「落ち着いて聞いてください。イケブクロのバスター・ブロスが解散しました」
 左馬刻に最初にその報せを持ってきたのはチームメンバーである入間銃兎だった。
「……あァ? 何言ってやがんだ、解散だぁ?」
 決して銃兎を信じていないわけではない。そもそも銃兎はこうした冗談を言う男ではないし、何より左馬刻とバスター・ブロスのリーダー、山田一郎との間に並々ならぬ因縁があることをよくよく承知している。
 そんな銃兎が敢えて左馬刻の地雷を踏みぬくような真似をするわけもなく、それが冗談ではないことなどすぐに分かった。
 けれど、疑わずにはいられなかったのだ。「あの」山田一郎が、あんなにも大切にしていた弟達とのチームを易々と解散するだろうか。それも、二度目のディビジョンラップバトルを目前に控えたこの時期に。
「私も信じられませんよ。でもどうやら事実のようなんです」
 銃兎が差し出す端末に目を遣ると、一体どこから手に入れてきたのか、そこにはディビジョンバトルの予選トーナメント出場チームの一覧が記されていた。
 対戦表はまだ公表されていないはずだが、警察官のあらゆる権力を利用し各方面にパイプを持つ銃兎であればこの程度の情報を事前に掴むことなど造作もないのだろう。
 銃兎が指し示すイケブクロ・ディビジョンのリストには、確かにバスター・ブロスの文字がどこにも見当たらなかった。
「チームメンバーを変えてエントリーしているのかとも思ったが、そもそも登録者名簿に山田一郎の名前が存在しない。弟二人も同じです」
 その言葉が俄かには信じられず、必死に「山田一郎」の名前を探したが、やはり銃兎の言う通り、ディビジョンバトルにエントリーしていないようだった。
「はッ! 逃げやがったのか、あのドグソ野郎はよぉ」
 煙草をふかして白い煙を薄く吐き出し、嘲笑うようにそう言い放ってみたが、不思議なことに煙草のにおいも味もまるで分からなかった。
「左馬刻。本当にあの山田一郎が逃げたと思っているわけではないでしょう?」
「……」
 是と答えるのが癪でわざと目を逸らしたが、確かに銃兎の言う通りだった。
 前回の決勝トーナメントで一郎率いるバスター・ブロスは左馬刻のマッド・トリガー・クルーに敗れている。あの時、赤と緑の鮮やかな瞳に燃えるような闘志と悔しさをいっぱいに滲ませて「次は負けねぇ」と告げた一郎の姿を左馬刻ははっきりと覚えている。
 一郎は自身で一度決めたことを簡単に覆すような男ではない。それは過去、チームを組んでいた左馬刻が誰よりよく知っていることだ。
 何せ左馬刻はそんな一郎の気概を気に入って特別に目を掛けていたのだ。
 一郎は組の者でもなければましてや舎弟でもないただの不良の高校生。どんなに悪ぶったところでヤクザの世界に身を置く左馬刻にとっては青臭くつまらないただの「ガキ」のはずだったのだが、生意気そうなオッドアイの瞳に宿る強い意志が好ましいと思った。
 世界中が敵だといわんばかりに誰彼構わず睨みつけ、自分こそが強者なのだと剥き出しの敵意で威嚇する。
 目一杯背伸びするただの子どものはずなのに、なまじ能力があるせいで対等以上に大人と渡り合えてしまう。
 ヒプノシスマイクを持った一郎を誰も「子ども扱い」しようとはしなかった。守るべき幼い弟二人の存在がそうさせたのか、本人もそれを望んでいたし、あの頃の一郎は背伸びばかりしているように見えた。
 だから、自分だけはこの頑固な子どもを正しく「ガキ扱い」してやろうと決めたのだ。
 使いっ走りのようなことをさせて気紛れに駄賃をやった。何かと理由をつけては美味い店に連れて行き、食べ盛りの高校生の胃袋を満たしてもやった。いざという時、マイクがなくても身を守れるようにとケンカのやり方だって教えてやった。
 一郎は突然自分の世界に現れた「大人」にどう甘えればいいのか分からなかったようで、最初は警戒したり戸惑ったりしていたが、だんだんと慣れ始めるとすぐに人懐っこい笑顔を見せるようになった。
 左馬刻はそんな一郎をいたく可愛がり、いつも傍に置きたがった。
 あの頃はただただ全てが満ち足りていた。
 それもチームの不和とダーティー・ドッグの解散により結局は壊れてなくなったしまったわけだが、こうした経緯から左馬刻は山田一郎という男をよく理解している。
 恐らくは一郎に強い憧憬を抱くあの弟達よりも客観的に、そして的確に一郎の性質を捉えている自信がある。そして、かつての兄貴分としての自負も。
