むせ込むのは久しぶりだった。カワダは静かに、一人部屋でこんこんと咳をした。彼がいるのはとあるホテルの一室である。本来二人部屋の用途であったが、空きがあったので同室にいるはずのキングにはそちらに移ってもらうことにした。まさか油断をするにしてもここまで体の奥深くにウイルスが侵食するとは思わない。完全な油断だ。久しぶりの休日だからと人混みも厭わずに出掛けたのが良くなかったのか? 咳をしていたのは歌舞伎座の隣席? あるいは焼き肉店の同じフロアにいた誰か? せっかくの休日である。少々空気も喉も乾燥していたが、一晩で寝込むことになるとは誤算だった。どんなに肉体を鍛えていてもウイルスには敵わないものである。人類は未知のウイルスによって死ぬのだ。そんなSFじみた思考はコロナウイルスがはびこった世であれば誰もが思ったことである。これがエボラのようひどくな致死率の高い病であったのなら。たかが風邪であろうに、勝手に人類の行き先を憂いて、ああここで死ぬのかもしれないと弱気になる。自己判断は風邪だが、これが未知のウイルスであったのならどんなに迷惑がかかるだろう……。
 単純にそんな事を思う程、カワダの思考能力が落ちている。風邪である。自己判断ではなく、ホテルの専属ドクターにも診断を下してもらったのだが風邪である。旅行者に多いですね、異国の地で疲れてしまうと出ますね!と快活にマスクの下で笑った医者だが、カワダは残念ながら異国の地を踏んだわけではない。異郷ではあるが、ここは日本である。カワダは旅行者であるが国内を旅行している。問題は、来日したキングを案内していたのだが、カワダが風邪を踏んだということである。旅行者と見た医者はそう言ったが、違うのだ案内役なのだと言いたかったものの、そんな細かな事に執着している場合ではなくカワダは先にベッドに寝転んだ。ホテル側は体調を崩す人間には慣れているのだろう。空き部屋があるか調べて来るとキングが出て行ってから、早30分。心が折れるのが早すぎると自分でも思うが、頭も痛く鼻水や咳で正常に判断が出来ない。キングと離れるのは不安である。だがキングと共に在るのは不安である。自分が辛いからと言って、健康体であるキングまで道連れにするのは忍びないどころではない。来日して風邪でも持ち帰ってもらっては困る。しかし、頭が痛い。
 カワダはうーと唸りながらホテルのやわらかい枕を引き寄せて、頭の位置を調整した。実は数日前から体調がよろしくないのか、口内炎まで出来ている。正直に言えば踏んだり蹴ったりだが、それはキングの体調とは関係が無い。カワダの自己責任である。体調が悪くとも治せなかった責任はある。風邪にやられた責任は…ダメだ体調が悪いと言うのに、余計に自分を責めてしまう。うー。この年齢になるとなかなか治りが悪いな、とぼんやりと考えた。せっかくの来日は、カワダの体調不良によって潰れるのかもしれない。それが悔しい。だが仕方ないと目を閉じて、ひたすらに眠る事を選択した。風邪薬が効きにくいのか、いっこうに安眠はやって来ない。せめてキングの顔だけ見たいなと贅沢な願いを思いながら、重い体をなんとか起こすと水を飲むのだった。
 がちゃりと扉が開いたのは黒のマスクをしたキングだった。彼以外にこの扉をくぐる者はいない、ああ荷物を取りに来たのかなとカワダが汗で貼りついた白のマスク姿でなんとか微笑むと、彼は真っすぐにカワダに向かってきた。
 「え」
 「どうかしたか。睡眠は?」
 「いえ、咳がするので…まだ眠れていません」
 「そうか」
 そう言って汗が滲む耳の上あたりの髪を、指で撫でてくれた。だがカワダはすぐに枕に顔を埋める。
 「洒落になりませんから、早く退出を」
 「退出? ドクターの見解を聞いて来たんだが…それに君には看病が必要だろう」
 「いけません」
 ウイルスでくらくらしているとはいえ、カワダは寝たまま分かりやすく首を振った。キングがこの風邪っぴきの部屋にいるのは憚られる。カワダにとっては大変に憚られるのだ。ホテルが用意した加湿器がこぽぽぽ、と鳴った。
 「いけません。ダメです。早く空き部屋に移動してください」
 「もうスイートルームしかないそうだ」
 「でしたら、差額は出しますので移動願います。現金が必要でしたら私の財布から」
 「イサオ。君の看病は誰がする?」
 「己で出来ます」
 先程キングが恋しくなったのはどこ吹く風である。50年と付き合っている肉体だ、どの程度で死ぬか死なないかは分かっている。だがそれでも風邪はしんどいのが常だ。普段寝込まない健康体であるから、風邪では少々心がやられるのだ。
 「口内炎もあるんだろう」
 キングはそう言うが早いかパッチをカワダの鞄から取り出すと、そのうちの一枚を指に乗せた。うう、とカワダは何も言えないでいる。口内炎が出来てますね、と先程快活な医者が言ったのが恨めしい。数日経ってますね、なんてわざわざ言う必要は無かったのに彼は本当に快活に口を滑らせてくれたものだ。キングは口を開けるよう言う。だがカワダは首を振る。
 「嫌です。感染します」
 「感染しても免疫が上回れば問題ない」
 「そんな子供みたいな理屈を…」
 「子供に戻ってくれればいいんだ。君は。中華がゆくらいしか作れないそうだが、ルームサービスもある」
 子供に戻るのなら、アイスクリームでも食べたいと我儘が思わず喉まで上って来た。そうではない。まだカワダの矜持が我儘を押しとどめる。
 「…分かりました。パッチを貼ったら、貴方はスイートルームに移ってください」
 「それは断らせてくれ。いいだろう、看病旅行も」
 そう言うとキングはもう一度汗ではりついたカワダの髪を撫でつけた。一方のカワダはマスクの下で唇を噛む。こんなの甘える他ないではないか。情けなさと申し訳なさが混じり合うが、今は自分の体が辛いのだというほんの少しの我儘が、自己愛の上に覆い被さって、他社への愛と混ざり合った。
 「じゃあ、げほ、アイス食べたいです」
 「何味がいい」
 「味が分からないかもしれないから、バニラを」
 「分かった。頼んでおこう」
 ようやく看病を認めたのでキングの瞳がやさしいものになったのが分かった。そのまま責任に苛まれているカワダを、抱き寄せる。マスク越しではあるが手は素のままだ。頭を撫で、頬を撫で、肩をぽんぽんと優しく撫でてくると慣れた体温に包まれて、カワダはじわじわ涙が零れる。これが全て熱にうかされた夢であったらばいいのに。目が覚めたら一人で、キングに感染の恐れが無い状況であればいいのに。そう願うと同時に傍にいてもらえるありがたさで、全てが高熱の夢であったらばいいのにと願った。だが慣れた体温の中でカワダはうとうととし始める。ゆっくりと目を閉じてみた。現れた暗闇の中で、手の感触がある中で意識がふうっと遠のいていく。意識が消えゆく前にもう一度願う。これが夢であったらいいのにと、最後まで大人の矜持が邪魔するのは年齢故か。だがカワダは身体は幾分か正直で、キングの腕の中にて穏やかな眠りに就くのだった。
 
はーとありがとうございます!
                                                         
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