「……いってきます」と呟いた。
倉持が社会人になってから、五年が経った。
会社勤めをしながら、たまに学生時代の仲間たちと集まって草野球をするくらいで、いたって平凡な毎日を送っている。その間に何回か彼女ができたりもしたけれど、どれもそこまで長続きはせずに、でもそれを長く引きずったりするわけでもなく。
つい先日も、三ヶ月付き合った彼女に「なんか違う」という抽象的かつはっきりした理由を突きつけられてフラれたばかりだった。しかし、そこまでダメージを受けていない自分もいる。
自分のほうだって、ぴったりはまっているとは思っていなかった証拠だ。
仕事はまあ楽しいし、しばらくはこのままでいいかな、なんて思っていた、そんなとき。倉持は御幸と出会った。
「あー……腹減ったな」
退屈とまでは言わないがどこか物足りない日々を過ごしていたある日。
会議で使う資料の最終チェックをするため、倉持はいつもより一時間とすこし、早く家を出た。
いつもギリギリまで寝ていることが多いため、ひとり暮らしを始めてからは朝食を摂る習慣がなくなってしまっている。仕事が始まってしまえば昼まで食べている暇もないので、せいぜい電車に飛び乗ったあと、会社の最寄り駅に着いてから会社への道中にあるコンビニでコーヒーを買うくらいだ。
そんなふうに、すこしだけ乱れた生活を送っていた倉持にしてみれば、いつもより一時間早く出ただけでどことなく空気が澄んでいるような気がする。マフラーに埋めた鼻を出して、すんと冷たい空気を吸い込んだ。
すると、倉持の鼻が嗅ぎなれない匂いを拾った。
嗅ぎなれない、とは「自分の家の近くで」という意味であり、実際はよく知っている匂いだ。
「……パン?」
パンの匂いだ。それも、焼きたての。
早朝であたりに人がいないのをいいことに、まるで動物のようにすんすんと鼻を鳴らして周りを見渡すと、どうやら匂いの元は近い。
――こんなところにパン屋なんかあったっけ。
そう思いながら匂いを頼りに足を進めると、果たして目当ての店はすぐに見つかった。
倉持の家から、店までの道のりの間。すこし脇道に入ったところにその店はあった。家からは徒歩五分といったところだろう。
「……ここって」
ひとり暮らしを始めてからずっと同じアパートに住んでいるため、このあたりのことは割とよく知っている。ついふた月ほど前に通ったときには、ここには老夫婦が営む小さな定食屋があったはずだ。
古びた印象だったそこは、建て替えたのか小洒落た印象の建物になっていた。店の看板を見れば【店の名前あとで考える】と書いてある。どうやら英語ではなさそうだ。
そして、匂いのもとはこの店で間違いなさそうである。
腕時計で時間を確認すると、時刻は朝の七時。
――まだ準備中だよな、たぶん。
いくらパン屋の朝が早いとはいえ、こんな時間からやっているものなのだろうか。
しかし、倉持の腹はすでにパンを求めてしまっているし、こんないい匂いを嗅いでしまってからは絶対にコンビニのパンなんかで満足できるわけがない。
ダメ元で中を覗いてみようかと、ドアに近づいたところでタイミングよく向こう側からドアが開いた。
「っわ、びっくりした。お客さん?」
「……っえ、ああ……もうやってんの?」
表に立て看板を出そうとしていたのだろう、大きな木枠を抱えた男がひょいっと顔を出した。同年代に見える男が気さくに声をかけてきたので、倉持もついタメ口で返してしまう。
「おー、ちょうど七時から。入ってよ」
「……んじゃ、遠慮なく」
看板を設置した男に促されて先に店内に入ると、先ほどの焼きたてパンの香りがより一層強くなった。
香りに誘われるままに店内を見渡すと、どのパンも自分を選んでと言っているように見えてくる。
鞄を小脇に抱え、トレーとトングを手に取った。
「……」
パンを目の前にして、倉持はむうと唸る。
どれも美味そうで決めきれそうにないが、休みの日ならいざ知らずこれから会社に行くのに、そんなにたくさんパンを買っていくわけにはいかない。
「あれ、なんか難しい顔してっけど。アレルギーとか、嫌いなモンでもあんの?」
