はい、もういつものことですが塚口の上映スケジュールが年末に向けて明らかにアクセルがかかってきたのでどんどん見ていきますよ。
 というわけで今日見てきたのはこれ!
 本作は「ベイビーわるきゅーれ」で一躍有名になった阪元裕吾監督による、殺し屋モキュメンタリー「最強殺し屋伝説国岡」の第3弾。今回はタイトルにある通り、殺しの依頼ではなく、国岡の友人であるうだつの上がらない殺し屋・真中が自身の師匠でもあり父親でもある真中陸斗に勝負を挑むという話になっています。
 元・京都ナンバーワンの殺し屋、国岡の相棒と言えば聞こえはいいものの、真中卓也は殺しの腕は中途半端、生活を補うために行っているアルバイトもうまく行かず失敗ばかりで、酒に逃げているダメ男。
 そんな真中の様子に呆れる国岡たち。そんな彼らの前に現れたのは、真中の父・陸斗とその弟子・天内でした。陸斗は殺し屋としてまともにやっていけていない真中を叱責し、無理やり実家に連れ帰ってしまいます。
 その後、真中の実家を訪れた国岡たちが見たのは、すっかり殺し屋家業から足を洗って家事をこなす真中の姿でした。一見、殺し屋の道は断念したかに見えた真中ですが、その腰にはきれいに手入れされた愛銃がありました。真中に「本当は殺し屋をやめたくないんじゃないの?」と問いかける国岡。その言葉に真中は再度闘志を燃やし、父親に挑戦状を叩きつけます。
 男・真中卓也、この勝負に勝利できるのか!
 阪元監督の作品となれば当然、まずはアクションについて言及しなくてはいけないでしょう。特に今回はチャンバラありですよチャンバラ! 「男子はいくつになっても刀を振り回すのが好き」とゴールデンカムイでも言ってた通り、日本人男性は全員チャンバラが好きです(断定口調)。そうでない人がいるとしたらその人は思想的に去勢されていると言っても過言でも華厳でもないので早急に「侍タイムスリッパー」をルドヴィコ療法するしかない。
 そもそも今回のアクション監督はその「侍タイムスリッパー」の回想シーンにおいて剣術指導を担当した垣内博貴氏なんですよね。そのため本作で藤澤アニキ氏演じる陸斗の振るう剣の冴えの素晴らしいこと!
 わたくし人形使いもこれまで映画でさまざまなチャンバラを見てきましたが、「初手で小柄を投げる」は初めて見ました。本作の数あるバトルシーンの中でも、ここがいちばんテンション上がったかもしれん。心のなかで拍手喝采でしたよここ。
 そこからの剣術アクションもすごかった。陸斗の相手となる国岡は素手+拳銃だったので厳密にはチャンバラではないんですが、この素手vs日本刀というアクション、なんというか「素手と日本刀で戦ったら実際こうなるだろうな」という説得力を感じました。
 両者は同じ武器ではないので間合いも違います。なのでこの間合いの違いを活かしたアクションがまた素晴らしいんですよね。懐に入られれば間合いの遠い日本刀は振り回すことはできません。当然国岡はインファイトを仕掛けますが、対する陸斗は刀を過剰に振り回すことなく、言語化が難しいですが刀を短く遣って戦っているのがはっきりわかりました。
 そしてすごいのが、刀を持ったまま組討までやってること。これをここまでのレベルでやってるの、前述の小柄投げと同様にアクション映画では初めて見たかも。このシーン、特に必殺技!って感じでクローズアップされてるシーンでもないんですが、これをさりげなく自然にやってるのはとんでもないレベルのアクションだと思います。
 キャラも立ってて面白かったですね。今回は前述の通り国岡の相棒である真中の戦いがメインとなってるんですが、前半部分で描かれる真中のダメダメっぷりがあまりにも笑える。イキってて仕事失敗して国岡に助けてもらって借金してそのお金をさっそく使い込んで後輩に説教して、からのダメ押しで霊感商法に引っかかるあたりで爆笑しそうでした。しかもそこで出てきた霊水がラベル剥がしたあとそのまんまのペットボトルだったのがもうずるい。阪本監督の作品はアクションだけじゃなくてこのギャグセンスも好き。
