鯨と一緒に泳いだ事がある。僕という小魚の生涯、唯一それだけが誇りだった。
 前後左右、何処を見渡しても果ての見えない海。その永遠に続いていきそうな青い水の中が、僕の世界の全てだ。
 広い海を泳げば、しばしば恐ろしい敵と出会う。鮫や鯱、鰹なんかの事だ。あんなに大きい魚に出会えば、小魚なんて為す術がない。だから僕たちは寄り集まって、自分たちを大きく見せるしかない。それで敵わないと思って逃げてくれれば良し、見抜いて襲いかかられても、一斉に散らばって逃げれば良い。勿論何匹かは食べられるけど、自分じゃなければ良い。もし自分が狙われたら? そうなったら終わりだ。死ぬのが怖くないワケじゃ無いけれど、僕が死んでも誰も困らない。だからまあ、その時はその時でしかない。
 そうしてただ、無数の中の一匹として、理由もなく生きていた。そんなある時。
 海流に流された僕は、群れからはぐれてしまった。生まれていつ振りか、一匹になってしまったのだ。
 この時ばかりは流石に僕も焦った。天敵に襲われて散り散りになるのは何度もあったけど、あまり遠くに行き過ぎなければ、また同種の仲間とすぐ巡り会えたからだ。何しろ僕たち小魚は、数だけは多いから。
 だけど、海流に流されるのは別だ。今自分が何処にいるのかも分からないから、同種の仲間がいるかどうかも分からない。もしいなければ、生まれ育った所から遠く離れた海で、一匹だけ。鮫にとっては日常である『一匹』という状況が、僕にとっては恐怖でしかなかった。
 暫く、当てもなく泳ぎ回った。だけど海というのは、前後左右を見渡しても同じ色が映るだけ。今何処にいるのかなんて、分かる筈も無い。やがて無駄に泳いでも天敵に見つかるリスクが増えるだけだと気付いた僕は、岩の間で貝のようにじっとしていようかと思った。そうして下に泳いでいこうとした時――俄に、上に暗い影が差した。見上げると、見たことも無いほど大きな魚が泳いでいた。僕の同種が全員集まっても、この魚より大きくは見えないだろう。あんなに大きくて恐ろしかった鮫が、僕と同じ存在に見えるぐらい、圧倒的な大きさだった。
 その魚を見たとき、何故か僕は『逃げよう』とは思わなかった。非現実的とさえ言えるサイズを前に、現実的な思考を無くしていたのかもしれない。とにかく僕はその魚をもっと近くで見ようと思い、再び上へ泳ぎだした。その時――その大きな魚は、身体を翻した。そうして偶然、僕と目があった。
 綺麗な瞳だった。鮫や鯱のギラギラした目とは全然違う、優しさを宿した目だ。僕らは暫く見つめ合い――やがて、大きな魚が口を開いた。
「キミは、随分小さな魚だねぇ。キミの種族は普通仲間と泳いでいる筈だけれど、どうしてキミは一匹だけなんだい?」
「はぐれちゃったんだ。僕、自分が何処にいるかも分からないんだ」
「そっかぁ。それは大変だねぇ。鮫なんかに見つかっちゃったら、パクンと食べられてしまうよ」
 彼は心から同情したように言った。目を見て思った通りに、優しいようだ。
「キミさえ良かったら、僕と一緒に泳ぐかい? 僕はこの身体だから、鮫も逃げて行くんだよ」
「良いの? 僕からすれば有り難いけれど……」
「構わないよ。同族ともあまり会えないから、ちょっとだけ寂しいんだよね」
 僕は彼の横に並んで、一緒に泳ぎ始めた。彼の動作はとてもゆっくりだけれど、大きな鰭を一つ動かすだけで、凄い勢いで前へ進んでいく。だから僕は、必死に泳がないとついて行けなかった。けど、それに気付いた彼はすぐに、出来る限りゆっくりと泳いでくれた。
 そうしてゆっくりと泳ぎながら、僕は色々話をした。彼は『鯨』という種族で、実は魚じゃないという事。その証拠に、彼にも鰓が無く、背中を水面に出して呼吸をしている事。
 そして彼の食料が、僕のような小魚だと言うこと。