 だからこそ、あの一郎がディビジョンバトルを辞退したということがいまだに信じられないでいる。
 負けたままで終わるはずが……いや、終われるはずがないのだ。きっと出るなと止められたって這いつくばってでも勝負の場に立つだろう。
 あれはそういう男だ。
「これは飽くまで噂ですがね…、警察(こっち)では『バスター・ブロスの三人が行方不明になった』だなんて話も出ているんですよ」
「はぁ? 行方不明?」
「山田二郎と山田三郎は学生でしょう。先週から学校に来ていない、連絡もつかないと学校から署に相談があったらしいですよ」
 こればかりは明らかにおかしい。
 あの一郎が溺愛する弟達にそんなことをさせるだろうか。
 例え本人達がそれを望んだとしても、一郎は絶対に許さないはずだ。
 ――俺、バイトばっかでろくに通えなかったから、アイツらにはちゃんと学校生活ってやつを楽しんで欲しいんスよ。
 どこか恥ずかしそうにはにかみながらそう話す過去の――まだ十七だったあの頃の一郎が脳裏をよぎった。
 自身の妹に同じことを願っていた左馬刻には当時の一郎の気持ちが嫌というほど理解できたが、そんな一郎だって学校生活を楽しむべき「子ども」のはずなのに端から諦めてそんなことを言うのが心底気に食わなかった。
 けれど、一郎の置かれている状況を知っていて「学生生活を楽しめ」だなんて浅はかなことを言う気にもなれず、歯痒い気持ちを煙草の煙もろともに吐き出したのを今でもよく覚えている。
 ……あぁ、くだらないものを思い出してしまった。
 まだ左馬刻が一郎の「世界」であった頃の、とっくの昔に擦り切れ、色褪せてしまったもの――。
「……」
 思わず馬鹿げた感傷に浸りそうになってしまったが、とにかく、そんな風に話していた一郎が弟達の無断欠席を見過ごすはずがない。
 つまり、弟二人は学校に通えない状況にあり、一郎はそれを何とかすることができない状態なのだと考えるのが自然だ。
 恐らく……いや、間違いなくあの兄弟に何かが起きている。
 左馬刻の中で漠然とした予感にすぎなかったものが確信に変わった。
 けれど、一郎はもう同じチームのメンバーでもなければ、あの頃のように特別に目をかける弟分でもない。今はもう倒すべき相手であり淘汰すべき存在なのだ。
 だから、その一郎がどうなろうと左馬刻の知ったことではないはずだ。
 今の自分はそう在らねばならない。
 ただでさえ中王区に洗脳された大事な妹を取り返す算段で日々忙しくしているというのに、一郎などにかまけている場合ではないのだ。
 ひとしきりぐるぐると考えを巡らせてそう結論付けると、努めてつまらなさそうな顔をして目の前のチームメンバーに目をやった。
「……で、銃兎ぉ。テメェはそれを俺様に言ってどうすんだよ?」
「何も? ただ貴方の耳に入れておく価値のある話だと思っただけです」
 銃兎は左馬刻のこの反応も織り込み済みとでも言いたげに大袈裟な溜息を吐いてみせた。
 先ほどからまるで煙草の味が分からなくなってしまった左馬刻とは裏腹に、切れ長の目を俯かせた銃兎は新しい煙草に火をつけてうまそうに白煙を吸い込んだ。
「これを聞いてどうするか……それとも『どうもしない』のか、勿論貴方の自由ですよ」
「するわきゃねぇだろうが」
 ぐしゃりと煙草を灰皿に押しつけてそう答えた銃兎は「そうですか」とだけ静かに返すと左馬刻の事務所を後にした。
*
 ――おいガキ。
 ――ンだよ、ガキ扱いしないでくださいよ。
 ――あぁ? 一郎くんはまだ十七のガキだろうがよ。ガキをガキっつって何が悪ぃ。
 ぐしゃぐしゃと頭を撫でてわざと黒髪を乱す。すると、拗ねたような表情で恨みがましくこちらを見上げた一郎がくすぐったそうに笑ってみせた。
 口では「やめろよ」と拒むものの、左馬刻がガシガシと髪を撫でつけるたび、どうしようもなく幸せそうな顔をする。
 甘え方を知らない不器用な子ども。それも当然だ。
 三人兄弟の長男で、施設に預けられて育った一郎が年相応の子どもであることを許されたのは一体どれだけ僅かな時間だったのだろう。
 同情などしない。一郎は強い男だ。そもそもする必要もない。
 ただ、背伸びばかりを覚えたこの子どもの素顔を見たいと思った。
 これでもかと甘やかして年相応に笑っているのを見ると、なぜだかひどく気分が良かった。
 ――左馬刻さんは凄ぇよなぁ。
 ――あぁ?
