長谷部の主は気の弱い、背の低い小娘である。審神者になった経緯は、さてなんだったか。聞いたのに忘れてしまった。長谷部は主というものが好きだ。俺を好いてほしいとも思う。けれど審神者の審神者になる前のことに興味はなかった。彼にとって彼女は主、それ以上でも以下でもなかった。好きになるのはあなたが主だからですと、面と向かって言ったことさえある。しょせんは仮初の主従関係、戦国の覇者には比べるべくもない。
そのような心持ちであれば、当然主にも伝わるものである。思えば長谷部という刀は刀の身ひとつしかなかった頃から、しばしこうして持ち主を計ったものだった。この人間は俺にふさわしい。この人間はそうではない。さながら品定めする目利きのように。人間のように。
いつしか鉄の心に芽生えた傲慢は、人間が選び、ものが応えるという万物の倫理を超えてなお許された。彼はそれは貴重な刀であり、その身には家と土地と歴史が背負われていた。へし切り長谷部は付喪神。神の一種、であった。
さて、彼のーー彼らの主は小娘らしく愚かであり、後先考えず、感情でものを選び、ことを運ぶ。それが戦場ですら時たまこぼれるのは困り物だが、幸いにして初期刀の蜂須賀の最初の出陣が彼女に慎重さを与えていた。刀と人間の男の区別すらつかぬ娘にとって、判断をしくじれば見知った顔が『死ぬ』というのは大変な重圧であり、恐怖であった。
ある日、主は万屋の帰り道で右の小指の先を失ってきた。利き手の、爪の腹側にあたる部分をごっそり。骨が見えるほどに抉られて帰ってきた。左手には茶色の大きな野鼠のようなものを抱え、泣きながら帰ってきた。
本丸は半狂乱に陥った。
当初、長谷部は他の刀が騒ぐのをどこか冷めた眼で見ていたはずだった。だがそれも主の若草色のわんぴーすにぼつぼつと黒い血の水玉が落ち、痛みがぶりかえしたらしい主の眼からぽろりと涙が溢れるのを見るまでだった。刀の本能に逆らえず狂乱する自分を、どこか他人事に眺める自分の中の自分。長谷部は人の肉が己の鉄の心にもたらした効力に愕然とした。
主、主! 俺の主が血を流している!
その心の動きを、いったいなんとすればいい。人間の男とはいったいどうやって、この痛みに耐えているのだ。
小さな背や愚鈍な動きは、困ったものだと思っていた。薬研に手当てされる最中も止まない嗚咽は、弱さの表れだと思っていた。その考えは変わらない。だが、それはこれほどまでに長谷部の胸をえぐるのだった。歪んだ顔が、痛みを訴える声がかわいそうで切なくてならない。苦しみを取り除いてやりたいのに、人間は刀のようには直らない。今すぐ主を泣き止ませ、傷を治し肉を再生させられるなら、俺は百ぺん遠征してかまわない。その間、一度の出陣もなくてかまわない。
だがそうはならず、主の欠けた小指の肉はもうずっとそのままだった。盛り上がった肉が奇妙に傷口だったところを覆ってしまい、写真で見た活火山の火口みたいに見える。おいたわしい、おかわいそうに。そう泣いてそこを撫でてやりたかった。だがこの本丸においてその役目は初鍛刀の秋田のものであり、長谷部の役目は書類の誤字を見るだの細かな備品の継ぎ足しだのであって、彼がいきなり頭を撫でたら主はそれは困惑しただろう。
つまるところ話はこうだった。万屋へ行き来する道は田んぼの畦道である。距離は長くもなく、短くもない。そのときの気分に反応し、時間も距離も長くも短くもなる。人っ子一人見当たらない、いつも夕暮れの道。だがその日、こんぺいとうの小袋を抱えて家路を急ぐ主は気づいたのだった。水路の片隅でなにか、蠢くものがある。
それは虎バサミに咥えられた野兎だった。茶色く貧相にこわばり痩せ細り、まったく食い出がなさそうなそれに、主はなぜかいたく共感したらしい。
「かわいそうだと思ったの。かわいそうだったの。だってうさぎちゃんなんだもの」
聞けば彼女は現世、学校というところで似た生き物を世話していたそうだ。
「もう何年も前のことよ、小学生だったんだもの。でも覚えてる。覚えてるの。うさぎちゃん、小さくてかわいいの、あったかくて優しいのよ。かわいそうだったの。何もしていないのに、かわいそうなの」
虎バサミが仕掛けられたのはその畜生が田畑に生えるものを荒らすからで、虎バサミにひっかかったのは悪さをしようとしていたからだ。とも思ったが、長谷部以外の刀はまったくそう思わなかったようだった。
そうかい、そうかいそれはそうだね。かわいそうだったね。主は優しい子だね。でも俺たちには主の小指の腹の方が大切だよ。万一にもこれ以上欠けていたらと思うと、ああ! そう思うと息もできなくなる!
