早朝四時、いまだ明かりも乏しい静かな本丸の廊下をゆっくりと歩く。この時間帯の空気は好きだ。まだ夜の気配が強いなか、どこか朝を思わせる清涼な空気が混じっていて夜明けを思わせる。
↑保留
「随分とでかい欠伸だな」
すぐ間近で長谷部くんの素っ気ない声が聞こえ、僕はつい驚きその場でちいさく飛び跳ねた。時刻はまだ朝の四時をまわったばかり、誰もいない厨で朝餉の下ごしらえをしていた僕は、それはもう油断していた。大口を開けてだらしのない声を上げながら欠伸を漏らしてしまうほどに。
「は、長谷部くん……早いね」
「ああ」
言って彼は戸棚を開けると、コップを取り出して洗い場の蛇口を捻った。水道水をこだわりなく注ぎ、喉を鳴らして飲み干す。彼のそういう姿を見かけるたび、浄水器の導入を主に進言するべきか真剣に悩んでしまうのだった。
「寝不足か」
長谷部くんがそう言って僕の顔を覗きこんでくる。
「ひどい隈だな」
至近距離で彼の藤色の瞳を見返すと、なんだか吸いこまれそうな気分になってしまう。光を弾いてきらきらと輝く彼の双眸はなんというか上等な飴玉のようで美味しそう……。こんなことを考えてしまうのも、寝不足による思考力低下の弊害なのかもしれなかった。
「そうなんだ。最近どうにも寝つきが悪くて。つい色んなことを考えすぎちゃうのかな」
布団の中で何度寝返りを打ってもいっこうに眠気は訪れず、段々と眠れないことに焦りを感じてしまう。部屋を出て夜風に当たってみたり、意味もなく周囲をうろついてみたり、そんなことをしていても疲れるばかりで不眠には効果がなかった。ようやく目蓋が重くなるころには、もう陽が昇っている。
「不眠症とは……まるで人間のようだな」
長谷部くんが完全に他人事の調子でそう言った。君はこんな時間に起き出して、夜はちゃんと眠れているのかい、そう訊ねてみると当然の顔して頷いてみせる。
「俺なら問題ない。毎日快眠、健康そのものだ」
「それは良かった……」
心もち胸を張りながら言う長谷部くんは確かに顔色もよく、元気そうな様子が窺えた。
「主に仕える身としては当然のことだな。この程度の自己管理、容易いものだ」
そうだねえ、と答えながら溜息を吐くと、長谷部くんは僕の顔をまじまじと見ながら言う。
「眠れないなら協力してやろうか」
「協力?」
「ああ。おまえのその調子じゃ思わぬ失態を招きかねない。睡眠不足を理由に戦場で倒れられても困るからな」
「その申し出はありがたいんだけど……」
一体何をしてくれるつもりなのかな、と問いかけると、長谷部くんはやたら自信ありげな顔でニッと笑った。
「さあ、どこからでも好きにかかってくるといい」
ところは変わって道場、訓練用の木刀を構えながら長谷部くんが高らかに言う。
厨当番は急遽堀川くんと交代になり、もともと手合わせをする予定だった明石くんと鶯丸さんに代わって道場を借り切ることになった。長谷部くんがわざわざ主にお願いしてくれたそうで、主も快く許可してくれたとのこと。明石くんと鶯丸さんは暇ができたことを喜んでいる様子で、いわゆるWin-Winの状態ではある。
気合い充分で武装までしてきた長谷部くんに合わせて僕も戦装束に着替え、普段の出陣と変わらない心持ちで彼と対峙している。それはいいとして。
道場で二振りきりとなると、なんだか妙な気分だった。ギャラリーがいなければ長谷部くんとの手合わせであっても物足りないとか燃えないとか、そんなことは勿論ありえない。そうではなく逆に、違う気持ちが燃えそうになってしまうというか……。
「どうした?打ってこないならこちらからいくぞ」
言うが早いか、長谷部くんは強く踏みこむと上段から鋭く打ちこんできた。
僕がそれを受けると、素早く跳び退って距離を取る。
