経済の発展というのは本当に目覚ましいもので、よくある株式市場のニュースや大規模農相の合併統合、為替の変動や石油の輸出といったものに限らず、例えば近所に新しいパン屋ができたとかそういったものも含まれるのだから驚きだった。もちろん、俺は経済なんぞにさほど興味はなかったし、その点実に不勉強でもあったから、ドルが安くなろうが高くなろうが知ったこっちゃなかった。しいて言いうなら、映画やドラマ業界の末永く安定した発展を願っている、といったところか。
 それでも、さっきも言ったようにパン屋が開店したなんてレベルであれば俺だって無碍に足蹴にはしない。リックを現場に送り届け、さて彼の家でこまごまとした修繕を行おうかと踵を返したところで、通り沿いに賑わうスポットが目に入れば立ち寄ってみるくらいのことはする。
 赤い庇が印象的なその店は、ごちゃごちゃと汚れたこの街においてはいささかつつましすぎるくらいだった。白い壁は漆喰を模しているのだろうざらざらとした質感で、厳しい日差しを受けてまだらに影ができている。路駐した車や往来からひっきりなしに人が出入りして、さながらテーマパークのようだった。ふむ、と興味を惹かれ、俺も車を路肩に寄せる。降り立てば、アスファルトが熱せられる特有のにおいが立ち込める。
 鼻を鳴らしながら商品を検分する。フランスパン、食パン、クロワッサンにチョココロネ……よくある種類のパンが「さっき釜から出たばかりです」という顔をして行儀よく棚に並んでいる。入ってしまった以上、一つくらい買っていくのが礼儀というものかもしれないと思い、注意深く観察する。と、そこで一つ目を引いたものがある。
 真っ白で渦を巻いた形のそのパンは、表面に粉砂糖がまぶされたかわいらしい見た目をしていた。ぶら下がっているプレートには『焼きたて! もちもち白パン(カスタードクリーム入り))』と書かれている。俺はそれを見て、一時思考が停止するのを実感した。気が付いた時には、そのもちもち白パンなるものを二つ購入し、シエロ通りへとステアリングを回していた。
 
 リックの撮影は一日がかりになる日もあれば、昼過ぎには終わってしまうこともあった。今日は後者のパターンで、午後二時になろうかというころにはすでにリックを乗せて帰途についていた。うまくいったのか、鼻歌交じりのまろやかな頬は窓の外を眺め続けている。縁取るように流れるブラウンの髪が、透けて金色に光った。姿を盗み見ているうちに黄色いクーペはいつも通り豪邸に到着し、家主に先導されるまま、俺は飼い犬よろしくハウスへと戻る。
 珍しく紅茶を入れ始めたリックの前に、紙袋を差し出す。きょとんとした顔で見返すのに、無言でうなずいて袋を渡すと、俺はジャケットを脱いでカウチに放り投げた。お前何飲む? との呼びかけにジンジャーエールと答えれば、グラスを取り出す涼やかな音が聞こえる。
「なんだよこれ」
「パンだ。買ってみた」
「パン? 珍しいな、お前が買い食いなんて」
「食ってないから買い食いじゃねえよ。二個あるからあんたも食べろ。クリーム入りだそうだ、紅茶によく合う」
「おっ、マジか」
 歓声を上げたリックは、ティーカップと背の高いグラスを両手に俺の前に座る。取って返し、紙袋をいそいそと手にして、中を覗く。おお、というあどけない歓声が漏れるのに笑いをこらえきれない。
「うまそうだな! 焼きたてだった?」
「つい三時間ほど前はな」
「ありがとな。じゃあさっそく……」
 大きく口を開けてかぶりつく。うめーなコレ! とはしゃぐリックの口元に粉糖が付いているのがおかしい。妙なところで子供じみた男だった。でなければ、あの伏魔殿でやっていくことはできないのかもしれないが、それをつまびらかにしたところでなんの得もない。リックがそうであるというなら、俺は無条件に受け入れるだけだ。
 はむはむとほおばる姿を、見つめすぎないように気を付けながら見つめる。白いパンに、白くてまろやかな頬。……共食いみたいだな、とは決して口に出せなかった。
 その晩、俺はこんな夢を見た。
 片手に紙袋が一つある。温かいのを鑑みるに、なにか出来立ての食品が入っているように思われた。中身を確認すれば、案の定白くて丸いパンがひとつ入っている。取り出せば、ふわふわのパンはふるりと震えるように動いた。驚いて見つめているうちに、丸かったはずのパンはどんどんと人の形になっていくではないか。顔のように突き出たあたりをさらに眺めていると、たちまちのうちにそれは見慣れた表情を縁取る。すっと通った鼻梁、切れ長の眼差し、寄せられた眉間の皺、薄い唇……。いやいや、と俺は首を振った。これはパンのはずである。正真正銘、紙袋から取り出したばかりの白パン以外の何物でもない。
 そう決めてかかり、俺はベルトが締められた腹、ちょうどへそのあたりに親指を突き立て、ぐっと力を込めた。柔らかな腹は、何の抵抗もなく真っ二つに裂ける。あっ、と小さな声を上げて、パンがちぎれる。たちまちのうちに黄色いクリームが零れだし、洪水となって足元を浸した。甘い香りに吐き気がしそうだ。両手に握ったパンは、物も言わずぐったりとしている。おい、まさか俺はしくじっちまったんじゃねえだろうな? どす黒い不安が脳髄を塗りつぶした。リック・ダルトンの形をしたパンを握りしめたまま、俺はなすすべもなく黄色い波に飲み込まれる──。
 あれ以来、俺はあのパン屋に行くのをやめた。前を通りかかるたびに黄色いクリームが瞼の裏で明滅し、不愉快な気持ちになったからだ。ただ、リックはあの白パンがどうにも気に入ったようで、何回か「買ってきてくれないか」と頼まれた。しかし、いかなボスのお願いとはいえ、やはり気が乗らず、はぐらかしているうちにそのパン屋は潰れてしまった。経済の発展、資本主義の功罪が、ここにおいてはありがたくて涙が出そうだった。
 共食いだなんて生ぬるいほうだ。まさかこの俺がリックを食っちまうことになるだなんて! その想像はあまりに自罰的で、だからこそ本心なのかもしれなかった。
おわり
 
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パン
初公開日: 2020年04月04日
最終更新日: 2020年04月04日
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