 でもこの真中の落ちぶれっぷりダメダメっぷり、ただ単にギャグってわけでもないんですよね。本作はいわゆる「復帰モノ」の文脈なので、これは作劇的にアゲの前のサゲなんですがそれだけでもない。
 ここ、確かに誇張されたダメダメっぷりだとは思いますが、こうした社会不適合は誰にでも覚えがあるんじゃないでしょうか。なんなら阪本監督がアクション部分と同等かそれ以上に力を入れている部分なんじゃなかろうか。
 真中のダメっぷり、半分はギャグとして笑えるんですが半分は共感があるんですよね。なんならギャグとして笑ってないと身につまされ過ぎてて笑えなくなる。ある意味ではどんな激しいアクションシーンよりも痛みを感じるシーンでした。
 そもそも「最強殺し屋伝説国岡」シリーズでも「ベイビーわるきゅーれ」シリーズでも、そこに登場する殺し屋たちは凄腕の殺し屋ではあっても華麗なダークヒーローではないし、多額の賞金を稼いでゴージャスな生活を送っているわけでもない。
 「最強殺し屋伝説国岡 完全版」でも描かれていたことですが、京都最強の殺し屋である国岡すら、殺しの場を離れれば狭いアパートの一室で暮らしている普通の……いや、普通の社会に適合できない一人のさみしい男なんですよね。
 そもそも殺し屋協会に所属している殺し屋たちは、殺しのエリートでもなければ快楽殺人者でもない、「普通の社会」から落ちこぼれた人々であることは1作目から明白に描かれています。その中でも真中はまあだいぶひどいですが、それでも彼の落ちぶれっぷりは笑ってだけ済ませることはできない姿に思えました。そして、だからこそそこからの再起が輝くんですよね。だからこそラストバトルでは真中を応援してしまう。
 真中の再起についても多くの文字を割いていきたい。
 真中は独力で再起したわけではなく、周辺の人に助けられながらなんとか立ち上がります。この「助けられながら」は、言い換えれば「迷惑をかけながら」なんですよね。
 前述の通り、真中は冒頭からもう国岡をはじめとする周りの面々に迷惑をかけ通し。しかもそれで反省することもなく延々とダメダメを繰り返すという。でも、「誰かに助けてもらう」ってそういうことなのかもなーと思います。真中の後輩の殺し屋のしおりが言う「怒られなくなったらそれって見捨てられたってことですからね」っていうのはまさにその通りだと思うし、国岡たちのように起こって諭してくれる友人がいるあたり、真中もそれだけの人物ではあるってことなのかなあと思いました。
 これを書いてて、「ベイビーわるきゅーれナイスデイズ」の敵である冬村かえでを思い出しました。周りに誰もいない、正常な人間関係が構築されていない孤独の状態は、修正してくれる人がいないから方向性はどうあれ人を狂わせるんですよね。だからこそ真中は一線を超えずになんとかまだ復帰できるダメダメのラインにとどまれていたという。
 社会不適合者にフォーカスすると、そもそも正常な人間関係を構築できていないことがその不適合の原因であることがほとんどでしょう。そして彼ら(そして私たち)は、そもそもその人間関係それ自体を構築することを諦め、切除sてしまうことがあります。でも今度は、そこから生じる孤独が狂いの原因となる。
 結局のところ、我々を狂わせるのが人間関係なら、そこから救い出してくれるのもまた人間関係。以前見たヨルゴス・ランティモス監督作品「ロブスター」でも同じことを書きましたが、「ひとつのコミュニティを離脱した先にあるのはまた別のコミュニティしかない」ってことなのかな、と思います。いくら孤独を志向しても、社会不適合であっても、社会性動物たる我々人間は所詮社会から離れて真の孤独を手に入れることはできない。じゃあ社会と折り合いをつけてやっていくしかないし、社会=他者と自分なりの折り合いをつけていけばなんとか生きていけるってことなのかも知れないなー。
 そう、この「社会との折り合い」というのが今回のメインバトルにしてラストバトルである、国岡・真中チームvs陸斗・天内チームの戦いに関連してくると思うんですよね。
