灰原が負傷したらしい。授業が終わり寮へ帰る途中、昇降口で鉢合わせた夏油からもたらされた報せに、刹那、身体が竦むような気持ちがした。動揺を隠そうと吐き出した、溜息混じりの「そうですか」が変に気管に貼りつく。
 七海の内心に気づいているのかいないのか、夏油は少しだけ驚いたように切れ長の目を見開いた。
「案外心配していないね」
「今日の任務は3級呪霊の調査と討伐です。単独とも聞いていますが、彼の実力なら手こずるような話でもない」
「なるほど、灰原を信頼してるわけだ。うーん、じゃあ質問を変えようか。どうして私が知っていると思う?」
 相手の意図するところが読めず、眉間に皺が寄る。状況にそぐわない、夏油の教師然とした態度も気に食わなかった。灰原は彼を強く尊敬して慕っているが、七海に言わせれば五条に負けず劣らず、この上級生も十分に食えない相手だった。
 七海の訝しげな視線を受けて、夏油は苦笑しながら肩を竦めると、すなおに答えを教えてくれた。
「私達の授業の最中に、灰原の治療のために硝子が呼ばれていったんだ」
「は……?」
 聞いた瞬間こそ驚いたものの、どうせ大した怪我ではないのだろうとたかを括っていた。だが一般的な医療行為では足らず、反転術式を使わなければならない程の治療というのであれば話が変わってくる。何か想定外の問題が発生したか、それとも。
「七海」
 名を呼ばれて我に返る。顔を上げると、親しくしている後輩の危機にもかかわらず、妙に穏やかな笑みの夏油と視線が交差する。
「保健室にいるらしいよ。灰原には、後で私も見舞いに行くからと伝えておいて」
「”も”?」
「あれ。行くつもりなかった?」
 悪戯っぽい目が、一瞬だけ薄青の宝石みたいに輝いてみえたのは、多分気のせいだろう。それにしたって、七海は上級生のこういうところが、揃いも揃って、苦手だ。
 寮の自室へ荷物を置いて、校舎に引き返す。詳細な状況を与えられていないのは精神的負担が大きい。考えれば考えただけ嫌な想像ばかりが頭を過ぎる。
 高専に入学してからというもの、ほとんど毎日任務や訓練に追われているうち、すっかり痛みが日常の一部に取り込まれてしまった。多少の傷ならすぐに治せてしまう。そんな環境にあって身体を傷つけることに鈍くなっていくのはある意味当然のなりゆきで、自分の血で汚れた腕を見たって、もう入学したて程には動揺しない。呪いを祓うごと、人間らしさから乖離していく実感がある。
 ただ、同じ痛みを灰原が受けたとなると話は別だ。途端に冷静でいられなくなる。心に広がるのは悲しさよりむしろ、自分のものに傷をつけられた憤懣だ。彼のことを所有物として扱うつもりはないけれど、互いに互いが、自分から離れていこうとする人間性を託した――心の一部を共有し合う相手だから、自分を害されるよりもよっぽど、痛い。
 保健室のある棟へ繋がる渡り廊下を歩きながら、外の景色に目をやる。日が暮れかけた空は地平線を残して紺色のグラデーションに覆われている。その中にひとつ星が輝いているのを仰ぎ見て、七海は急かされるように歩調を早めた。
「喉の火傷だよ。祓った呪霊がちょっと頭の回る奴でね、火に巻かれたらしい。炎は避けたんだけど、煙を吸っちゃったって。今は寝てる」
 保健室にはまだ家入が残っていた。入室した七海の姿を見とめると近づいてきて、部屋の奥を指差しながら容態を知らせてくれた。
「大したことないけど、ちょっとのあいだ喋りにくいだろうから、よろしく」
「……よろしくと言われても」
「いつも自分の分まで灰原に喋らせてるんだから、たまには見習ってがんばればー?」
