はい今日も映画です。だって見に行かないと上映が終わってしまうから。そして外出しないとメンタルが悪化していくだけだから。
 というわけで今日見てきたのは「動物界」!
 写真はスマホのバッテリーが切れてたのでなしです。
 舞台は原因不明の突然変異で人間が動物の姿になっていく奇病が蔓延している世界。動物の姿になった人間の治療法は確立されておらず、「新生物」と呼ばれるようになった動物化した人間は施設に隔離されていました。
 主人公エミールとその父フランソワも、動物化していく母を病院に入院させているものの、その状況は好転しないまま。そんな中、護送中のトラックが事故を起こし、中にいた新生物が逃亡してしまうという事件が発生。その中に妻がいる可能性に突き動かされて捜索を続けるフランソワに戸惑うエミール。しかし今度はエミールに動物化の兆候が見えはじめ……。
 例によって例のごとくわたくし人形使いはポスターとトレーラー以外の情報はカットして見に行きました。というか監督の名前も全然知らずに予告から漂ってくるフェロモンを信じて劇場にゴー。
 結論から言うとかなりいい作品でした。
 まず目を引くのは予告でチラ見せしてた動物化した人間のショッキングなビジュアル。こういうのは本編でもチラ見せだけで終わったりちょっとしか出てこなかったりすることもよくあるもんですが、本作ではしっかり見せてくれました。
 そのビジュアルがまたいい。本作における「新生物」のビジュアルは大きく分けて動物になりかけの状態とほぼ人型の動物に変化し終わっている状態の2種類ありますが、どちらも不気味さや生理的嫌悪感と同時にある種の美しさを感じます。
 映画におけるクリーチャーデザインと言えばみんな大好きH・R・ギーガーのエイリアンの一人勝ちなんですが、本作のクリチャーデザイン、特になりかけの状態のビジュアルはかなり強烈。特にショッピングモールでのタコ人間のビジュアルは、人間部分と動物部分のアンバランスさが際立っててSAN値が下がりそう。
 反面、エミールと深く関わることになる鳥人間フィクスが翼を広げて飛ぶシーンにはある種の神々しさがありました。やはり「人型の生物が翼を広げて飛ぶ」というビジュアルには否応なく宗教的神聖さを感じます。
 また本作は、主人公エミールの肉体が少しずつ変容していくというボディホラーの側面もあるんですが、この変容のスピードが非常に遅いのが印象的。最初は背骨のあたりに獣毛が生えてきたり牙や爪が生えてきたりするところから始まるんですが、どちらかというと内面的な変化の方が進行していくのが意外でした。結局エミールは最後まで外見的には人間の姿のままなんですが、これには明確な意図を感じました。
 本作は上記のようなビジュアル面のインパクトが強いのでそういう方向性の作品だと思ってましたが、見終わった後にはまったく異なる感想を抱いていました。
 本作はかなり直球の親離れ・子離れの物語だったと思います。
 それは本作の中心人物となるエミールとフランソワの親子関係にあらわれています。冒頭でのふたりのようすは険悪とはいかないまでも息子の行動にあれこれ口出ししたがる父親とそれに反抗する息子という、どこにでもある普遍的な家族の姿でした。そしてそこには母親というファクターが欠けているので、父フランソワの言動はかなり支配的・抑圧的です。いっぽうのエミールのほうも家族は父しかいないので家庭内に味方がおらず、学校でも転校生であり2ヶ月ほどしか在学しないことから周囲から浮いている感じ。これもまた普遍的な思春期の少年の姿でしょう。
 そして前述の通りエミールは少しずつ動物化していくわけですが、これは思春期を経て親からの精神的な離脱を遂げようとする姿に見えました。
 動物化していく姿を親に見せられないエミールは、逃げ込んだ先の森で鳥の新生物・フィクスと出会います。家庭や学校以外の新しいコミュニティ(というほど人数は多くありませんが)への参加可ですね。次第に動物化していくエミールは、事情を打ち明けられない父よりもむしろ自分と同じ新生物であるフィクスに感情移入していきます。
 そもそも考えてみると、「歯が抜ける」「体毛が生える」といったようなエミールの体の変化ってまさに乳児期や第二次性徴期といった体の変化そのものなんですよね。
 そうした変化を経て、エミールは次第にひとりの人間として父との対等な対立関係を経て互いの事情を理解し合うようになります。
 このエミールとフランソワの関係の変化こそが本作のキモであり、ボディホラーとしての側面は明らかに表面的な部分に過ぎないと感じました。
 その証拠となるのが冒頭とラストシーンの対応。冒頭でフランソワはエミールが車の中で塩分と添加物を多く含んだポテトチップを食べるのをやめさせようとし、また口論に苛立ったエミールが車外に出ていくのを止めようとします。対してラストシーン、動物化が進行してきたエミールを車に乗せて警察から逃げるフランソワのシーンでは、フランソワは食性が変わって人間の食べ物を受け付けなくなったエミールに対してポテトチップを貪ってみせ、エミールを警察から逃がすために車外に追い出そうとします。この行動の対応と変化は非常にストレートにふたりの関係が変化したことを表現している点でしたね。
 また、本作における「人間の動物化」には、「人間社会や人間関係というくびきからの脱出」という意味が込められているとも思いました。人間側は動物化した新生物たちとの共存や共生を唱えている団体もあるものの、新生物たちは一貫して人間から逃げる、人間社会から脱出するという行動をとっています。よくある怪物化とはことなり、新生物はその行動や姿こそ動物的ではあるものの、肉体が大きく変容してもしばらくは人語を話せたり意思の疎通はできたりするんですね。それでも彼らは人間社会から逃げようとする。
 そしてその人間社会に目を向けてみると、男女差別や人種差別をはじめとする問題が当たり前に根付いており、親子間ですら相互理解は成り立っていない。安住の地とは程遠い場所なわけです。
 反面、新生物たちが多数逃げ込んでいる森の中はどうでしょうか。楽園と表現するには足りませんが、そうしたくびきはなく、彼らはただ純粋にそこで行きている。決定的なのが森へ逃げ込んだエミールと母、母であった新生物の出会いです。ここでエミールは大きな犬の姿をした新生物を母とは呼びませんし、その大きな動物は自らを母とも言いません。しかし、このシーンのふれあいは明らかにどんな言葉よりも彼らが親子であることを証明しているんです。冒頭、まだ母が入院中の時は怖さや気まずさがあってかろくに母に声をかけられなかったエミールに対し、ラストシーンのエミールはまさに子犬のように鼻先を擦り付けて母に甘えます。これが親子の姿でなくてなんなのか。エミールは父親との和解とそこからの開放によって母と真に再開できたんだと思います。
 ラストシーン、森に隠れ住んでいた新生物たちは警察や軍の包囲によってひとり、またひとりと捕まっていきます。その中を人間のほど姿を保ったままオオカミの咆哮を上げて疾走していくエミールの姿にはある種の羨望を感じました。
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大阪ステーションシティシネマ「動物界」見てきました!
初公開日: 2024年11月12日
最終更新日: 2024年11月13日
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