 このラストバトルは、2対2のチームバトル。しかし、本作のストーリーからすれば、のラストバトルは真中vs陸斗の1対1での勝負でも筋は通るんですよね。そもそも今回のメインは真中というダメ男の復帰なので、必ずしもこの戦いに国岡と天内がいる必要はない。
 また、タイトル通りこの戦いが二人だけによる私闘であり、見届人や観戦者がいないとしても作劇上はこれも同じく筋は通ると思います。
 では、なぜこのラストバトルが見届人と観戦者のいる2対2なのか。
 これはまず作中でも言及されてますが完全な私闘は決闘罪に当たるため。まあこれはじゃあ殺し屋は法的にはいいの?って話になりますがこれは作中でツッコミが入ってるので明らかなツッコミどころでしょう。
 そもそもこの戦い、完全な私闘になるはずが殺し屋協会第三者委員会所属外部監査クルーである大坂の仲裁によって見届人の監督の元での戦いとなります。「社会」ですよねこれ。真中の父である陸斗もまた殺し屋協会という「社会」に所属している以上そのルールには従わなくてはなりません。親子という、普段は外部の介入をもっとも受けにくい、外部から踏み込まれにくい関係性でさえも社会の一部であり、その介入を受けざるを得ない。
 これは一見、ふたりだけの戦いに邪魔が入ったというようなマイナスの要素に思えますが、プラスの要素もあります。それは、自分たちの戦いを見届けてくれる人がいるということ。
 前述のとおりこの戦いは二人だけでほかには誰もいない構図でも成立します。ですがそうなると、この戦い、ひいてはこの物語は完全に閉じた構造になってしまうんですよね。そこで外部の視線が介入することで、真中の戦いは彼だけのものではなくなる。そもそもこの作品それ自体がモキュメンタリー。つまり、「だれかが見て、聞いて、記録してくれている物語」なんです。他者は敵であり、社会という怪物を構成する要素。しかしまた同時に、他者は見て、聞いて。記録してくれる者でもあるわけです。この物語を閉じたものではなく開いたものにするためには、この他者の目が必要だったということなんじゃないでしょうか。
 そしてこの構図、そのまんま「侍タイムスリッパー」と同じなんですよね。以前の感想でも書きましたが、あのラストバトル、話の筋からすれば高坂と風見がふたりで撮影所を抜け出して真剣で完全な私闘を……という展開になってもおかしくなかった。しかしそうはならなかった。なぜならあの戦いもまた、誰かに見届けられるものでなくてはならなかったから。同じ構図だと思います。
 そして2対2である理由。というか、天内というキャラの存在意義。
 天内はポジション的に「成功した真中」ですよね。陸斗の弟子であり、自信に満ち溢れており殺しの腕もある。相関関係的には真中と天内はそれほど濃厚な関係性があるわけではなく、むしろ天内は別に真中をライバル視しているわけでもないし、なんなら眼中にない。天内がライバル心を燃やしているのはむしろ国岡の方。
 しかし作劇的に見ればこの二人こそ対応関係にあると言っていいでしょう。本作は真中という息子が陸斗という父に向かい合う話であると同時に、真中という失敗例が天内という成功例に向かい合う話であると言えます。
 自分がそうであったらどんなにいいかと思える成功例に向かい合うのは、父親に向かい合う以上に困難な戦いでしょう。そもそも真中のダメダメっぷりの根底にはコンプレックスがあったと思います。そしてそのコンプレックスを最大限に深く突き刺せるポジションが必要だった。そのポジションの条件は、乗り越えるべき壁である父親・陸斗では属性的に満たせない。だいたい「自分の父親の隣りにいる優秀なやつ」って時点でコンプレックスを刺激されないわけはないよな。「ベイビーわるきゅーれナイスデイズ」における冬村かえでがお互いに出会わなかった場合のちさととまひろだったように、天内もまた「成功していた真中」だったと言えるでしょう。
 真中=天内の構図は、ラストバトルに敗れた天内が悔しがる姿が真中と同じなのにも明らかに現れていると思います。
