ひかりのどけき
「冨岡さん、お待たせしました」
庭にたたずみぼんやりと辺りを見回していた義勇の耳に、そんな言葉が飛び込んできた。振り返れば、蝶屋敷の縁側を伝うように此方に近づいてくる胡蝶の姿が目に入る。
「いや」
「ずいぶんぼんやりしていましたね。今日もいい天気ですものね」
薬袋を手渡してきた彼女は、青空へと一瞥をくれて相好を崩した。このところは寒さもぐんと緩んでいる。蝶屋敷の庭も徐々に華やかな色を取り戻しつつあった。
「あら、冨岡さん、肩に花びらが」
彼が袋を受け取ると、彼女は羽織をおさえながら細い腕を彼の肩の方へと伸ばす。その指先が摘まみ上げたのは、小さな花びらだった。
「桜ですね。どこかで咲いてました?」
どうだったろうか? 彼は首を捻る。見事に咲いていたのなら記憶に残るはずだが。強い風に飛ばされて彼のところまで舞ってきたのだろうか。
「そろそろお花見しないと散ってしまいますねぇ。桜は悪天候に弱いですもんね」
彼が黙っているのも気にせずに、手のひらに花びらを乗せた彼女はくつりと笑った。そうして何かを思い出したとばかりに、もう一度空へと視線を転じる。
「知ってます? 昔は花と言えば梅だったそうですよ。それがいつの間にか花見と言えば桜に。梅は今頃どう思っているんでしょうかね」
楽しげな口調ではあるが、こういう時の彼女は何か考えていることがもっぱらだ。彼はいっそう口を閉ざした。その話は彼も耳にしたことがある。古い歌を口ずさんでいた姉が、話していたのだったか。
「梅の気持ちは知らないが」
彼はついと庭へと視線を転じた。この庭の花々は、いつもよく手入れされている。療養中の者たちの心を慰めるためだというが、手入れをしている時の少女たちは生き生きとしているから、そういう面でも大切なのだろう。
物事には、いつだって色々な側面がある。
「桜を広めたのは、桜が好きな熱心な誰かだったとか」
「冨岡さん、お詳しいですね」
「伝え聞いただけだ」
美しいものを共有したいという思いは、昔から変わらないのか。いや、誰かが熱心に愛でていれば、他の者も感化されるだけか。誰かと何かを分かち合いたいと思ったのは遙か昔で、その時の記憶がよく思い出せない。
「だが好きなものを独り占めしたがる人間もいる。広まり過ぎれば、踏みにじる者も出てくるしな」
そこで彼は息を吐いた。桜の木は弱い。扱いを間違えれば枯れてしまう。花見は結構だが、それこそ桜としてはどう思っているのか。彼にはわからない。
「冨岡さん、今日はやけに饒舌ですね。何かいいことありました?」
彼女がそう言って笑った途端、強い風が吹き込んだ。彼女の手から小さな花びらが離れ、舞っていく。
「あっ」
その行く先を追いかけるよう、彼女は顔を上げた。彼もそちらへと一瞥をくれ、ついで彼女の横顔を視界の端に収める。
好きなものが既に広まっていた場合は、選択肢などない。皆と愛でるか、一人遠くから見遣るか。独り占めにできるのは、広まる前の話だ。
「飛んでしまいましたね。まあ、いいです。今年のお花見、冨岡さんはいかがです? 一緒に行きませんか?」
腕を下げた彼女は彼の方を振り向いた。予想通りの言葉に、彼は静かに頭を振る。
「いい」
それはどうせ皆でという意味だろう。蝶屋敷の者たちは毎年花見に出掛けていると聞く。お重に御馳走を詰め込んで、それはそれは賑やかだという。だがそうしたものに、彼は馴染まない。
「そうですか、残念です」
「では邪魔をした」
彼女が肩を落とすのを横目に、彼はすぐさま踵を返した。彼女が何か囁く声を背中に感じたが、聞き返してもはぐらかされるだけであることは、彼もよくよくわかっていた。