 ――ちゃんと合歓ちゃんのこと守って、いい兄貴してるじゃないっすか。
 左馬刻にぐちゃぐちゃにされた髪を申し訳程度に梳きながら、そう呟いた一郎の声はらしくもなく少しだけ弱々しかった。
 自分自身がガキであることを本当は誰よりもよく知っている一郎は、時折こうして自身の無力さに弱音を吐くことがある。
 高校生のガキにできることの方が少ないだろうと言ってやりたいところだが、一刻も早く施設を出て自分の力で弟達を養えるようにとヤクザの真似事までして必死に金を貯める一郎は常に何かに焦っている様子だった。
 一郎はつい最近まで弟二人と折り合いが悪く、ある誤解が原因で兄弟仲は決して良いといえる状況ではなかった。
 ただ、それも当時一郎のチームが傘下に入っていた「天国ヘノ階段」のボス紫藤と鳳仙との抗争を機に解決したのだが、一度拗れたものを完全に元通りに戻すには時間がかかる。今はぎこちなくも兄弟仲を修復している最中といったところで、一郎はそのことに焦りや寂しさのようなものを感じているようだった。
 出会ったばかりの頃は人に懐かぬ狂暴な野良猫のように威嚇ばかりしていたが、それに比べれば
こうしてその焦りを左馬刻に零せるようになっただけ目覚ましい成長といっていい。
 本当はもっと甘えていい。もっと頼ればいい。
 不安でどうすればいいか分からない、と泣いて縋って構わないのに。
 ――……。
 喉元までせり上がるその気持ちをぐっと飲み込んで、左馬刻はもう一度ぐしゃぐしゃと一郎の髪をかき混ぜた。
 ――バーカ。
 ――は!? だからそれやめて下さいって……!
 ――うっせ。クソつまんねぇこと言ってねぇで飯行くぞ。
 ――……っス。
 消し去りたいと思っていた過去の記憶。
 ふとしたやり取りや、くるくると変わる一郎の表情を今も夢に見ることがある。
 眠りから覚めてゆっくりと瞼を開けると、最初に映った事務所の天井に一郎の顔が浮かんだような気がして、思わず舌打ちをした。
 左馬刻の脳内に浮かんだ一郎は、色違いの鮮やかな瞳に憧憬をいっぱいに詰め込んだ十七の高校生ではなく、怒りと嫌悪を鋭く突きつける十九の青年の姿をしていた。
 うたた寝の合間に見る夢としてはあまりにも趣味が悪い。
 これもそれも、銃兎があんな話を持ってくるから悪いのだ。
「……クソつまんねぇもん見ちまった」
 横になっていた事務所のソファーから気だるげに上半身を起こした左馬刻は、地を這うような低い声でボソリとそう呟いていた。
 もしここに舎弟がいたならば、きっと顔を青くして逃げ出していたことだろう。
 その時、まるでタイミングを見計らったかのようにソファーの隅に放ったままのスマホが鈍く震え、着信を知らせた。
 液晶に浮かび上がったのが「ある仕事」を任せていた舎弟の名前だと確認すると、まだ僅かに覚醒しきらない頭のまま急いで通話ボタンをタップした。
「おぅ」
『兄貴、ご苦労様です』
「例の件か?」
『はい。それが……』
「見つからねぇのか」
『はい。事務所周辺を張らせましたが、ここ数日は誰も姿を見せてねぇようです。イケブクロでそれらしい目撃情報もなし。行方不明ってのは本当かと』
「そうか」
 決して銃兎に嗾(●けしか)けられたわけではない。ただ、納得がいかなかっただけだ。
 一度敗れたくせに、あのバトルの後も一郎の闘志は死んでいなかった。自分はまだ戦えるのだと、次は弟達と共に倒してみせると睨みつけたあの生意気な目が嘘だったとは思えない。
 それに何より、左馬刻には一郎との間にはっきりとさせなければならないことがある。
 ――合歓お姉さんがああなったのって、僕のせいだからね。
 ――僕が真正ヒプノシスマイクで彼女にマインドハックしたんだ。
 久方ぶりに再会した妹の合歓は、自らを行政監察局の副局長だと名乗った。そして兄である左馬刻を逮捕しようとした。
 どうやらそれは中王区の総意ではなかったようだが、あの時の合歓の様子はどう考えても異常だった。
 そして、その直後に乱数から明かされた真実も俄かには信じられなかったが、どうやら嘘ということでもないらしい。
 ならば、左馬刻がこの二年間抱え続けてきた一郎への怒りは何だ?