いいかい主、もう決して、虎バサミに手を出してはいけないよ。
初期刀の蜂須賀をはじめとして、刀たちはそう主をかき口説き、主はわかったとうなずいた。
「わかったわ。もう虎バサミには手を出さない」
野鼠と見まごうみすぼらしい野兎は、そのまま本丸で飼われることになった。母屋の裏に薪を置いておく小屋があり、その一画を仕切って野放し、あとは薪を入れる棚でも寝床にすればよい。刀は刀であるから、人間でもない生き物にさほど興味は示さない。主はたまの気まぐれにやってきては、
「うさちゃん、元気? かわいい。かわいいわね」
と菓子の余りを撒いていく。
いつしか長谷部は兎の世話をするようになった。厨の燭台切に聞いて、黄色くなった菜っ葉や大根の土色のところ、人参の皮、キャベツの芯。万屋にはなんでも売っている。小動物用ペレット。完全栄養。一日二回、規則正しく餌をやり、寝床になった棚の掃除もよくした。兎の糞はころころと転がり、踏むとべちゃりと靴底を覆い、苛つくことこの上なかった。
それでも長谷部がそれを続けたのは、もちろん主のためだった。ここで兎の世話役を買って出れば、たまにやってくる主と会える。兎をきっかけに話をしては笑い合う。夢のような時間だった。主の主でなかった頃の話は相変わらずふわふわと耳を素通りする。だが審神者としての不安などを打ち明けられると、長谷部は真面目くさって相槌を打った。こんな話は蜂須賀にすらしなさらないに違いない。
本当は兎のことなど大嫌いだった。長谷部に限らず、この本丸のすべての刀は奴を憎んでいたに違いない。主に怪我をさせたあいつ。土を掘っては穴ぼこまみれにするあいつ。何一つ主の役に立たないくせに、いるだけでかわいいと言われるあいつ。とくに短刀の軽蔑はもはや憎悪の域だった。同じひとつの『かわいいもの』の枠を競っているとでも思ったのかもしれない。
実際、その兎は実に憎たらしい顔をしていた。ひょろりと細長くて、前歯の突き出た嫌らしい顔である。体躯の方も卑屈に細くて、遠目に見ると兎というよりいたちのようだった。刀にちっとも懐かないのはまだしも、お余りの菓子をくださる主にすら懐かないとは許しがたい。けれど仕方がなかった。主が望んで、ここに置いているものだ。どれほど嫌おうとも、刀に人の持ち物を害する権利などないのだった。
変化は秋田が連れてきた。主君、主君。よいものを得ましたよ。差し上げます。そら、あれのお嫁さんですよ。
秋田には野原を駆け巡るうちにできた狸だか狐だかの友達がいる。昨夜、その祭りに招かれたのだという。
楽しいものがたくさんありました、ほら、これは射的の景品だったんです。僕は銃兵を指揮するでしょう? 本物の銃が扱えるのに、おもちゃがそうできないはずありません。そら、どうぞ抱いてやってください。かわいいでしょう? かわいいでしょう?
白い太った雌兎だった。丸い頬、くりくりとした目は目蓋がないように見える。唇らしきところをめくれば歯は鋭いのに、外からはそれを悟らせないつくり。爪は主の服にひっかからなかった。あの野兎とは違う。
主は喜んだ。それは喜んだ。カイウサギ! カイウサギ!