男が戻ってきて、眉を寄せて考え込む倉持に軽く声をかけてきた。バツ悪く振り返ると、倉持は嘘をついても仕方ないし、と正直に答える。
「いや、こんだけあると悩んじまってよ」
「普通のパン屋に比べればだいぶ少ねえほうだけどな? じゃあ、俺のおすすめでもいい?」
おすすめ、という言葉に倉持は目を瞬かせた。救いの言葉のようなそれに軽く頷くと、男は軽く笑う。
「今の時間てことは朝メシだろ? 甘いモン好き? それなら甘いのとしょっぱいの、一個ずつでどう?」
普段であれば男が堂々と甘いものが好きだというのも気恥ずかしいが、パン屋の店員であればとくに抵抗はない。
倉持がその問いにもこくりと頷くと、男はカスタードとホイップの二種類が入ったクリームパンと、大きなソーセージが挟まった、ホットドッグのような形状のパンを指差した。
「クリームパンはちょっと自信あるぜ。あとは野郎にはこれがおすすめかな。腹減ってんだろ?」
どちらも気になっていたもので、倉持は迷わずそれをトレーに取った。レジに行くと男は楽しげにひとつずつ丁寧に、しかし素早く包んでくれる。そして、クリームパンを紙袋に入れながらニヤリと笑った。
「これ、人気ナンバーワンなんだぜ。近所の小学生に♡」
「……ハァ!?」
子供舌であると見越してからかわれたのだと気づいて、倉持は目を剥いた。そのようすを見て、男はげらげらと声を上げて笑っている。
初対面の男にこんなことをされたのは初めてで、しかし決して不愉快なからかわれ方ではない。怒るほどではないが拗ねるにはじゅうぶんで、倉持はむっつりと口を曲げた。
「はっはっは、わりーわりー。同年代の男が来るのってあんまないから嬉しくなっちゃってさ。これで勘弁して」
そんな倉持を見て男はくすぐったそうに笑うと、レジの隣に置いてあった冷蔵ケースから、パックの野菜ジュースを取り出して一緒に袋に入れた。
「え、いや、べつに……」
「美味かったらまた来てよ。まだオープンして一ヶ月も経ってねえからさ。よかったら宣伝よろしく」
「へえ……んじゃ、遠慮なく。さんきゅ」
倉持が素直に受け取ると、男はニッと笑って「行ってらっしゃい」と見送った。それになんとなく毒気を抜かれて、気づけば倉持は実家にいたときぶりに「いってきます」と呟いていたのである。
店にいたのは五分か十分だったが、なんだか濃い時間だった。紙袋をかさかさと言わせながらいつもよりも空いている電車に揺られて会社に行き、まだ誰もいないデスクで、会議の資料を見るよりも先にパンを取り出した。
からかわれたクリームパンを見つめ、鼻をくすぐる甘い匂いに誘われ、思い切って、がぶりとひとくち。
噛んだ瞬間に、甘いふわふわのホイップと、とろりとした甘さ控えめのカスタードクリームが同時に口の中に広がる。
「……うめー」
ごくりと飲み込むと、代わりにすろんとそんな言葉が口をついて出た。そのまま、味わう間もなく食べきってしまう。そしてもうひとつのパンにも手を伸ばすと、こちらもたいして時間をかけずに食べてしまった。指についたケチャップをぺろりと舐めて、おまけでもらった野菜ジュースをストローでじゅっと口に入れる。
「……おし」
いつも午前中はなんとなく頭の働きがにぶいが、今日は早起きしてしっかり朝食を摂ったせいか頭がすっきりしている。このパンを作ったのであろうあの男の名前はなんというのだろうかと考えて、また明日聞けばいいかと仕事に打ち込んだ。
自然に、もう明日も行くことにしていることには気づかずに。
仕事の帰りに寄ってみると、店はすでに閉まっていた。
朝早くからやっているので、きっと夕方ごろには閉めるのだろう。すこし残念に思いながら、あすも同じ時間に起きようと心に決める。
今日は一時間早く出勤したのと、糖分をとって頭が冴えていたこともあり仕事はすこぶる順調だった。電車もいつもより空いていたし、仕事がはかどったおかげで定時で帰ることができ、いいことしかなかった。早起きは三文の得である。
今考えるとパンの味よりあの男の顔のほうを思い出すのはおかしいのだが。倉持は機嫌よく明日の早起きのために家路を急いだ。
☆きりがいいのでひとまずここまで~~~