 一郎が招いたと思っていたものの原因が全く別のところにあると知ってしまい、苦しみながらも決して捨てることのなかった憎悪の行き場を突然失ってしまった。
 当然あの時はひどく動揺したし、今だってまだ気持ちの整理はついていない。
『次は周辺の街を……』
「いや、この件はもういい。苦労かけちまったな」
『いいんですか? こりゃ本当にヤバいことに巻き込まれたんじゃ……』
「組に関係ねぇ問題でこれ以上お前らを動かすわけにはいかねぇ。一郎は俺が探す」
 一郎を憎むと決めた。
 意地っ張りで強気で生意気で、あの頃きっとどの舎弟よりも可愛がっていた不良のガキを「敵」と見なすと決めたのは左馬刻自身だった。
 けれど、どんなに今憎しみを重ねてもあの頃抱えていた感情は一向に失せる気配がない。愛憎入り混じるとはよく言ったものだが、こんなにも憎い一郎への情を捨てきれずに、左馬刻はずっと苦しみ続けている。
 本当は恨みたくなどなかった。本当はあの頃のように傍で見守っていたかった。
 十九とはいえまだ成人すらしていないのだから、左馬刻にとって一郎は変わらずガキのままだ。なのに、今もたった一人で弟達を養って、弱音を吐く場所もなく懸命に背伸びして立っているのだろうか。
 そんな一郎の姿を思うと、不意に歯痒くて苦しくてどうしようもなくなる時がある。
 殺したいほど憎らしいはずなのに、同時に元気でやっているのか、一人で何か抱え込んではいないかといつまでも気にかかる唯一の相手。一郎への複雑な感情を持て余したまま二年の時が過ぎ、今この憎悪の根元が誤解であったのだと知らされた。
 単純に「そうですか」と和解できるようなものでもないが、自分達の間にある誤解は何なのか、なぜそれを「強いられて」しまったのか、それをはっきりさせるために左馬刻には一郎と話をする必要があった。だからこうして探している。
 ただそれだけだ。
 それにしても、組の者が探してここまで足取りが掴めないというのはおかしな話だ。
 左馬刻が信頼する有能な人間を選んで事にあたらせたはずなのだが、それでもあの三兄弟の誰一人の情報も探し出せなかった。
 この「ゼロ」という結論から導き出せるものは一つ。
 H歴において圧倒的な権力を握る組織、言ノ葉党――つまりは中王区が絡んでいる可能性が高い。
 先日、左馬刻自身が危うく中王区に身柄を拘束されそうになった一件はまだ記憶に新しい。何とか逃げおおせたものの、奴らに目を付けられているのは確かだろう。そしてここに来てバスター・ブロスの兄弟が――山田一郎が失踪したのだという。
 左馬刻と一郎の共通点などただ一つだ。かつて伝説と謳われたTDDのチームメンバーだということ。
 何かが起きようとしている。
 胃の奥が騒めくような不気味な感覚に左馬刻は一人眉を顰め、電話帳に登録された「ある番号」を呼び出した。
*
 あれから数日。思い当たる場所を虱潰しにあたってみたものの、未だ一郎の居場所を突き止められないでいる。
 舎弟に見つけられなかった時点でイケブクロにはもう居ないのだろうと踏んでいたから、TDD時代によく過ごしたたまり場や公園など、左馬刻しか知りえないであろう他のディビジョンを中心に探してみたが、全て空振りに終わった。
 それどころか、左馬刻自身にも中王区の手が迫ろうとしているらしく、悠長に人探しなどしている場合ではなくなってしまった。
『左馬刻、お前に中王区から逮捕状が出てる。今度は正式なやつがな』
 焦った様子の銃兎から電話でそのことを知らされ、どこか他人事のように「そりゃそうだろうよ」と呟いた。
 一郎にだけ手を出して「他」を放っておくはずがない。自分にも再び追手がかかることは想定していた。
『理鶯のところに行け。あそこならまだ割れてないはずだ』
「それも悪かねぇが、暫くはセーフハウスを使う。理鶯にはヤバくなったら匿ってくれとでも伝えてくれや」
『大丈夫なのか? 今お前に消えられちゃ困る』
「問題ねぇ。ありゃ組の人間にも言ってねぇからな、多少は時間稼ぎになンだろ」
『……分かった。準備ができたら連絡する』
「おう」
 左馬刻はヨコハマ・ディビジョン内に一つセーフハウスを持っている。
 自宅とは別に緊急時に身を隠すために確保した部屋で、それは自分に近い舎弟数人には場所も教えてあった。
 けれど、左馬刻が今回向かったのは、シンジュク・ディビジョンの外れにある古びたマンションだった。