「じゃあ、どうして君は僕を食べないんだい?」
「もうお腹一杯だからねぇ。それにこの図体だから、一度に沢山食べなくちゃいけないんだ。キミ一匹を食べる為に大きな口を開けていたら、却ってお腹が空いちゃうよ」
「僕は運が良かったよ」
「そうだねぇ。でも、運が良かったのは僕も同じだよ」
「どうしてだい?」
「僕を見て逃げなかったのは、キミが初めてなんだ。実は僕、同種とも殆ど逢った事が無いんだ。だからこうして誰かと話す事もあまり無かったんだ」
 そうして僕を見つめる彼の目は、何処となく寂しそうだった。
 言われてみれば、確かに僕は話し相手には困らなかった気がする。昨日話した相手と明日は離ればなれ、なんて生き方を続けているから、心の底から気持ちを話し合ったり、なんて事はしなくなったけれど。
 彼と泳いでいる間、僕は周りの事がまるで目に入らなかった。何百という群れにいても、常に天敵におびえていた僕が、ただ目の前の事にだけ集中出来たのは、これが初めてだった。まるで世界中で、僕一匹が特別な存在だ、と思えた。ただ鯨と泳いでいるというだけで、自分が強くなったように感じたんだ。ひたすら目の前の現実に振り回されていた僕だったけれど、きっとあの感覚が『夢見心地』というものなんだろう。
 だけど、夢はすぐに覚めてしまうものだ。僕が彼と泳いでいた時間は、ほんの数時間だけだ。
 共に泳ぎ続けて暫く経つと――目の前に、彼のように大きなシルエットが見えた。
「ああ……僕と同じ鯨だ。やっと逢えた……」
 同族を目にした彼は心の底から嬉しそうに目を開いていた。そうしてすぐに、今までのスピードがウソみたいに機敏な動作で、前へ前へと泳いでいった。まるで僕の事など、最初からいなかったみたいに。
 『現実に引き戻される』というのは、暖かな黒潮から冷たい親潮にたたき込まれるようなものだ。僕にとって夢のようなひとときは、彼にとってすぐにでも忘れてしまえる些事なのだ。
 そうして僕は一匹に――ならなかった。すぐ側に何百匹という同族の群れがいたから。彼らは一匹でも仲間を多くして大きく見せたいから、僕を拒む事は無かった。
「あの魚、凄く大きいぞ。見つかったらきっと、一息に食べられてしまう」
「逃げよう逃げよう」
 誰が示し合わせた訳でも無く、僕らは一斉に同じ方向に逃げ出した。鯨の彼に別れを告げる暇も無かった。
 あれからどれだけ時間が流れただろう。何度も群れを散らして合流して。数え切れない程繰り返して、まだ僕は生きている。
 だけどあれから、僕は隣の一匹と話をするようになった。鯨の彼が長い間泳ぎ回ってやっと出会えた同族が、僕にはこんなに沢山いる。それはきっと、運の良い事なのだ、と気付いたからだ。
 僕はきっと、何も特別な魚じゃない。鯨の彼も、僕の事を一生思い出す事もないだろう。だけどあの夢の時間を、今でも僕はよく夢に見る。
 彼以来、鯨を見かけた事は無い。こうして泳ぎ続けていれば、いつかまた逢えるかもしれない。そんな取るに足らない夢を見ながら、僕は大海原を泳いでいく。
 
 来世は鯨に――せめてイルカになれますように。
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笑藁
完成しました。ありがとうございました。
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向き
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3日小説
初公開日: 2024年12月08日
最終更新日: 2024年12月08日
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