 そう言って七海の肩を叩いた家入は、気怠そうに手を振って保健室を出て行った。自分達以外誰もいない室内に沈黙が落ちる。足音を立てないよう、奥にあるベッドスペースへ歩を進める。くたびれたカーテンを引くと、家入の言うとおりに灰原が眠っていた。
 ベッドの縁に腰掛けて、灰原の様子を眺める。身体には一見して傷らしい傷はなく、まずは安心した。呼吸音に耳を澄ませれば、わずかだが詰まるような音が聞こえた。柔らかな頬を指先で撫でていると、閉じていた瞼がうっすら開く。黒目がちの瞳が七海の姿を捉えた。ななみ。きっといつものように呼ぼうと開かれた口を、掌で覆ってやる。
「喋らないで。起こしてすみません」
 ぱちぱち瞬きのたびに灰原の意識が覚醒していくのがわかった。まどろみの中でも七海の言葉は聞こえていたようで、小さな頷きが返される。
 起こしてしまった後で、七海はふと、どうしたものかと考える。声が出るならことの次第を聞きたかったがこの状況では叶わないし、何か喋ろうにも話題がない。ただ、何も無いからとこの場を離れるのも嫌だった。
「もう少しだけ、ここにいていいですか。君は寝ているままでいいですから」
 灰原が首肯して起き上がろうとするのを制してベッドへ押し戻す。やおら布団から手が伸びてきたのでそれを取ってやると、緩く握り締められた。物足りなくて、七海の方から指を絡める繋ぎ方へ変えてやる。視線は交わし合ったまま逸らされない。
「……目を逸らしたら負けだと思っているでしょう」
 指摘した瞬間、破顔する。勝手に勝負にされても困る。額を指で弾いてやると、わざとらしく痛がるポーズを取って見せた。声がなくても大変わかりやすくて結構。
 静かな時間が流れる。少しだけ、本当に少しだけ間が持たず気まずくなったらどうしようなどと思っていたが、全くの杞憂だった。互いに掌一つで繋がったまま、いつまでもいられる気がした。心が凪いで、息が楽に吸える。日常とさほど変化がない。
 でも、そうだ。あらためて思い返せば、この天真爛漫な恋人は、案外口数が多いわけではないのだ。コミュニケーション能力が高いのは確かだが、能動的かと言われれば恐らく違う。彼の美徳は声や発言よりも行動だ。何気ない呟きや様子の変化に気づいて反応を返してくれたり、このどうしようもない世界に在っても当たり前という顔をして七海に惜しみなく愛情を注いでくれる、やさしい人。
 彼の名前を呼ぶ。持ち上がった眉が、なに、と笑った気がした。
「大事がなくて、よかった」
 言葉にするのは、やはり自分には不得手だ。けれど行動なら、せめて同じだけを返せるだろうか。
 布団を少しだけ捲って、隠れていた唇に口づけを落とす。それから少し下がって喉仏にも同じようにしてやると、くすぐったいのか驚いたのか、灰原の身体がぶるりと震えた。顔が赤く染まって、触れたら熱そうだ。そう思ったときにはもう、再び唇を重ねていた。もっと深いものを与えたかったけれど今はさすがに躊躇われて、触れるだけを何度も繰り返す。
 はじめは頬だけ赤かったのが、だんだんと耳まで移り、目が涙で潤み、視線が泳ぎまくり、そのうちとうとう灰原は、耐えきれないとばかりに布団の中に潜り込んでしまった。それでも手だけは離れないのが、彼の愛おしいところだと思う。
「……七海、今日どうしたの」
「君に倣って、行動に移してみようかなと」
 常より掠れた小さな声が、布越しに漏れる。
「……いきなりはやめて欲しい。心臓もたない」
 それを、私も、君に対していつも思っているのだけれど。これも灰原をまねて、返事の代わりに名前を呼んだ。顔を出したら、また同じことをしてやるつもりで。
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