閑話休題③
足は果てしなく歩けるだけの気力があるのに、目の前の世界は常にグルグルと回っている。足は水平を踏みしめているはずなのに、目は勝手に右回りに上から下へ渦を描いてぐるぐるぐるぐる、ぐーるぐる。
本来あるはずの平衡感覚を失ってしまったと分かる。頭の奥が痺れてあるいは侵されて、眩暈が起こっているのだろう。所は口元を抑えた。人が寝静まった深夜である。
かつて槍ヶ岳にある研究所で二代目所長を勤めていた彼は、終焉世界の手前でデルウハという人間に命を奪われ、平穏無事な日本に生まれ変わった。まだ二十歳そこそこの大学生である。若い身だが、若いからこそ眩暈というものは激しく襲い掛かることがある。ある程度の事は鈍いまま進められるのは生命力があるからだ。そして今、若い所は激しい眩暈がするがどうにか立てないか試みてみて…それも若さ故の過信で試みてみて、諦めた。かなり酷い眩暈である。だがしかし、眩暈がする時に限って人間は排泄行為をしたくなる。
トイレに向かいたい、と所は思った。小便の方が我慢出来そうにないのである。生理現象だが我慢しようと思えば我慢は出来る。眩暈だから無理だと言い聞かせればなんとかなる。だが若い体は排泄行為をしたがっていた。我慢出来ないと判断し、所はロフトを這いずり始める。彼が眠るのはロフトである。寝所を出れば、まず降りるための階段がある。無理ではないかと自問自答したが、排泄行為が差し迫っている。どうにかせねばと階段を手で掴んだ。
立ち上がらねば降りられぬ。眩暈がグルグル視界を回しながら、平衡感覚を失った足は必死に階段を踏んだ。まずは一段目である。一段目を踏みしめなければ、二段目に降りられぬ。足に力を込めて何度も階段の感触を確かめるが、その一方で天井が回るので吐き気が催してきた。トイレに向かう理由が増えてしまう。がたん、がたんと音を立てながら酸っぱい生唾を飲み込み、所が二段目に足を掛けた時であった。
「何してる」
所の腰が何者かに掴まれた。温かい手だった。まだ天井はグルグル回っているが、体が支えによってほんの少しの重力に逆らったことで、何故か眩暈が少しだけ収まる。だが、酸っぱい生唾はまた飲み込んだ。くらくらとした所が何も答えないでいると、ぎしっと誰かが階段の一番下の段を踏みしめたのが分かる。そうして二人分の体重を支えた階段の上、何者かの手は所を掴むと一気に下ろしてくれた。背が温かい体に包まれる感覚がする。よろめく体はなんなく何者かに捕まった。だが所はあまり警戒しておらず、発熱にうなされる頭を何者かに向ける。そこにはデルウハがいた。
同じように平穏無事な世界に生まれ変わった彼である。所は生唾を飲み込むとなんとか喋り始めた。
「デル、ウハ殿…」
「調子が悪そうだな」
「すみませ、トイレに…」
排泄がしたい。胃の中身を全て吐き出したい。その願いが伝わったのか、デルウハがほとんど抱えあげてくれて難なく所はトイレへと向かう。ワンルームなのにトイレが玄関横にあるのは不便であった。そこに辿り着き、白い便器が見えると所は急に吐き気を覚えて口を手で押える。
「トイ、レ」
「大か小か」
「しょ、小です。う、ぇ……」
「吐きそうなんだな?」
デルウハの問いに所はこくこくと頷いた。そこでぼんやりとしていたから良くなかったのか、所は気が付くと下半身は露出させられて、くたりとした性器もデルウハに掴まれていた。このまま排泄しろということだろう。
「え、」
「出せ」
「…恥ずかし、くて出ません」
「介護みたいなもんだろ。前のあんたの年齢じゃ」
「そこまで耄碌してませんもん…」
拗ねたような所の物言いだが、背に腹はかえられぬのか排泄はした。トイレが流されて、デルウハが所を抱えたまま洗面所で手を洗うし洗ってもらっている途中、ぐらぐらと揺れる世界に吐き気が戻ってくる。咄嗟に洗面台を抱えるように、おええと所は生唾を吐き出していた。
「重症だな。所長、俺の指が見えるか」
デルウハは親指を突き出すと、所の視界に映す。唾を吐き出して涙で潤んだ所は、なんとかその揺れる中で指を見た。
「集中しろ。じっと見ろ。それ以外考えるな」
眩暈の際の対処法である。所はじっとその手を見ながら、それでも回る世界に、この程度では無理だと考えながらも、他にやることもないためじっと見つめる。無理だと思いながら、それでも指を見つめていると、次第にグルグルは収まってきた。所が落ち着いてきた所で、デルウハは所を抱えあげた。
「大丈夫か」
「はい…少しですが収まりました…」
所は腕の中で弱々しくだが答える。気休めの嘘ではなく、本当に先程よりマシになったのだ。デルウハの首にもたれ掛かり、所は目を閉じてみた。デルウハは来客用の布団で、ソファーをどかした場所で眠っていたのだが、そこに所を横たわらせて隣にデルウハも入り込む。所は感染の懸念が頭をよぎらなかった訳では無い。ふと何気なく思い出したのは、所長であった頃の出来事だった。
一度だけだが、デルウハが来てから風邪を拗らせてしまったことがある。研究所は密室だ、換気は行っていても集団感染の恐れがあるからと地下にある部屋にて感染力が落ちるまで隔離される…たかが風邪だろうと、デルウハがそこに会いに来たことがあった。
「デルウハ殿、うつりますので」
「たかが風邪だ。早く治してもらわなきゃ困る」
「はは…すみません。デルウハ殿が来て、気が抜けてしまったのかも」
そう力無く笑う所長に、デルウハは防疫マスクを付けた状態で所長の頭を撫でたのだ。今も同じように、所の頭をデルウハは撫でる。
「デルウハ殿…」
所は控えめにそう呟くと、デルウハに近付いた。そのまま控えめに抱き着く。デルウハは所を抱き寄せた。熱の篭った口から吐息が漏れて、そこにはウイルスでも混ざっているのだろうか。クソ喰らえである。デルウハは目を閉じた。