僕がここに来てからずいぶんと日がたった。正確な日にちを数えるのはもうやめてしまったが、だいたい、そう。一か月程度というぐらいだろうか。そんなに日が経ってしまえばここの生活も慣れたもので、ここは僕の家とも言っていいほど馴染んでしまっている。
一希先生との共同生活もなかなかに楽しい日々が続いており、言われた通りに僕が知りうる物語をたくさん話した。話すたびに一希先生はきらきらと輝く表情を見せて、何かに書き留めつつ満足げな雰囲気を漂わせながら書き留めた物を大事そうに抱えて彼の私室にしまい込む姿を何度も見たことがある。
「じゃあ、いってくる」
「いってらっしゃーい」
玄関で手を振り一希先生を見送る。どこに行くかは聞かないけれど、きっと僕のときと同様に、人間を迎えに行っているのだろう。庭先にはかのんぐらいの歳の少年だが一希先生を待っており、彼の服の裾を掴みながら笑みを浮かべている。黒髪で眼鏡をかけた少年は見送る僕を一瞥して一希先生と共に歩いていく。あんなに一希先生には笑顔を向けるのに、僕を見る目はとても冷たくてぶるり、と身震いをした。
一希先生曰く、かのんや今の少年は『神の遣い』らしく、彼ら自身は神様ではないそうだ。神様と共に行動し、人間を迎えにいく役割を担っているらしい。その彼らに僕はどうやら嫌われているようで、少年たちをみると僕に対して冷めた態度を取られるのだ。多分僕が人間だからだろう、子供にあのような態度をされると正直、心が痛い。心臓を抑える動きをしながら玄関のドアを閉めて落ち込む気分を立て直すべく居間へと向かう。一希先生がいない間は何をしてもよいと言われているため、僕はこうして一日一希先生から本を借りて過ごしている。ここには所謂『小説』というものがないようで、あるのはすべて論文だったり実用的なものばかりだ。何かを創造することがないようで、一希先生があんなに物語を求めているのも少しばかりわかる気がする。
ぺらりぺらりと紙をめくる音だけが聞こえる空間。陽だまりの中心地よく読書ができて幸せな気分に浸る。こんな生活が永遠に続けばいいのになー、なんて。思ってもいないようなことを考えると同時にがらり、と玄関の戸があいた音が聞こえた。驚き、読んでいた手を止めて机に置く。そろりそろりと玄関に向かえば僕よりも背が高い男が立っていた。僕もそこそこ背がたかいはずなのに、それよりもずっと長身で見上げるほどの人。青髪で狐のような印象の人だ。覗き込むように見ていれば、彼はこちらに気づいたのか僕を見て「ほう」と一言だけ声を漏らす。
「お前さんが例の人間か」
「…どなた様ですかー?」
「なるほどな。九十九の言いたいこともわかる」
僕の問いを無視してズカズカと上がり込み、僕の横を通り過ぎた後居間へと向かい、いつも一希先生が座る定位置へと腰を下ろした。僕は驚きつつもその姿をじっと見ていれば「人間」と一言だけ呼ばれる。
「なんですかー?」
「人間だろう。茶ぐらい用意したらどうだ?」
癇に障る言い方に、言い返そうかと口ごもる。が、何故か彼には逆らってはいけないと直感が告げる。しぶしぶ台所へ行き客用の湯呑を用意してお茶を入れる。
彼は一体何者なのだろうか。わざわざ家にやってきている当たり一希先生と何か関係があるようだけど。そう考え注いだ湯呑を男の元に持っていけば彼はそれをとり飲む。「まあまあだな」と、言われてひくりと口元が引きつった。
「それで、何のようでいらっしゃったんですかー?」
「それをお前さんに言う必要があるか、人間?」
冷たい目線、まるで僕のことなど眼中にない、というような目を向ける。何も言い返せず、手をきつく握りしめれば「まあ、いい」と目を閉じて渋々と言ったように口を開いた。
「九十九が人間を飼いだしたと聞いてな。少々興味があったから寄ってみただけさ。
