二話 高貴な白猫
 銅矢は高架下を覗き込んでいた。それも身を限りなく低くしているのに、同行している吸血鬼対策警務本部の先輩は怪訝な顔をする。
 「何してんだ銅矢」
 現在は日の高い時間帯である。日中であるが、コウモリ女の調査をしに来たのだ。目撃情報が相次いでいる高架下や、新宿駅付近の線路、そして車両の収容庫を巡る予定である。高架下を覗き込む銅矢は、意図があるものの意味があるようには見えなかった。だが熱心に彼は高架下を覗き込んでいる。
 「いや、いつもならお嬢さんがいるはずなんです」
 「お嬢さん!?」
 銅矢は若くして吸警にいるエースである。まだ防衛大学が無い時代であるので、高等学校を出て直接採用された若者である。戦後で疲弊しながらも前を向いている日本において、男女の交わりは営みとして当然のように繰り返されている。
 それでも仕事一筋の銅矢が、お嬢さんだと!? 先輩の興味は一気にそちらに向かった。だが逢引きにしても銅矢はどうにもおかしい体勢である。女性と逢引きするのにはあまりにも体勢が低いのだ。銅矢はそれでも熱心に高架下を覗いている。もしかしたら特殊な逢引き方法なのかと先輩はまだ疑っていたが、銅矢はいないなと口にした。
 「おっかしいな…今日はいないのかな」
 「今日はって、約束したんじゃないのか」
 「約束はしてません。約束したって、聞くような子じゃないんで」
 銅矢はごそごそと身を動かしている。這いずるように地面を見ている。異常な女性を相手取っているのかと、先輩は思わず口を滑らせた。
 「お前そんな奔放な女性と付き合ってるのか? それに高架下で待ち合わせなんて、人目避けるのにしても意外過ぎるだろ…日の元で会えない人か? にしたって、もっとカフェーとか、まともな場所で待ち合わせした方がだな。銀座にいい店があるらしいし」
 「あ、いたいた」
 「聞いてる?」
 銅矢が弾んだ声を出すので、先輩は呆れたように銅矢の方を見やった。薄暗い高架下に、白いものが何かいる。だが人間にしては小さく、毛玉のように見えた。銅矢がちっちっちと、唇を尖らせて音を立てて指をくいくいと動かして呼ぶようにした。
 「お嬢さーん。ほら、前も会っただろ。お嬢さんおいでー」
 先輩は覗き込んだ。その白いものは、若い女性の肌か着物の可能性も捨てていなかったが、やはりどうにも小さい。腕で抱えられる大きさである。その白いものの中かから、青い瞳がきらりと光ったのが分かった。猫である。白猫である。
 「お嬢さーん」
 銅矢の声がでれでれとしている。猫は警戒しているのか、それとも怪訝な顔をしているようであったが静かに音を立てずに銅矢に近付いて来たのだった。
 「お、来た来た。先輩静かにしててくださいね」
 銅矢は小声である。そうしている間に白猫はずんずんと近付いて、ついには手袋をはめた指先をふんふんと嗅いだと思うと、ころんと目の前で寝転がったのだった。愛らしい仕草である。先輩から銅矢の顔は見えないが、紅潮して感激しているのが息遣いで分かった。
 「せんぱい…凄くないっすか…ここら辺じゃお嬢さんは有名なんですよ…やべぇ二回目なのに、こんな…こんな」
 語り尽くす銅矢に、先輩はますますあきれ顔だ。猫かよ。女性との逢引きではなく、猫かよ。だが銅矢らしい。白猫は銅矢の手袋をぺろぺろと舐めたと思うと、もう用はないとばかりに身を翻し、あっという間に高架下からどこかへ行ってしまった。残された銅矢は、舐められた手袋を大事な物のようにぎゅっと握り締める。
 「もうこれ洗わない…」
 「洗えよ、汚いよ」
 白い猫は美しい見た目をしていたが、結局は野良猫である。だが銅矢は、人気歌手に手を握られた信者のような顔で舐められた左手を右手で握っている。銅矢が女性にうつつを抜かしていない事に先輩は安堵はしたが、たかが猫ではないかという思いは拭い去れない。だが白猫がいる以外は、高架下に何か異常は見当たらなかった。ここはコウモリ女の狩場ではないのかもしれない。目撃情報はあるが、移動しているところだったのかもしれない。吸血鬼特有のにおいがここには無いのだ。先輩は手帳にメモを書き込むと、まだ猫を探してる銅矢に声を掛けた。
