鬼上官
改頁
「紫華」
「?!っ——はい!!」
ある夏の昼下がりのこと。師範学校は休みに入り、紫華は日々、軍の宿舎に通い詰めていた。ここには様々な書簡が取り揃えられた、立派な図書館がある。座学の講義を覗くことはできても、その教科書を手に入れることは、やはり今の紫華の身分では敵わない。それを埋め合わせてくれるのは、充実したこの蔵書たちである。図書館で本を読み始めて、既に数時間が経過していたらしい。手元に落とされた影が紫華を揺さぶり、声をかける。顔を上げれば、父がそこにいた。
「悪いが、もう時間だ」
あたりは薄暗く、既に日没が迫っていることを知らせていた。宿舎を通り抜けて門へ向かう。この頃は暑すぎるからか、日中の運動は禁じられていた。泊まり込む隊員たちは夜間に訓練があるらしいが、紫華は別である。従って、着替える必要もなければ、宿舎の部屋に寄る必要もないのだ。
「あぁ、おかえり。今日は何を読んでいたのかな?」
「…どちら様ですか?」
「ひどいな、紫華ちゃん。私を忘れたのかい?」
門のところで黄昏るように空を見上げていた人影が、こちらを見て破顔する。父曰く「人を付けてある」とのことだが、まさか彼ではあるまい。普段の軍服姿とは違う、鮮やかな袴に身を包んだ坪内上官は、見慣れたあれは、扇だろうか——それを口元に寄せて、にこやかに笑った。
「さぁ、帰るよ」
どうやら、そのまさかだったらしい。こちらが手にした山積みの書物と弁当箱を取り上げて、颯爽と彼が歩き出す。振り返って呼ぶ声に気を取り直し、慌てて後を追った。
「今日は、何か外出の用事があったのですか?」
「そうだよ」
なるほど、それでこの格好をしているのか。見慣れた軍服は赤い洋装に黒いマント。膝から下を包むのは質素な軍靴、踵が高く、それでいて動きやすいもの。腰には辛子色の布を結えてあり、膝の部分だけはゆったりとしている。上着の背中半分だけが長く、外套と同じように、膝の辺りを揺らめいている。常に赤い帳簿を携え——本と呼ぶべきかもしれないが——時折それは、日本刀に持ち替えられる。今日も彼は、帳簿のような本のような、赤い冊子を手にしていた。
「何かの会食でもあったのですか?」
「いや、何もないよ。そんなに、見慣れないかい?」
「はい。上官の和装を見るのは、初めてのような気がします」
「あぁ…そうだね。君の前では、いつも軍服を着ていたね」
彼が笑う。その歩みに合わせて、深緑の袴が柔らかく前後し、桜色の羽織の裾が風を孕む。肩の辺りは空色で、まるで昼と夜のように、柔らかく曖昧に、色が移り変わっていく。彼はそれをグラデーションと呼んだ。
「いつもはこの格好なのだけれど、君には見慣れなかったかな」
「いつも…ですか?」
「そうだよ。家にいるときや休日は、そうだね。宿舎に部屋があるのに、つい癖で、平日は軍服を着てきてしまうけれど」
知らなかった。街を行き交う人が、時折振り返っては彼に熱い視線を注ぐ。その殆どが女性であり、時には子供や男もあった。それを物ともせず、彼は歩いていく。擦れ違う親子が、私を彼の娘だと言うのが聞こえた。
「紫華ちゃんは私の娘でも良い歳くらいだが…そういう間柄ではないのだけれど」
「父は健在ですが、自分にとって上官は父のように思えますので、あながち間違いではないかと」
聞こえていたのか、と微かに驚きつつも言葉を返す。上官は確か、二十歳近く年上だったはず。父より年上だが、死んだ祖父母よりは年が若い。世間では三十路を過ぎて子を儲ける家もあるし、親子と読んで差し支えない年の差であろうか。
「…そういうことではないのだけれどね」
「——なんですか?」
風に攫われた彼の声を聞き返す。なんでもないよ、と彼は笑った。
「しぃちゃんお帰りなさい。坪内さん、こんにちは」
「ただいま、邦景」
「こんにちは、邦景くん。今は夏休みかな」
「はい。しぃちゃんのお迎え、ありがとうございます」
部屋に戻って着替えを済ませ、お風呂と夕食の支度をする。父が幸晶を連れて帰ったところで、再び五人で食卓を囲む。素麺には酢橘と柚子と大葉と胡麻と、あれこれと薬味やら何やらを添える。窓を開け、広間に風を通す。生温い夜が、チリン、と小さく風鈴を鳴らした。
熱い日差しの下を上官と並んで歩く。夏季休暇を出されたのだと言う彼は、日々和装で過ごしているらしい。桜色の羽織の裾にも見慣れてしまった。
「紫華ちゃん、暑くないのかい?」
「…?はい」
扇を揺らしながら、彼が言う。片手に扇と荷物、もう片方の手には日傘を携えている。白い傘の影が二人分の影を丸く囲む。こちらの手には冷たく冷やした弁当箱が二つ、氷を詰め込んだ水筒が二つ。見上げた上官の首筋には、うっすらと汗が見える。髪を結い上げているものの、やはり暑いのだろうか。手拭いを差し出し、代わりに日傘を取り上げようとする。それでも彼は、ひょい、と器用に日傘を掲げ、こちらの手から逃げてしまった。仕方なく、差し出した手拭いを首筋に当てる。冷たい弁当箱と一緒に抱えていたはずなので、多少は涼めるだろうか。彼は少し擽ったそうにして、傘の影が揺れる。木漏れ日のようにちらほらと日差しが視界に落とされる。眩しさに目を細めれば、彼が傘を傾けた。
宿舎について、女学校の制服を支給された軍の服に着替える。麻のシャツにズボン、襟や紋章に差し色があるとはいえ、全体的には白で統一されている。森医官と似たような格好で、少し眩しい。道場に向かい、扉に手をかける。飛び跳ねて扉の残骸を避ければ、楽しげな笑みを浮かべ、照りつける日差しよりも鋭い殺気を放つ上官が飛び込んできた。