まあ、その人間がお前さんみたいな奴とはなあ。なかなか面白い」
くつくつと笑う彼。僕はじっと彼を見つめる。目をそらすことが何故か、できない。
「九十九がなあ。お前さんみたいな奴を。ふうん、そうかい」
僕の頬に手を伸ばし、触るか触らないかのぎりぎりのところに手をやった。そのまま「なるほど」と何か納得する仕草をした後、「もったいない」とため息をつく。
「確かに、自由にしてもいいとはいったが。お前さんみたいな奴を野放しにするのはもったいない。そうさな…喰ってしまおうか」
にい、と歯を見せて笑う男。瞳がうすぼんやりと光り、それがとても恐ろしく、けれどどこか神々しくて。震える手、ひくつく喉。反らせない目。逃れたいのに何かの力で動けない。声を出したくても出せなくて息も浅い呼吸しかできない。
「だが、俺は今腹がいっぱいだ。…嗚呼、そうだ、天道サンにでも土産で持っていくのもいいかもしれないな。借りを作るには絶好の機会だ。」
人差し指を顎にやり僕の顔を上に向かせる。抗うことができない。舌なめずりをしながら「まあ、ちょっとの味見ぐらいいいだろう」そう告げて近づいてくる顔。どうすればいい、どうしたらこの場から逃げることができる。何も策が浮かばず、目を閉じて唇をかみしめた。
ふと、一希先生の顔が浮かぶ。僕が今頼れる人はこの人だけ。助けて、そう祈る。
「想楽さん!!」
「早いご帰宅だな、九十九」
僕の名を呼ぶ声。動けないながらも聞きなじんだ声に安心で、薄らと涙がにじむ。一希先生は僕の元へきて手をかざした。同時に体が動くようになり緊張の糸が切れたかのようにへたりこむ。
「雨彦さん、何をするんですか」
「何をするとはずいぶんな言い方だな。なに、お前さんが飼いだした人間に興味があってきたんだ。ずいぶんとおもしろいものに入れ込んだもんだなァ」
「…雨彦さんには関係ないでしょう」
「まあ、それもそうだな。だが、お前がここまで取り乱すとは」
僕を抱きしめて腕の中で守るように雨彦と呼ばれた男と対峙する。一希先生の手は冷たく、少しだけ震えていた。
「あの時お前さんの感情を喰ったと思っていたんだがな。」
「うるさい」
低い声。聞いたことのない切羽詰っている声。対して雨彦は余裕そうに、楽しそうに話す。
感情を喰ったとはどういうことだろうか。この人はこんなにも感情豊かに話すのに、疑問が生まれる。だがそんなこと言える雰囲気でもなくて、一希先生が籠める力が次第に強くなっていく。
「うるさいときた。まあいいさ。お前さんに免じて今日のところは帰るとするさ」
のろりと立ち上り、愉快そうに、愉しそうに笑みを浮かべながら雨彦は片手を上げて手を振る。
「ああそうだ。九十九」
ゆるりと首だけを回して一希先生を見る。先生は無言で睨み付けるだけだ。
「人間に肩入れするのもほどほどにしておくことだ。じき、痛い目を見る。
だが、そうだな。俺が言えた義理でもない。それは一番お前さん自身が分かっているだろう」
そう言って出ていく雨彦。残ったのは僕と一希先生だけで、一希先生は腕の中から僕を離す気配がない。「一希先生?」と呼びかければ「すまない」とだけ告げて僕を抱きしめたまま僕の肩に頭を乗せて、動かず何かを堪えるように項垂れた、
短いようで、長い間そうしていた。そして顔を上げた一希先生はひどくやつれた顔で「すまなかった」と一言だけ言って僕を腕から解放した。
何か聞こうにも、何から聞けば分からない。けれど今の一希先生に聞くには酷く痛ましくて僕は、何を思ったか一希先生を抱きしめた。先生は驚き、少しの抵抗を見せるが次第に落ち着き、僕を受け入れるように腰に手を回した。
ずっと、ずっと。僕たちは無言で互いに抱きしめ合った。確かにそこに僕たちが存在していることを確かめるように。