ある日目が覚めたら、スマホのロックナンバーを忘れていた。
 とは言え忘れていたのは五分程度である。しばしうんうんと唸っていれば、霞掛かる脳の奥から薄ぼんやりと浮かび上がってきた。これ幸いと打ち込み、難なくスマホはいつものホーム画面を表示した。尚この時アホな俺は思い出した数字列を思いっ切り声に出したものだから、居合わせた同居人にげらげら笑われながら俺のセキュリティーは張りぼてと化した。しっかりと同居人のスマホに打ち込まれたロックナンバーを変えるか否か。やや悩んで結局そのままにすることにした。同居人は俺のプライバシーを悪用する奴ではなかったし、長らく慣れ親しんでいたはずのナンバーを忘れていた手前、変えてしまうのは些か憚られたからである。
 幸い、その日はそれ以上ロックナンバーを忘れるなんてことはなかった。
 ある日出かけようとしたら鍵がなかった。
 違う。鍵の置き場所を俺はすっかり忘れてしまっていた。家中をひっくり返して探し回る俺を見かねたのか、同居人があっさりと俺の鍵を見つけ出してくれた。礼を言えば同居人は少々眉根を寄せながら、
 いっつも同じ場所に置いているのに、
 と、心底訝しそうに言った。
 そう言われれば、俺はいつも決まって下駄箱の上のケースに放り込んでいた。同居人に言われるまで気づかなかったのに、その事実は気づいた瞬間に俺の中にすとんと落ちていった。そうであった。そんな実感が、気味悪かった。言われるまで、当たり前のことに気づかなかった俺自身も。
 俺の頭がどうやらおかしいと、一週間程で俺は悟った。
 スマホのロックナンバー、鍵やその他あらゆる物の置き場所、料理のレシピ。これまで思い出す、なんて意識をせずとも当たり前のように引き出せていた記憶が、ことごとく抜け落ちていた。それでいて、同居人などが「そうであったではないか」と、これまでに言及してくれれば、ああそう言えばそうであったと実感が脳裏に根を張る。そして、しばらくすればそれは枯れ果てまた記憶は抜け落ちる。
 俺は、次第にまともな社会人をやれなくなっていった。
今日はここまで
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初公開日: 2020年04月10日
最終更新日: 2020年04月10日
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