 「行くぞ銅矢。次だ」
 「はいはい、行きましょ行きましょ!」
 「お前機嫌良いなあ…」
 しかし猫が目的だったとはあきれるばかりだ。今は仕事中である。機嫌が良いのはいいが、コウモリ女の日中の調査だ。後で兼東司令に報告しておこうと先輩は心に決めて、次の場所へ向かうのだった。
 次に彼らが訪れたのは新宿駅付近の線路である。ターミナル駅として現代でも世界最大の規模を誇る駅である。この時代でも、関東大震災後に利用が急増して主要駅として人々が忙しなく行き交う場所だった。線路付近には柵が無い。侵入しようと思えば出来るが、危険なので誰もしないだろう。だが、コウモリ女の目撃情報は出ている。だが線路付近はたくさんの電車の行き来があるからか、定員オーバーの電車の、鉄が軋むような音や線路のにおいに阻まれて、吸血鬼のにおいは感じられない。
 先輩はまたメモ書きをした。
 「ここも移動してるだけのようだな」
 「んーそうですね。なんというか…」
 「なんだ、何か気になるのか。そういえばお前、入隊してからすぐに分かったらしいじゃないか。鼻がいいのは得だな」
 「ま、俺それなりに天才なので」
 銅矢はふふんと得意げである。その顔を先輩は横から小突いた。だが、本当に何のにおいもしないのである。新宿駅付近には目撃情報が集まっているはずだが、吸血鬼の存在は感じられない。
 吸血鬼は、常人にはない血のにおいを纏わせていると言う。それも独特な血のにおいがする。どんなに洗い流しても、そのわずかなにおいを嗅ぎ取るのが吸警の最初の任務である。銅矢はそのにおいには敏感な方であり、この新宿駅には彼に分かるわずかなにおいがあった。
 「でも、においはしますよ。ほんの僅かですけど」
 「本当か?」
 「ええ、でも地面に沁み込んでるっていうか…歩いた跡みたいだ」
 「お前、錆びた電車のにおいと勘違いしてるんじゃないか?」
 「違いますって。…忘れませんよ、吸血鬼のにおいは」
 銅矢は思い出す。デルウハの別宅でむせ返るばかりに嗅いだあのにおいの事を。薔薇の濃い香りの向こうにある、濃密な血のにおい。デルウハはどうやっているのか分からぬが、高位の吸血鬼はそのにおいを自在に操ることが出来るようだ。その香り高いにおいとは、新宿駅のにおいは違っていた。血をすすり、生きながらえている獣のようなにおいである。野犬や野良猫の被害が出ているので、獣のにおいがするのだろうか。それが線路から、駅舎に向かうと段々と強くなってきた。
 獣のにおいが鼻に付いて、銅矢は鼻をこすりながら言う。
 「コウモリ女は…新宿駅で何かを探してるんじゃないでしょうか。においが、結構至る所にあります」
 「うん。線路付近はちょっとまぎれてるが…駅舎のあたりは強いな」
 先輩は手帳に書き込んだ。駅舎の周辺をべたべたと歩き回ったようなにおいだ。常人には感じられないにおいだが、それでも獣臭か時折顔を顰める利用者の姿がある。コウモリ女は、噂では生き血をすする他に自治警の警官を襲った。それ以外の被害は今のところ出ていないが、まるで新宿駅に強い執着があるようである。この駅に、何かあるのだろう。だが今は何も分からない。
 続いて、銅矢は先輩に連れられて列車の収容庫に向かうのだった。迎え入れてくれた国鉄の職員は、うだつの上がらない風貌の三十代ほどの男性だった。ぺこぺこと二人に頭を下げる。
 「ああ、来てくださってありがとうございます。もう怖くて怖くて、夜の見回りが中止になればよかったんですが…」
 「中止ではないんですか?」
 「二人一組で行く事になりまして」
