朝は早い方だと思う。行き慣れた学び舎までの道を歩きながら、裕人はゆるりと空を見上げた。今年は遅咲きだったという桜が青空を飾るように咲き誇っている。
 一年間、着たり着崩したり解れさせたりしたおかげで、ごわついていた学ランも随分と馴染んだ。成長期を見越して大きめに作られた採寸も今となっては正解だ。きゅ、襟元を引っ張って緩める。否応なく前向きにさせるような陽射しに、思わず歩調が軽くなった。
 校門をくぐって昇降口へ、爪先が赤色の上靴に履き替える。二年生の教室は三階だ。階段を上ってすぐの、大きな緑の掲示板に、でかでかとクラス割表が貼ってあった。あいうえお順に並んでいるそれの、一番上の欄を確認する。「秋山」は大概一番だから。
 あ、秋山、秋山裕人。一組から四組まで、さっと見流した中に名前がない。はて、と思いながらもう一度目を動かして、すぐにあぁと得心がいく。三組一番、赤根尚。秋山はその一つ下にあった。
 教室にはまだ誰もいなかった。小学一年から今の今まで、一番右の一番前が春の定位置だったから、違う席に座るのはどこか変な気持ちだ。机の横のフックに鞄をかけて、プリントが置かれた教卓へ向かう。黒板に書かれた「進級おめでとう」の文字は数学の若い男性教師のものだ。歳が近いぶん気安いから、彼が担任なのはラッキーだ、と薄く思う。
 プリントは全部で四枚あった。クラス名簿と、保険だより、学校だより。それから一回り大判の紙に教員たちからの挨拶が書かれたもの。一枚ずつ取って席に戻る。律儀に読むほど真面目ではないから、ひとまず机の中に突っ込んだ。机に伏して窓の外を眺める。まだ起ききらない校舎のさざめきが心地いい。
 ガラリ。微睡みを遮って扉が開いた。なんとはなしに顔を上げ、あッと出そうになった声を呑み込む。綺麗な黒髪が白い頰を撫でるのが、スローモーションみたいに見える。
 その横顔には見覚えがあった。いや、それだけは嫌というほど知っていた。昼休み、毎日図書室で本を読んでいた横顔は、校庭からよく見えたのだ。目を惹かれたのはそれこそちょうど一年前。男にしては長い黒髪に、雪のように真白な肌に、引き結ばれた薄い唇に、いつからか胸が騒めくようになっていた。そうか、同じ学年だったのか。
 プリントを眺めるふりをして、教卓の前に立つ彼を盗み見る。どきりどきりと心臓が痛い。名前も知らない彼との初めての繋がりに、隠しようもなく舞い上がっている。
 彼の席はどこだろう。なるべく近いところがいい。もしくは、窓際なら、桜が綺麗だとでも言って話しかけようか。わーわーと煩い思考は、数秒後にぴたりと止まった。一番右の、一番前。微かな音を立てて椅子が引かれる。赤根尚。あかね、なお。それが彼の名前だと思うだけで、むずむずと口が疼くようだ。あぁ、呼びたい。声に出してみたい。
「なぁ、おはよう。俺——」
 でも、逸る口はちょっと抑えて。はじめましてから始めよう。
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初公開日: 2020年04月04日
最終更新日: 2020年04月04日
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