 決して組の者を信用していないわけではないが、今回ばかりは複数人が場所を知るヨコハマのセーフハウスを使うわけにはいかない。何せ追手は中王区なのだ。
 左馬刻が人知れずシンジュクに借りていたその部屋はセーフハウスと呼ぶにはあまりにも長く放置されていた。記憶が正しければ、かれこれ二年は訪れていない。
 この部屋の存在を知るのは左馬刻自身と、それに山田一郎のたった二人きりだ。
 まだ左馬刻がTDDとして活動していた頃、このセーフハウスで幾度も一郎と時間を過ごした。終電を逃したとか、バトルで疲れて帰る気力もないから寝床にしただとか、とてもセーフハウスのあるべき役割を果たしてはおらず、おかげで部屋のあらゆるところに一郎との思い出が染みついていた。
 左馬刻が二年もの間この部屋に近づこうとしなかったのは、偏にそれを思い出すのが嫌だったというだけの理由からだった。
 我ながら女々しい思考回路をしていると辟易するが、背に腹は代えられぬ今の状況ではそんなことを言っている場合ではない。
 人に知られていないこの場所は身を隠すのに都合がいい。
 長い間使っていなかったから、きっと随分埃をかぶっているのだろう。けれど、きっと自分はそんな誇りまみれの部屋を見ても、一郎と過ごした日々を忌まわしいほど鮮明に思い出してしまうのだろう。
 そんな馬鹿らしいことを考えながら、憂鬱な気持ちで鍵をさし込み部屋のドアを開けた。
 真っ暗な部屋に一歩足を踏み入れると、目の前に一組の靴が脱ぎ捨てられているのが目に入った。
「……!」
 黒と赤の運動靴。大きさからして間違いなく男物だ。
 まさか、もう既にこの場所も突き止められていたのだろうか。
 ヒュッと息を呑んで反射的に身構えたが、左馬刻を捕えようというならこんな場所に律儀に靴を脱ぐ間抜けがいるはずがない。
 それに、この男物の靴が妙に引っかかる。全く見覚えのない靴には違いないが、黒と赤はTDDで組んでいた当時、一郎が好んで履いていた靴の色だ。
 以前のディビジョン・バトルでは相手の靴など気にも留めなかったが、この靴はいかにも一郎が好んで選びそうなものだと思った。
 部屋の鍵は一郎にも持たせてある。決別して以降はあの耳のピアスと共にとっくに捨てたものだと思っていたが、まだ持っていたならこの部屋に入ることはできる。
 なにせあの時から部屋の鍵を変えていないままなのだ。
(はっ、まさかな。今更こんな場所にあいつが来るはずがねぇ)
 冷静な自分が頭の中でそう言い聞かせているが、心臓はドクリドクリと高鳴るばかりだ。
 息を殺したまま素早く靴を脱ぐと、なるべく足音を小さくしてリビングの扉を開けた。
 すると、部屋の真ん中に鎮座するソファーに男が一人、うつ伏せにして横たわっていた。
 黒い髪に赤と青のジャンパー。襟元まで伸びた鬱陶しい髪の合間からチラリと覗く耳朶にはピアスの穴が残っていた。
「……一郎」
 それは、ここ数日左馬刻が探し続けていた男。
 行方知れずになったはずの山田一郎だった。
「オイ、テメェこんなとこで何してやがる」
 急いで部屋の電気をつけ、ソファーからはみ出た長い脚をトン、と軽く蹴り上げる。
 けれど一郎はまるで反応する様子がなく、ぐったりとソファーに倒れ込んだままだった。
「返事しろや、クソダボ」
 ソファーの前にしゃがみ込んでもう一度声をかけてみたが、やはり反応はない。
 仕方なく手を伸ばしてうつ伏せの身体を仰向けに返すと、ようやく現れた一郎の顔色は真っ青だった。
「っは……、っ……はッ……」
 息が荒く、額には汗が滲んでいる。額に手を触れさせてみると、驚くほどに熱い。
「……このクソガキ」
 本人に届くはずもない悪態を吐くと、すぐに分厚いジャンパーを脱がす。中に着ていた薄手の白いパーカーは汗でぐっしょりと濡れていた。
「ンでソファーで倒れてんだ。ベッドあんの知ってんだろが」
 自分と同じ体格の男、それも意識を失って力の入らない身体を運ぶのは相当に骨が折れる。それでもこの状態でソファーに放っておけるはずもなく、左馬刻は何とか一郎を抱え上げると奥のベッドルームへ運んでやった。
 自分は一体何をしているのだと何度問いかけたか知らない。
 一郎がどうなったところで知ったことではないと何十回と頭の中で自分に言い聞かせ続けた。