 本作を見る前に地下の待合室の掲示を見たんですが、そこには「RRRのナートゥ、トワイライトウォリアーズの硬直!のようにミーム化しないとアクション映画は話題になりにくく、アクション映画のキモであるアクションはただ単に『すごい!』『かっこいい!』で終わってしまいがちで感想が言語化されにくい」とありました。
 わたくし人形使い、このミーム化による流行って好きじゃないんですよね。RRRにしたってニュースで取り上げられるのはナートゥだけで、あの作品の奥底にある物語にはほっとんど触れられていない。
 確かに映画に限らずフィクションにはキャッチーなシーンやセリフが必要でしょう。でもそれだけを連呼するのは作品の楽しみ方としてあまりも雑で空疎だと思います。だからこそこんな時間まで延々と感想を言語化してるんだよ。決してミームや語録なんかで自分が感じたことを出力した気になんてなるものか。
 以前書いた「ベイビーわるきゅーれ2ベイビー」「ベイビーわるきゅーれナイスデイズ」の感想でも書きましたが、阪元監督作品におけるアクションは単なる殺し合いなどではなく、「普通の社会」に適合できなかったコミュニケーションなんですよね。
 真中、国岡はもちろんのこと、陸斗や天内も殺し屋なんていう家業に手を染めているからにはやはり社会に適合できないなにかがあるんでしょう。特に陸斗についてはあの性格だし、実家で奥さんの姿も見えないところから見ると家庭環境も……と察せられます。
 そしてこの両者の確執が本作の軸なんですが、真中は殺し屋の道を諦めて実家で父の支配下に下り、国岡は二人のケンカを最初は「まあまあ話し合いましょう」と話し合いをしようとします。まあ当然それで収まる話ではないんですよね。
 じゃあなぜそれで収まらないかというと、それは「普通の社会」のコミュニケーション手段であって彼らのミュニケーション手段ではないから。言い換えれば、戦いこそが彼らにできる唯一の社会、他者との向き合い方だから。
 あのラストバトルは、彼らの精一杯のコミュニケーションです。うわべだけなら言葉でなんとでも取り繕えますし、真中はまさにそうして来ました。しかし、原始的な肉体のぶつかり合いでは嘘はつけない。あれこそ正直な話し合いなんですよ。
 そしてそこで真中が頼ったのは、これまで自分を誤魔化していた酒ではなく、国岡たちとの過酷なトレーニングで身につけた技、そしてかつて父から教えられた技でした。誰かを、なにかを頼るのは間違ってはいない。頼るものを間違うだけ。
 そして真中は今度こそ頼るものを間違えなかった。真中の勝因は強くなったことではなく、誰かを打ち負かしたことでもなく、頼るものを間違えなかったことだと断言したい。
 これ、さっきも書きましたけど、真中が独力で強くなって勝つルートもあったと思うんですよね。しかしそれをやったら真中は、孤独の怪物たる冬村かえでになってしまう。でも真中にはなんだかんだ付き合ってくれる国岡たちがいる。
 そして真中と陸斗もまた、和解……ではなく適切な距離を取れるようになる。和解ではないのがポイントです。これもまた社会=他者と自分なりの折り合いですよね。
 こうして書いていて思うんですが、阪元監督の作品はアクション映画であると同時にコミュニケーションの話であると毎回思います。そもそもアクションというのは人と人とのやり取りなので、広い意味ではコミュニケーションと言えますよね。「肉体言語」って言葉がありますが、阪元監督の描くアクション、戦いはまさに言語です。だからこそ戦い=話し合いを経てこの確執が収まったわけですから。
 誰も彼もが不器用なんですよね、殺し屋たちは。だからこそ共感してしまう。
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塚口サンサン劇場「フレイムユニオン 最強殺し屋伝説国岡 私闘編」見てきました!
初公開日: 2025年10月28日
最終更新日: 2025年10月29日
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