 国鉄の職員は苦笑いだ。吸血鬼の被害が出ているのに、休むという選択肢が無いのが発展途上のこの国らしい。今のところは警官以外に襲われた者はいないが、国鉄の職員が割を食っているのは火を見るより明らかだ。彼らがコウモリ女を怖がっているのもよく分かった。銅矢は収容庫を見回す。においがする。天井にもにおいがする。だがそれは飛んだというよりも、手や足の形でべたべたとにおいが残っていた。もしかしたら這って歩いたのだろうか、天井を。それは人間業ではない。
 「しかし、なんでコウモリ女なんでしょうね」
 「え?」
 銅矢の素朴な疑問に、国鉄の職員はすっとんきょうな声を上げた。先輩が銅矢を小突く。だが国鉄の職員はりちぎに、ああと納得したように声を上げた。
 「7月に亡くなった方と似てるから…だそうですよ。落下事故で亡くなった若い女性がいたんですが、そのご遺体にコウモリが群がっていたんだそうです。そのご遺体が、無念の思いで蘇って来たというから、コウモリ女。ははは、怖いですよね…」
 饒舌なのは恐さを隠す為だったようである。国鉄職員は愛想笑いをする。銅矢は納得したように頷いた。
 「ああ、そうなんですね。ありがとうございます、新聞にも載ってなかったから」
 「銅矢」
 先輩がまた銅矢を肘で打つ。今度は強めにである。余計な事をするなと言う事だろう。銅矢はぺこりと頭を下げる。国鉄職員も頭を下げた。国鉄側がかなり怯えているのはよく分かったが、日中は何故か現れないと言うのがコウモリ女の特徴だった。日中に探し回ったものの、においだけで欠片も見つからなかったので、二人は一旦調査を終了して戻る事にする。
 もし出会ったのなら、二会敷に託された銃で討伐する予定であったが、彼女の姿はとんと見えない。また夜に調査に参りますから、と言付けして銅矢は極力明るく職員に言った。そこで、必ず討伐しますからと告げる。だが銅矢の言い方が少し軽々しかったので、職員は愛想笑いを浮かべるだけだった。泣いて感激されると思ったのに、と銅矢が首を傾げるのに先輩がさらにその頭を小突く。先輩に頭を下げさせられて、二人して礼をして収容庫を去って行くのだった。
 「仕事とはいえ大変ですね。吸血鬼がいるのは分かってんのに」
 「まあ電車を止めるのは難しいんだろうよ。年々利用者も増えてるし、儲かるなら止めないわな」
 「ふーん。まいいや。先輩、先帰りますよね?」
 先輩は、銅矢の言葉に嫌な予感がして顔を顰めた。
 「お前、なんか企んでるだろ」
 「いやだなあ、違いますよ。ただお嬢さんにもう一度会ってきますんで、まあ報告書はうまいことお願いします!」
 「お前なぁ…」
 銅矢はお願いします!と両手を合わせる。その子供のような請う仕草に、先輩は呆れて何も言えないようであったが、もう勝手にしてくれと追い立てるように手を振る。その動作を見て、銅矢は了承を得たのだと勘違いし、にこにこと笑ったのだった。
 「あざっす! じゃお願いします!」
 そう言って銅矢は、軍服のままうきうきと小走りで駆け出すのだった。猫に会うためにである。おいおいと先輩はいよいよ呆れ果てるのだった。
 先ほど会った高架下はもういないであろうと考え、その周囲で猫が好きそうな空き地にやって来る。そこで銅矢は珍しい人間と出会った。にこであった。麻の薄物を着て、和装である。にこは銅矢に眉を顰めた。銅矢も同様であった。
 にこは、吸血鬼であるデルウハの眷属である。飢餓状態であった少女を引き取り、力を与えたのだ。人間ではなく吸血鬼である。彼女らはデルウハと生活を共にし、彼を守るために存在しているのだ。かつて銅矢はにこと、にこの姉妹である者達(ハントレス)と対峙したことがある。その際、銅矢はハントレスの命を奪わなかった為に足を掬われてしまったのだが、互いに敵対していることは間違いない。だがここは人前である。いくら敵対勢力であっても、ここで殺し合いはしない。