 けれど、それに反して左馬刻の身体はまるで言うことを聞くつもりがないらしい。既に警察から追われる身であるくせに深くフードを被っただけの簡単な変装で外に出て食料や薬を調達し、気付けば甲斐甲斐しく一郎の看病を始めていた。
 一体何があったのか知らないが、一郎はひどく衰弱しているようだった。どこかにあったはず、と部屋をひっくり返して探し出した体温計で熱を測ると、三十九度近い数値が表示されていた。
「ンだこの熱はよ、ふざけんな」
 思わずそんな言葉が出たが、詰ったところで一郎はこの有様だ。
 仕方なく濡れたタオルで身体を拭いてやると、腕や手のひらのあちこちに小さな擦り傷や切り傷、それに腹には小さな打撲痕があった。
 幸いにも大きな怪我はなかったが、心なしか頬がこけているように見えるし、唇も随分カサついている。どうやら長い間まともに栄養を摂っていなかったらしい。医者ではない左馬刻にすら一目で分かるほど、一郎の状態は散々だった。
 何か食べ物を取らせなければいけないのだが、当の一郎は未だ眠ったままだ。
「一郎、オイ、起きろ」
 ペチペチと軽く頬を叩いてみても、一郎は苦しそうに荒く呼吸を繰り返すばかりで固く閉じられた瞼はピクリとも動かなかった。
「ったく、ふざけんじゃねぇぞ」
 怒りというよりも愚痴るようにそう零すと、汗で濡れた額に張り付く黒髪をおもむろに掻き上げた。
 髪の生え際を指の腹でなぞりながら、観察するように一郎の顔をじっと眺める。TDDが解散して以降、一郎が左馬刻に見せるのはありったけの嫌悪を剥き出しにした怒りの表情ばかりだ。
 だから、こうして眉を寄せていない一郎の顔をじっくりと見るのは随分と久しぶりだった。あの頃より幾分背は伸びたが、顔立ちはあまり変わっていないように思える。
 その辺の同年代に比べれば、一郎はずっと大人びている。それは今に始まったことではなく、十七の頃からずっとそうだった。
 けれど本来、一郎はどちらかといえば実年齢よりもやや幼げな顔立ちをしていて、乱数のような年齢不詳の童顔でも、女性的な見た目をしているわけでもないが、生意気そうな大きな瞳を猫のようにキュッと細めて笑う顔はよく「可愛い」と形容されていた。
 当時は一郎を気に入って可愛がっていた左馬刻だが、そうした意味で特段「可愛い」と意識したことはなかったものの、初めて出会った時から人並み以上に整った顔立ちをしているとは思っていた。
 ただ、あの頃は一郎ばかりが左馬刻の顔立ちを「綺麗」だの「カッコいい」だのと持て囃していたから、左馬刻から一郎にそれを告げる機会はなかったけれど。
 眠っているせいで一層幼さが目立ったせいか、無意識のうちに自分がやたらと甘ったるい手つきで一郎の頬を撫でていることに気付く。ふと我に返ってぴたり、と動きを止めたが、なぜだか止める気にならずに優しく目元の黒子をなぞった。
「ん……」
 すると、今まで蹴ろうが揺すろうが全く起きる気配のなかった一郎が、寝苦しそうに眉をしかめてもぞもぞと小さく身体を捩った。
「一郎」
 頬を撫でる手はそのままに顔を寄せて静かに囁くと、一郎の瞼が薄っすらと開く。
「起きたか?」
 緑と赤の瞳はまだぼんやりと蕩けたままで、未だ一郎の意識が覚醒しきっていないのが分かる。けれど、もう一度声をかけてみても一郎は力なくこちらに目線を寄越すばかりで反応は鈍いままだ。
「ここ……?」
「シンジュクの俺の部屋。テメェで来たんだろ、覚えてねぇのか?」
 早く目を覚ますようにと今度は手の甲を頬にトントンと触れさせた。
 目の前に殺したいほど憎んでいる男、碧棺左馬刻がいるのだと理解すればすぐに飛び起きて睨みつけてくるだろうと予測していた。
 けれど、数秒じっと左馬刻を見上げた一郎は、飛び起きるでもなく睨みつけるでもなく、あろうことかふにゃりと笑って見せたのだ。
「オイ……?」
 頬に宛がった左馬刻の手に甘えるように擦り寄った一郎は、呂律の回らない舌で「さまときさん」と呟いた。
 あぁ、これは駄目だと思った。
 一郎はまだ「目覚めて」いない。熱に浮かされているのか、まだ「正気」ではない。
 きっと、あの頃よく二人で過ごした「こんな部屋」にいるのが悪いのだ。
「何でいるんっすか?」
「あ? 俺様の部屋だっつの。居て悪ぃか」
 看病を続けるには、「正気」に戻った一郎に暴れられるよりもこのまま大人しくしていてくれる方が都合がいい。少々こちらの心は乱されるが、今だけならば受け入れてやってもいい。
