ぴちょんと水滴が落ちる音がした。しかし簓には音の元を確かめるような気力はない。目を瞑り浴槽のふちに頭を預け、ぬるい湯に全身を浸しているだけだ。静寂に混じって水滴が時折垂れ落ちるのを、ただじっと聞いていた。
仕事を終えて家に帰り着いても、普段ここまで気が抜けてしまうことは中々ない。眠る時間がほとんど取れないような時期でも、ベッドで目を瞑るまでは芸人白膠木簓のままでいられたというのに。ましてや家に男を上げて待たせているときに、疲労感に捕われ動けなくなってしまうなんて。部屋で簓を待っている零が、おかしなことをしていなければいいが。
仕事は楽しい。客が笑ってくれれば、疲れなんてすぐに忘れてしまう。盧笙と再び一緒に過ごせるだけで嬉しくてたまらないのに、共にテッペンを目指すこともできる。オモロくて怪しい零との時間も簓を退屈から遠ざけてくれた。一線を超えるどころか、家にまで招き入れてしまうことになることは予想していなかったが。簓の日常は十分すぎるほど、満ち足りている筈だ。
湯が少しずつ冷めていく。早く体を洗って浴室を出て、そうすれば零と、他に何もわからなくなるくらい気持ちよくなってしまえる。
物音がして簓は目蓋を開いた。バタンと乱暴に浴室のドアが開けられたのと同時に、簓は笑顔を貼り付ける。弱っているところを見られまいとするのは、身を守るために染み付いた癖か。それとも相手が決して心の全てを預けてはいけない男だからだろうか。袖と裾を捲り現れた零は、簓の顔を見てニヤリと笑った。
「お疲れか?」
「いんや、全然そんなことあらへんよ」
らしくなく声が掠れたことに、男も気づいただろう。服が濡れることにも構わず、零が浴槽の傍にしゃがみ込む。
「頭洗ってやるよ」
「そんなんせんでええよ。すまんけど、もうちょい待っとって」
ひら、と振った指の先からしずくが男の方へと飛んでいった。それを避けもせずに、零は簓の頭に両手を伸ばす。柔らかな髪を掻き分けるように指の腹を頭皮に這わせると、程よい力で揉み込む。男を拒むつもりで開かれた簓の唇から、ふ、と吐息が漏れた。
「ん……気持ちええ」
「素直なのはいいことだぜ。このまま頭洗ってやるから、こっちに頭向けろ」
男の方へ視線を向け、簓は口を開く。
「でも、湯船に泡入ってまう」
「今そんなことは気にしなくてもいいだろォ」
零が促すように軽くポンポンと浴槽のへりを叩く。それに誘われるように、今度こそ簓は素直に男の手元へと頭を乗せた。シャワーのコックが捻られ湯が流れ出すのを、目を瞑って聞く。何度かシャワーヘッドが振られるような音がして、頭に温かい湯が掛けられる。
男の大きな手が、湯を満遍なく行き渡らせるように簓の髪を梳いた。心地よさと同時に、男に甘えた後悔が簓を襲う。零に身を委ねてしまうたびに、簓はどんどん己が弱くなっていくような気がした。
湯が止められ、泡立てられたシャンプーが頭に乗せられる。ワシャワシャと地肌を洗う手つきは意外に丁寧で、手慣れているようにも思えた。不意に懐かしさが簓の胸に込み上げる。
「こういうん、零、お姉ちゃん方にもよおやっとるんやな。ホンマ女泣かせの悪い男や」
声が不自然に震えたが、気付かない振りをしてくれるほど零は優しい男ではなかった。
「お前だけだと言ったらどうする?」
「こんな、零は俺のオカンやあらへんのやから」
冗談めかして簓は言うが、どこか自嘲めいて響いてしまう。記憶をいくら掘り返しても、簓の母が優しく髪を洗ってくれた思い出は見つからなかった。けれど懐かしさとともに胸の奥がきゅうと痛んで、男の慰撫するような手つきを優しさと取り違えてしまう。
「お前の親代わりをするつもりはねえよ」
「当たり前やん。俺、ええ年した大人やで。知っとるやろ?」
男の泡にまみれた手が簓の頬に添えられ、顎を持ち上げられる。唇が柔らかなもので塞がれて、舌が絡め取られた。男の舌に上顎の裏を擽られ、くちゅり、と唾液が混ざり合う。舌を吸われて、簓は鼻に抜けるような声を小さく漏らした。
「いい大人の簓とは、こんないけないキスもできるもんなア?」
「いけないキスって、オッサンやん」
乱れた呼吸と一緒に簓がクスクスと笑みをこぼすと、零もふ、と小さく笑った。
「痒いところはねえか?」
「ん、ないよ」
「じゃあ、そろそろ流すぜ」
男が優しい手つきで泡を洗い流していく。この時間がもうすぐ終わってしまうのかと思うと、どこか惜しいような気がした。
零は軽く水気を切った髪にトリートメントを馴染ませると、剥き出しになった簓の額にキスを落とした。
「なに? 紳士ぶっても零にはオカンもオトンも似合わへんよ?」
零くらいの年ならば、子供がいたっておかしくはない。簓と子供の年があまり変わらないことだってあり得る。けれど簓には零を親のように思うことができないし、人の親をしている零などもっと想像ができなかった。
「そうだろうなァ」
眉を歪めて笑った零の顔を、簓は頭を起こして振り返って見た。男にも苦々しく思う出来事があるのだろうか。
「特別にパパって呼んだろか?」
名案とでも言わんばかりの簓の顔に、シャワーが勢いよく掛けらた。突然のことにわぶっ、と簓が上げた声に、零の豪快な笑い声が重なる。
「ハッハッハ、気持ちだけ貰っといてやるよ」
くしゃりと髪を掻き混ぜる手つきは、相変わらず優しい。零が髪を洗い流すのを大人しく待っていた簓は、シャワーが止められたと同時に立ち上がった。ザプンと浴槽の中で湯が躍る。零が振り返る。
「ふぅ、熱いわ。体も洗ってくれるんやろ、な?」
簓が零の首に腕を絡めて口付ける。男の服が濡れることも気にせず体を密着させる。服が乾くまで帰れなくなってしまえばいい。
零が簓の腰に手を回し、力を込める。不似合いなごっこ遊びに耽るには、二人はいささか歪すぎた。