今日も映画。明日も映画。
 というわけで、今日は初めてテアトル梅田に行ってきました!
 映画館によって上映作品もけっこう違うものですが、テアトル梅田はまた独自路線な感じ。アート系が多いかと思ったらアニメもけっこうやるんだな。
 というわけで今日見てきたのはこれ!
 そもそもなんでテアトル梅田に行ってきたのかというと、塚口で見ようと思ってた本作が気がついたら上映終了してたから。
 アマプラに来てからもでいいかなとかフヌケたことを考えてましたが、調べてみたら13日までテアトル梅田でやっているとのことだったので行ってきました。
 テアトル梅田はちょっとだけ覗いたことはありましたがシアターに足を運ぶのはこれが初めて。場内の雰囲気はなんかわたくし人形使いには縁遠いオサレカヘ的な上品な雰囲気で居心地がいい。待合室にはテーブルと椅子があってゆっくりできそうなので、今度見る時は早めに来て読書するのもいいかも。
 今回入ったシアターはシアター1。シアターの広さに比べてスクリーンがちょっと小さいかなと思いましたが、音響に関しては特別音響システム"odessa"というなんか宇宙世紀な名前の音響システムが採用されておりなかなかでした。
 さて、作品の感想を。
 氷海にて凍りついて動けなくなった探査船が、重傷を負った一人の男を救助します。その男を追って、人とも獣ともつかない謎の怪物が船を襲うも、船長と乗組員はからくも怪物を撃退。
 意識を取り戻した男は、ヴィクター・フランケンシュタインと名乗り、自分が怪物に追われることになった経緯を話し始めます。
 ヴィクターはかつて医学界の異端児として、死した肉体を蘇生させる方法に執着していました。そして、審議会にて電力を用いてツギハギした死体を一時的に動かすところまでいったヴィクターはスポンサーを得たことで研究を大幅に進行、大きな屋敷を研究所として改造し、お約束の落雷の巨大なパワーを用いて死体のパーツを合成して創り上げた怪物に命を吹き込むことに成功します。研究の成就に狂喜するヴィクターですが、怪物は次第に自我に目覚めていき――。
 本家であるメアリー・シェリーの原作は未読なんですが、だれでも知ってる「フランケンシュタインの怪物」をあのギレルモ・デル・トロ監督が再構築するとなれば見ないわけにはいきません。
 同じくギレルモ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター」の感想を書いたとき、「現実にお伽話が勝(まさ)った話」だと書いた覚えがあります。主人公イライザは現実という追手から逃れ、幻想の住人たる半魚人の「彼」とともに水中で幸せに暮らすというハッピーエンドでした。
 しかるに本作は「幻想の存在たる『怪物』がこの現実の世界に確たる存在として根を下ろす」というハッピーエンドだったと思います。
 本作は重症を負ったヴィクターの述懐から始まり、ヴィクターの過去、そして「怪物」の過去を描きます。
 ヴィクター編は彼の生い立ち、いかにして死者蘇生にのめり込むようになったか、自身の弟ウィリアムの妻であるエリザベスへの慕情や自身が生み出した「怪物」への嫉妬、危機感を募らせる様子を描きます。
 ヴィクターは外科医であった父から厳しく育てられる一方で、弟であるウィリアムを溺愛する父に敵愾心をつのらせていく一方で、「優秀な外科医」という父が望んだ自分になろうとする。この父とヴィクターの関係が次の「怪物」編でヴィクター→「怪物」という形で完全な対称関係となって現れるのがまさに呪いと言えるでしょう。「ハッチング」でも感じましたが、機能不全家庭がもたらす呪いの形は常に円環構造。自分の親にされたことを子は自分の子にする。
 事実、自らが生み出した「怪物」に対し、ヴィクターは愛情を注ぐ以上に支配してコントロールしようとします。「怪物」を鞭打つ姿は完全に父がヴィクターを鞭打つ姿ですよね。
 ヴィクター編では、「怪物」はいかにも満足な知性を持たないゾンビ的な存在として描写されています。しかし、「怪物」の主観で語られる「怪物」パートでは、「怪物」は高度な知性と自意識を備えていることがわかります。
 しかるに、爆発炎上する屋敷からの脱出から始まる「怪物」パートは、いわばヴィクターの息子である「怪物」の自立の物語だと言えるでしょう。自意識を備えていながらヴィクター以外との誰とも繋がりを持たず、女の肚から生まれてすらいない彼が求めたのは他者とのつながり、つまり「関係」でした。このへんは昨日見た「テレビの中に入りたい」と対照的なものを感じました。社会とのつながり、ひいてはコミュニティの最小単位のひとつである「家族」を求めるわけです。
 しばしば知性のない暴力の化身のように思われるフランケンシュタインの怪物ですが、本作では怪物としての側面を保ちながらもなお人間的なんですよね。いっそのこと怪物であればどれほど楽だったろうかと思うくらいに。
 家族というのはある種の呪いです。「怪物」はヴィクターがそうであったように、激しく痛めつけられながらも「父」であるヴィクターを求めずにはいられない。
 そして最終的にヴィクターを追い詰めた「怪物」がヴィクターに求めたものは……。
 ギレルモ監督はしばしば、「怪物の救済」のための作品を作ります。では本作の「怪物」をなにから救済したかというと……「家族という執着」からでしょう。浄化と言ってもいい。
 そもそも作中で「怪物」は常に、破壊や殺戮ではなく「伴侶」や「父」を求めてるんですよね。そこから、あのラストで「父」たるヴィクターを得て、そして手放し、ひとり去っていく。あの孤独な姿はすなわち「独り立ち」「巣立ち」ですよ。
 そう考えると、ギレルモ監督はこの作品を、「怪物」というひとりの人間の誕生と成長、そして独立を描いたファンタジックな成長物語として翻案したんじゃなかろうかと感じました。
 哀しくも優しいおとぎ話といった味わいの一作でした。
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人形使い
こんばんは。配信を見に来てくださりありがとうございます。
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向き
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テアトル梅田「フランケンシュタイン」見てきました!
初公開日: 2025年11月13日
最終更新日: 2025年11月13日
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