あの野兎とは種類が違うのだ、という。とても近しい近親種だけれど、これは飼って可愛がるための兎。あれは野で生きる兎。
「でも、おんなじ兎だわ」
主は笑って、野兎がいる小屋に白い兎を放す。
兎は鼠算式に増えた。
最初こそ、長谷部が餌をやりにいくと引っ掻き傷から血を流した白い雌兎が跳ねてきて、助けてくれ助けてくれと姦しかったものだった。けれど最初に五匹の仔を産み、それを全部野兎に喰われてから大人しくなった。すべてを諦め受け入れたのだと、刀の長谷部には分からなかった。
白兎は次から次へと産んだから、雄の食べる速さもかなわなかった。子供たちは皆、茶色い不細工で太々しい父親の顔をしていた。白いのは一匹もいなかった。
長谷部は与える餌にとうもろこしや豆や米を付け加えた。そうすればよく太るし、力がついてますます増えると聞いたのだった。
まったく薪を置くんだか兎を飼うんだか、あの小屋はありゃ、何なんだ。兎の合間に薪が住んでいる。
そうぼやいたのは誰だっただろう。
主は変わらずたまにきた。
「赤ちゃん! 赤ちゃんかわいいわ。長谷部ありがとう。大事に育てているのね」
と満足なさるから、長谷部はお任せくださいと胸を張る。そうするしかないのだと、彼も彼女も気付かない。主は赤ん坊兎のいずれかに手足がないのに気づかないし、それが父親兎の仕業であることも、母親兎であった白いかわいいカイウサギはとっくに事切れており、今この小屋に蔓延るのは同族を食って同族と交わる真の意味での畜生なのだと、気づくことはない。彼女には審神者の責務があるのだ。刀をいっぽん残らず折らずに帰還させる、重大な任務があるのだ。
兎の食費で刀の食費が圧迫され始めた。最初の小屋はとっくにいっぱいになり、長谷部は裏庭に深く杭を立て、針金を巡らせて兎を放した。畜生はますます増え、弱いものは死に、畑の肥料となった。
とうとう蜂須賀が主に兎の件を伝えると(あれらの食べるもののせいで、僕らはここ最近肉を食べていないんだよ!)、主はたいそう驚き、
「どうしましょう、ねえ長谷部どうしよう? こんなにたくさん、貰い手が見つかるかしら?」
と泣きそうになる。
「ただでさえ審神者で忙しいのに、うさちゃんの里親まで探せないわ。しかもほんとのカイウサギじゃない、混血なんだもの」
長谷部は嘆く彼女の肘に触れた。それは初めてのことだった。短刀ならまだしも、打刀で、初期刀ですらない長谷部が審神者に触れた!
だが主はその奇異に気付いてもいないようだった。
「ああどうしよう? 大変だわ」
「俺に任せてください」
「えっ?」
「大丈夫です、俺は兎の世話役ですよ。俺がなんとかして差し上げます」
「まあ、長谷部」
束の間、主は長谷部を見つめた。初めて見るもののように、その美しい刀、自分が呼び出した刀の自信に溢れた顔を見上げた。ふと、主はこんのすけの忠告を思い出した。刀の考えることは人とは違うんですよ。信頼してもよろしいですが、絶対に主導権を明け渡してはなりませんーー刀は刀ーーあなたと違うーー彼らの考えて行動する、は考えてないし行動じゃなくて衝動なんですよ、まったくもう。
でも、たかが兎のことだし。
と主は考えた。
「それじゃ、お任せするわ。長谷部ーー」
たかが増えすぎたうさちゃんのことなんだもの。
そんなひどいことになるはずない。ね? 長谷部。
その日から本丸の食卓には、また肉が上るようになった。毎日、百を越す刀たちに三食を提供する役が厨番にはある。燭台切は最近ご機嫌だ。
ありがとう長谷部くん。こうすればよかったんだね。
他の刀などもこう言って、背中を叩いてきたりする。
やったじゃないか長谷部、一石二鳥ならぬ一石三鳥くらいしたんじゃないか?
長谷部は鼻高々である。主の憂いを取り除き、本丸の食料問題を解決し、兎の問題まで。なるほど確かに、一石三鳥だ。
長谷部は嬉しかった。これほどお役に立ったのだから、次の出陣では第一部隊に取り立てられるかもしらないとまで思った。次に主が兎を見にきたら、直にお願いしてみよう。
主はそれからぱったりと、裏庭に姿を見せなくなった。
大広間での食事の際にはきちんとお姿を拝見できる。宴のときも二言、三言なら話せる。だが長谷部の望んだ兎の見る間の交流は、あれほど近しくなった瞬間は、それからついぞ訪れなかった。
なぜ、どうして。長谷部にはわからないことが多すぎる。そして主は説明してくれなかった。
彼女は小娘から脱却しつつある女で、女とはずるいもので、目の前にある可愛くてかわいそうなものは助けるけれど、見えないのならそうしなくてもいい。聞いてないから、知らない。それでいい。刀にはない小狡さを、大切にされてきた長谷部には思いつかない畜生のやり方を、いったいいつの間に彼女は習得したのだろう。兎の魂が告げ口したのだろうか。答えはなく、大人になろうとしている主はもう、兎も長谷部も好きではないのだった。
皿の上でおいしそうに焼けている肉を、主も刀も今日も咀嚼する。この肉は癖はないが、独特の噛みごたえがあって、筋も硬いから慣れるまでしばらくかかった。裏庭では兎が増えている。いなくなる以上の速さで増えれば、これからもこの本丸は肉に困ることはないだろう。
主は裏庭にはもう行かない。この肉は何? 誰にも決して聞きはしない。
長谷部は今日も裏庭に行く。死屍累々の囲いの中で、逃げられないことを悟った兎たちは虚しく跳ねる。その顔は不細工で可愛げがなく、無感動で無表情、そう、ちょうど今の長谷部の顔にとてもよく似ている。