 おまけに銅矢は空き地に生えていたエノコログサを持っていて、にこは手拭いに包まれた削られた鰹節を抱えている。彼らの目的は一致しているように見えた。猫の為であるかのように見えた。にこはふんと鼻を鳴らした。
 「何やってんの、大人なのに」
 「いいだろ別に。そっちこそ、屋敷を出て何やってるんだ」
 「にこはいいの。にこは自由なんだから」
 ふふんと少女は得意げである。彼女はそういう気質なのだ。どこか周囲を小ばかにしたような態度を取る。だが顔が愛らしいためか許されているようだ。にこは手拭いから鰹節の削ったのをひとつかみすると、空き地の中央にぽんと置く。そうして鰹節からそろそろと離れた。銅矢はエノコログサを振りながら、静かに声を掛ける。
 「お嬢さーん。お嬢さん」
 「みーちゃん、鰹節だよ~みーちゃーん」
 彼らは猫を探し始めた。この空き地には草むらがあり、中に猫がいるかもしれないと思われる。だから鰹節や、エノコログサで引き寄せたいと考えていたのだ。ここはあの白猫がやってくる場所である。他の猫もいるのか、じりじりと灰色の猫が寄って来たのに一瞬顔をほころばせるが、すぐに違う猫だと顔を引き締める。浮気は許されないのだ。猫とはそういう生き物である。鰹節は灰色の子になめられて、次第に量を減らしていった。にこは慌てて鰹節を追加する為に駆け寄る。だが猫は鰹節の人だと認識したのか、にこから逃げようとしなかった。しょうがないと思いつつ、猫に鰹節をやる。だが、にこの目当てはどうやら別にあるらしい。三毛猫がすり寄って来たが、あまり顔を嬉しそうにしない。猫に囲まれてるのだから、銅矢は嬉しそうにすればいいのにと思うのだが…その時だった。
 にゃあ。
 「みーちゃん…」
 「お嬢さん!」
 
 にこと銅矢は同時に顔を上げた。そこに、あの白猫がいる。銅矢がお嬢さんと呼び、にこがみーちゃんと呼んだ猫がいた。二人は同時に目標が同じだと分かり、同時に互いに睨み合うのだった。
 「変な名前つけないでよ」
 「変な名前ってなんだよ、みーちゃんだって変だろ? あの子は他の猫と違うんだよ!」
 「でもお嬢さんってなに? 変だよそんなの。さ、変な奴は置いといて、みーちゃん。おいで~」
 「あ、ほらお嬢さん。こっちで遊ぼうな?」
 銅矢とにこは同時に白猫に迫り始めた。白猫は手をくしくしと舐めて傍若無人である。二人と同等の距離を取っている。だから二人はほぼ同時に、エノコログサを、鰹節を手にしながら迫っていく。白猫はその動きをじっと青い瞳で見つめていたが、じりじりとにじり寄る人間二人に嫌な空気を感じたのか、白猫は身を翻して草むらの向こうに行ってしまったのだった。
 「あああああ!」
 二人同時に嘆きの声を上げる。猫は気まぐれである。どちらかが悪いと言う訳ではないが、白猫の気分ではなかったのだろう。だが二人は、互いが悪かったのだろうと互いを睨み合った。
 「あんたのせいだろ!」
 「あんたのせいだから!」
 猫はもう戻っては来ないが、二人の溝は深まるばかりだ。エノコログサを集まって来た猫に向けて、鰹節をとりあえずばらまいて、傷心したのを他の猫で紛らわせるばかりである。あの白猫には不思議な魔力があるらしい。だがそれ以上いがみ合う事も無く、二人は空き地をとぼとぼと後にするのだった。
 「あんた当番ほっぽりだしてどこ行ってたのよ! 鰹節もなんか削られてるし!」
 「お前、先輩に全部放り投げて女に会いに行ってたそうだな?」
 結局にこは屋敷に戻るやいなや、姉妹であるよみに詰められ、銅矢は兼東司令にこってり絞られているのだった。だがとりあえず銅矢は今晩に収容庫に向かう予定である。先輩がまとめてくれた報告書を読むのだった。
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