 そう思い直した左馬刻は一郎の「夢」に合わせて二年前の自分を装うことにしてやった。
「一郎、これ飲め」
 そう言って蓋を開けたペットボトルの水を押し付けると、大人しく受け取った一郎がゆっくりとした動作で口に運んだ。
 しかし、こくりとひと飲みした瞬間、口に含む量を間違えたのかゲホゲホと苦しそうに噎せ返ってしまった。
「あーあー、何やってんだテメェは」
「ゴホッ……っ、すん、ませ……っ」
 涙目になって咳き込む背を撫でてやり、弱々しく握られて今にも床に転がり落ちそうなペットボトルを即座に奪い取る。
「もういい、お前は寝てろ」
 ガシガシと乱暴に自身の頭を掻いた左馬刻はまだ足りぬとばかりに忌々し気に舌打ちをすると、ペットボトルの水を少量自らの口に含ませた。
 そのまま一郎の肩を抑え込むようにして固定すると、迷うことなく口付けて直接水を注ぎこむ。
「んっ、ぅッ……んむぅッ……」
 最初は驚いて抵抗しようと左馬刻の胸元に手を当てたが、少しずつ注ぎ込まれる水に気付いたらしい。今度はその手で縋りつくようにしてギュッと左馬刻のシャツを握りしめてきた。
「はっ……ぁ……さ、まときさ……」
「あァ?」
「……もっと」
 熱っぽい大きな目にそうねだられて、一瞬ドクリと心臓がはねた。
 けれど「もっと、水欲しいっす」と言い直した一郎の言葉にすぐさま引き戻され、重い溜息とともに「おうよ」と何とか返事をする。
 やはり相当喉が渇いていたのか、懸命に水を呑み込む一郎に何度も口付けては水を含み、口付けてはまた水を含む。
 ちゅくちゅく、と唇から漏れる水音に頭がおかしくなりそうだった。
「テメェ……っ、何日、飲まず食わずでいた」
「そんなん……ンっ、おぼえて……ね、……よッ……」
 水を飲ませながらでも何か会話をしていないと、頭がどうにかなって舌でも突っ込んでしまいそうだ。水を注ぎ込む瞬間に、僅かに触れあう舌先がもどかしく、柔らかなその感触がチリチリと理性の端を焼いていく。
 ドクドクとけたたましく鳴る心臓の音に気付かないふりをして、ただただ無心で水を与えた。
 ペットボトルの水が半分ほど無くなろうかという頃、どうやら満足したらしい一郎が掴んで離さなかった左馬刻のシャツからようやく手を離した。
 口移しの合間にあぶれた水がつう、と一郎の口元からいやらしく零れ落ちていくのが見えたが、それには気付かぬふりをして目を逸らす。
「飯、食えるか」
「食う。すげぇ腹減ってて、死にそっす。肉食いてぇ……」
「ア? バカか。その状態で肉なんか食ったら腹壊すわ。病人は黙って粥でも食ってろ」
「病、人?」
 まるで知らない国の言葉のように繰り返すものだから、思わず額を小突いていた。
「テメェのことだよ、テメェの」
「イテェ! 何すんだよ左馬刻さん」
 呆けたことを宣う一郎の頭をくしゃり、と撫でると、「寝てろ」とだけ言いつけて寝室を後にした。
 その後、ほぼ白湯のような薄味の粥を作って持ってきてやると、水分を摂取して多少は回復したのか上体を起き上がらせて座った一郎は美味そうにそれを数度口に運んでいた。しかし、突然食べ物が流れ込んで胃が驚いたのか、途中で腹が痛いと屈みこんでしまったから解熱剤を飲ませて寝かしつけることにした。
 結局、一郎はこの日終ぞ「正気」に戻ることはなく、ずっと左馬刻のことを昔のように「左馬刻さん」と呼び続けた。
 十七のあの頃のように屈託なく笑いかけ、無防備に甘える一郎をなぜだか無下にもできず、結局は甲斐甲斐しく世話を焼いてしまった自分に嫌悪感が募ったが、同時に胸の奥に仕舞った硬いシコリが僅かに溶けて小さくなるようなそんな不思議な感覚があった。
 明日になってもまだ熱が引かないようなら寂雷に診せよう。
 この場所を他人に知られるのは本意ではないが、少なくとも寂雷は「味方」であるはずだ。何より一郎はまだ回復しきったわけではなく、ろくに食事も摂れない有様だ。背に腹は代えられない。
*
「……ってくれ、じろ……、さぶ……、ろ……」
 その日の夜、リビングのソファーで眠っていた左馬刻の耳にふとそんな声が届いた。
 呻き声のような弱々しいそれは間違いなく一郎のものだ。寝室に続くドアを開けたままにしていたから、か細いその声がここまで届いたのだろう。
 寝室の様子を覗いてみると、一郎は眠ったままだ。けれど額にべっとりと汗を張り付けて、苦しそうに眉をゆがめていた。