睨み合いの読み合いになる間もなく、すぐさま二撃三撃。
手が痺れるほどの激しい連撃を素知らぬ顔で繰り出し、さっと間合いを取る。
深く打ちこめば不利になることを知っている敏捷な動き。
彼が激しく動くたびにカソックの裾とストラが舞いはためいた。
「防戦一方だな」
クッ、と唇の端を持ち上げて長谷部くんが挑発的に笑う。
「寝不足は刀筋も鈍くするようだ。それとも……おまえの実力はこんなものか?」
「安い挑発に乗る気はないよ」
純粋に手合わせを楽しんでいる様子の彼に触発されて、僕も刀を握る手に力がこもった。
再び上段からの一撃を最小限の動きでかわし、がら空きの胴を目がけて繰り出す。
入った、と思ったのも束の間で、手応えはなく木刀が空を掻いた。
目の前にいたはずの長谷部くんの姿が消えている。
しまった、と思うが早いか足を払われてバランスを崩した。
尻餅をついた僕の眼前に木刀の先端が突きつけられる。
「まずは一本、だな」
不敵な笑みを浮かべる彼に、オーケー、と呟いて目を細めた。
長谷部くんの得意とする戦法は、高い機動を駆使した敏捷な攻撃と、その全身を使った奇襲攻撃が主だ。予想外のところから飛んでくる脚や拳にも対応しつつ刀を受けなければいけない。ただ、彼には致命的な弱点もある。手数の多さから疲れやすいところ、上段からの攻撃特化の一撃は隙が多いところ、鍔迫り合いなどの力比べになれば身軽さが災いして競り負けるところだ。僕の勝算はそこにあった。
単純に言えば彼が疲れきるまで攻撃を受け流し、生じた隙を見逃さないようにして打ちこめばいいのだけど、まあ簡単な話じゃない。
疲れ目に彼の金のストラは眩しく、かなり集中力を奪う。なるほど、派手な衣装はそういう効果が……。僕も少しは貞ちゃんを見習ってみたほうがいいのかもしれない、そんなことを思いながら何度か道場の床に沈んだ。
とはいえ負けっぱなしというわけではなく、ほとんどまぐれのような調子ではあるものの、何本かは取った。僕らのほかに審判がいるわけでもないので、最後のほうはひどく曖昧な判定になってしまったけれど。
疲れた、と汗だくで大の字になり道場の天井を見上げる。
「今晩はよく眠れそうか」
「そうだね、ぐっすり眠れるかも」
汗を流して風呂に浸かり、夕餉は腹八分目にして、読書なんてしながらゆっくりしつつ寝床につけば翌朝はすっきりしているはずだ。
「ありがとう、長谷部くん」
そう言って顔を横向けると、思ったよりもすぐ近くに彼の顔があった。
「ああ。おまえの力になれたのなら良かった」
彼はそう言って目元を和ませて笑う。
僕はそれを見て思わず「好きだ」と口走りそうになり、どうにかその言葉を生唾とともに呑みこんだ。
まあ、まあまあまあ、ともかく、これで不眠症は解決だ。今晩くらいは夢も見ずに眠りたい。
湯浴みと食事を終えて消灯時間を迎え、僕はさっさと布団に潜りこんだ。
天日干ししたふかふかの布団が疲れた体を包みこんでくれる。心地良い眠気が訪れ、僕はそのままぐっすり朝まで――
眠れなかった。
はっと目が覚めると外はまだ暗い。もうすっかり目が冴えてしまったのに、朝まではまだ数時間ある。
「嘘でしょ……」←でしょなのかだろうなのか迷うところ
やっぱり、眠れない。
この燭へしはつきあっているのか否か
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眠れない話
初公開日: 2020年04月05日
最終更新日: 2020年04月07日
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不眠症のみっちゃんの話。燭へ…し…?/ゆるっと適当に肩の力を抜いて書く