砂の上に着地すると同時に上から落ちてくる深緑の袴を投げ飛ばす。環境が不利すぎると判断し、道場内に逃げ込めばすかさず追ってきた。飛んでくる下駄を二つ弾き飛ばせば、影から拳を突き出される。肘で避けながら体を旋し、胴に足をかけて床に叩きつける。音がしないのを不思議に思うより早く、後ろから腕が伸びてくる。前に転がり、拘束される寸前で彼から逃れる。振り返りざま、迫る足袋を払い除け、掴んだ足首を軸にその体を廻す。器用に抜き取られた爪先が——何故足袋が脱げるのか、訳が分からない——顔と胸目掛けて迫るのを両手でガシリと受け止める。そのまま膝を床に落とし、固定する。片方の足首で逆の膝を固定し、空いた手で迫る拳を払い除ける。眼鏡を蹴り飛ばせば、制止の声がかかった。
「やめ!!」
破裂しそうな殺気に慌てて距離を取る。眼鏡を拾い上げた上官が、裸足で板を踏んだ。
「やれやれ。今日は私の負けかな」
そう言って、上官が笑う。眼鏡の奥の瞳は、いつも通り、ちょっと悪戯っぽい、無邪気で可愛らしい、子供のような輝きを取り戻していた。
「紫華ちゃん、怪我は?」
「問題ありません。上官こそ大丈夫でしたか?」
「私は大丈夫だよ。むしろ紫華ちゃんの方が無茶をしていたからね。見せてご覧——あぁほら、やっぱり」
こちらの手のひらをひっくり返して、上官が眉を顰めた。すこし爪の跡がついているのは、彼の足の指先を掴んだからだ。壁際に引っ張り、水を飲ませ、いつもの手提げに入った軟膏を塗りつける。薄手の軽い包帯を巻かれるのをぼんやりとみているうちに、白い服が視界を遮った。
「紫華、体調が悪いのか?」
「いえ、問題ありません。森医官、お久しぶりです」
「…林太郎だ」
苦笑して、それを流してしまう自分は、可愛げもないのだろうな、とは思う。それでも何故か、上手く言葉を紡ぐことができないでいる。体調に問題はないはず、汗もかいていないし、体もよく動いている。
「熱が籠もっているというか、汗の量が少ないようだね。蛋白質もあまり摂っていないだろう?この前もお魚を邦景くんにあげていたし」
「…紫華」
「ごめんなさい」
鋭い眼差しに睨まれて、紫華は項垂れるしかない。そのまま食堂に連れて行かれ、とにかく食べろ、とあれこれとお皿を寄越される。
「紫華ちゃん、これも美味しいよ。新しいトレイ、持ってくれるかな」
こちらの意見も聞かず、彼は次から次へと盆の上に皿を乗せていく。山盛りの白いご飯にお味噌汁、甘味に野菜に揚げ物と煮物と焼き魚、肉も大量に。
「いいかい?紫華ちゃん。君はちゃんと食べなければならないんだ」
目の前に陣取り、彼は紫華が食べるところを見張りながら口を開く。林太郎先生は再び道場に戻って行ってしまった。
「体が重くなるのは仕方がない。それでも、食べなければ、君の役目を果たせなくなってしまう」
「重い体を引き摺って這え、と仰るのですか」
「まさか。どんなに重くても、紫華ちゃんなら軽々持ち上げられるさ」
彼は笑う。そして、こちらが避けた脂身の多い肉を、ぱくん、と口に放り込んだ。美味しいね、と彼が言う。美味しそうに食べる人だな、と思う。もう一欠片彼の方に避ければ、押し戻されてしまった。
改頁
「本当に、良いのですか…?!」
「特別に、許可が下りた。都合良く、師範学校の休暇中だ。思う存分、励みなさい」
「…はい!ありがとうございます!!」
大きな声でお礼を言う紫華に、父は苦笑した。一七年の人生で初めて——軍に入り浸るようになってから一五年。漸く念願叶って、外部での演習に連れて行ってもらえることになった。
「おや、今回は紫華ちゃんも一緒かな」
「はい。よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしく。楽しみだね」
側を通りがかった坪内上官が微笑む。頭を下げれば、嬉しそうに彼は紫華の頭を撫でた。
「それじゃあ、手始めに肩慣らしといこうか」
彼に連れられて、屋外運動場に出る。外で動けるように、慣れておかなければ。
「砂地は慣れていないようだね」
「はい。というか、屋外で動くこと自体、あまり慣れていません」
「なるほど。そういえば確かに、光に弱かったんだったね」
ザリザリと靴の裏で運動場の砂を踏む紫華を、上官は面白そうに眺めている。
Latest / 139:48
07:41
虹薔薇
誰かいるんだろうか…というか途中から始めたらめっちゃ軽いけど、これ絶対話の流れが分からないやつ…既に3万字が経過しているはずの文字です…
52:19
虹薔薇
また重くなってしまった…コメントは軽いのに…何故…電波か?電波が悪いのか…?
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鬼上官
初公開日: 2020年04月02日
最終更新日: 2020年04月02日
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軽いといいなぁ…改修工事中だそうですが…
据え膳食わぬは以下省略
文或尾崎紅葉超御都合主義夢 年齢制限引っかからないあたりで引き返したい。10000に収まったら褒め…
虹薔薇
鬼上官
文或坪内逍遥軍パロ夢
虹薔薇
なんかかく
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