「じ、ろ……、さ……ろ……ッ」
 指先が真っ白になるほど強く毛布を握りしめて、もう片方の手は頼りなげに空を彷徨っている。
 左馬刻はその手を強く握ってやると、悪夢に魘される一郎の肩を揺すった。
「オイ、一郎。起きろ!」
「ッ……うぅッ……待、て……待って、くれ……っ」
「くだらねぇ夢見てんじゃねぇぞ、クソボケが。起きろ、一郎!」
 一等強く揺さぶると、ようやく一郎が目を覚ます。
「あ……左馬刻、さん……」
「ハッ、また夢ン中かよ」
 まだ一郎が自分を「左馬刻さん」と呼んだことに安堵半分、忌々しさがもう半分。そのどうしようもない気持ちをかき消すように舌打ちすると、汗だくの額を拭ってやった。
「さま、ときさん……」
 譫言のように名前を呼ばれて「あぁ?」と返してやると、ひどく怯えた目をした一郎が縋るように左馬刻を見上げていた。
「俺、『また』独りだ」
「……」
「独りになっちまった」
「何言って……?」
「二郎も三郎も行っちまった。あいつらのこと、守ってやれなかった。兄貴なのに、『また』辛い思いさせちまった」
 大きく見開いたオッドアイから涙が溢れ出る。
「『また』だ……、俺は『また』独りで……ッ、俺、どうしたら……」
 一郎の体が震え、だんだんと呼吸が荒くなっていく。
 半ば過呼吸のような状態に慌てて「一郎」と何度も呼び掛けながら背を摩ったが、落ち着く気配はまるでない。他の全てを拒絶するようにギュッと身体を硬くして、ただただ「何か」に怯えている。
(一体こいつに何があったっつーんだよ!?)
 一郎の今の状況はまるで理解できていないが、ただ「また」と繰り返すその言葉には少しだけ思い当たる節がある。
 左馬刻とチームを組む以前、ある行き違いから一郎と弟二人との関係は最低最悪だった。弟達は一郎を嫌い、一郎自身は誤解を解く術を知らずただただ無力にも溝を深くするだけの日々。
 今となっては過去のものだが、それでもあの頃の不和は一郎の中で深い傷として残り続けている。
 傍から見ればそれこそ鬱陶しいほどに一郎を敬愛するあの弟二人が再び兄に背を向けるとは考えにくいが、少なくとも一郎は辛い思いをさせたのだと泣いてこんなにも弱っている。
 そして、現にその弟二人は行方知れずだ。
「一郎、落ち着け。ちゃんと息しろ」
「っ……くッ……ぁ……ッ」
「独りが怖ぇのか?」
「こわ、い……! 怖ぇよッ!」
 叫びとも取れるその悲痛な声を呑み込むように、左馬刻は一郎の唇に噛みついた。
 今度は水を与えるためではなく、ただ口付けのためだけに。
「んッ、ぁ……ふ、ぁッ……」
 口腔に舌をねじ込んで、一郎のそれを絡め取る。歯茎をなぞるたび、腰をくねらせているのを見てずっとカラカラに乾いていた心が不思議なほどに満たされていくような気がした。
 じゅぷ、と容赦ない水音が漏れるほど強く舌を吸い、唇を食んで、ただただ貪るようにキスをした。
「うぅッ、んっ……!」
 一郎の身体からくったりと力が抜けたのを確認すると、最後に上唇をちゅう、と吸い上げ解放してやった。
「はっ……ぁ……ッ……」
 すっかり酸欠になってしまったのか、顔を真っ赤に染め上げて虚ろな目で見上げる一郎の口元から、どちらものとも分からぬ唾液が筋になって流れ落ちる。
 口移しで水を飲ませてやったあの時、胸の奥で燻っていた黒い欲のようなものが、今ようやく消えてなくなっていくようだった。
「テメェは独りかよ? 今、俺様が居てやってンだろうが」
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左馬一
初公開日: 2020年04月10日
最終更新日: 2020年04月12日
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コメント
左馬刻と一郎が和解してくっつくまでの話。
最新のドラマCDネタバレ、コミックはTDD単行本のみ、捏造多々あり。
書ききりたい。
【イヌココ】ココ君はボスとデキてるらしい。
二次創作。ココが好きな男に頼まれて黒龍入りしたらしいという噂が流れ、間違った方向に邪推したモブが相手…
うめこ
zat夢文庫版書き下ろし原稿
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砂凪