玄関を開けると、予想した通り彼が立っていた。
「た、ただいま」
「………おかえり」
ただならぬ雰囲気を纏った彼は、家の中だというのにマスクを鼻まできっちり上げて、よくないものを見るように私を見下ろしている。私は苦笑いを浮かべながら、用意されていた廊下から洗面までを歩く専用のスリッパに足を差し入れ、家に上がった。
「まず手洗い。それから風呂入って。沸いてるから」
マスクの中で発せられた言葉は強制力の強いものだった。というか、最早儀式的ともいえるそれらを行わないと、ここから先に入ってはいけないーー彼と暮らし始めて私にもそういう認識が生まれつつあった。
玄関でコートを脱ぎ、洗面所にいく。彼は無言で後ろについてきた。
洗面台の前に立ち手を洗いはじめると、鏡には背後から洗浄の様子を眺める彼の姿が写った。鏡越しに鋭い眼光を飛ばしてくる彼は、中学のときの手洗いにうるさかった保健の先生より怖い。ちらちらと彼を伺い見ると、彼は訝しげに目を細め、
「…正しい手洗いは30秒かかるから」
と、もうそろそろ水で流してもいいかなと考えていた私を見透かしたように言った。
「もう経ったでしょ?」
「何言ってんの、まだ15秒しか経ってない」
どうせこのあとすぐお風呂なんだからいいじゃん、と言いかかけたが、「じゃあ#name2#は風呂に入る前に何も触らないわけ? 雑菌まみれの手で顔触って化粧落とすつもり?」と畳みかけられるのが落ちなので大人しく残りの15秒を口でカウントして水洗いした。彼はそれを見届けてから「歯もすぐ磨いて。バスタオルはラックに入ってるから。お風呂あがったらリビング来て」と言い残してふらりと洗面所を出て行った。
言われた通りに歯を磨いて口内をすっきりさせ、脱衣所で居酒屋の臭いの染みついた服を脱いでいる間ずっと、今日は彼の機嫌を取るのに結構苦労しそうだな、とぼんやり考えていた。
お風呂から上がり、先程とは別のスリッパ(脱衣所からリビング前用)を履きリビングに向かう。
リビングは『清潔区域』という認識だった。塵なんてひとつも落ちていないのに、最新のロボット掃除機がフローリングの上を規則的な動きで滑っている。空気清浄機と加湿器はいつも通りよくよく働いてくれていて、居酒屋の油っぽい空気を吸ってきた私は、思わずほっと息を突いた。
彼はソファに身を預けてスマホ(もちろん除菌済み)を眺めていたが、私が入ってくるのを見て腰を上げた。マスクを外した顔は、案外怒っていなかった。
カーペットに上がってすらいないというのに彼は私の目の前までやってきて、唇を尖らせながら両腕を軽く広げて見せた。
「#name2#、」
名前を呼ばれるのはつまり催促だった。
「え~、ちょっとまって」
髪はまだタオルドライの段階だった。キューティクルを労わりたいというのに、彼は不機嫌そうに顔を歪め、
「なに、出来ない理由でもあるの。飲み会でなにかあったんだな。やっぱり一人で行かせるんじゃなかった」
などと恨み言のようにぶつぶつと呟いている。
「もう、すねないでよ」
「…すねてないし」
私は大人しく、彼の背中に腕を回した。たくましい胸元に頬を預けると、彼も同様に私を柔らかく抱きしめた。
「ん」
頭上から満足気な声が聞こえて、なんだかそれが可愛らしく思えて、私はバレないようにくすりと笑う。
「聖臣くんって、」
けっこう甘えん坊だよね。
言おうとして、やっぱりやめた。
「……なに」
「ううん。なんでもない。ね、もう確認済んだでしょ? 髪乾かしてきていい?」
「いいけど、すぐ戻ってきてよ」
はぁい、と間延びした返事を返し、ドレッサーのある寝室で、彼の好評を得た上品な香りのするヘアオイルをつけて髪を乾かした。
リビングに戻ると彼が視線で私を招いた。誘導されるがまま、彼が深く腰かけているソファに近付いていくと、
「#name2#はここ」
と自分の長い脚の間を叩いた。どうやら座れということらしい。