視界に入るのは、どこまでも続くかのようなねっとりと淀んだ静寂を孕む闇だけ。
もし私のこの姿を見る者があれば、私の背からは力なく垂れた白い翼が、それでも周囲の闇を押しのけて白く白く浮かび上がっているのがわかるだろう。
だが、今さらこの私の姿を見るものなど、誰もいはしない。
そのはずだった。
……ま。……んシさま。
幻聴だ。その声がここで聞こえるはずはない。
しかし感覚球との融合によって自由を失った私の体は、私の意思とは無関係に声の聞こえた方を向いた。
なにもない闇に慣れきった私の目がそこにいる者に焦点を合わせるのには時間がかかった。
しかし、そこにいる者が何者かはすぐに分かった。
「天導……」
顔を覆う奇妙な仮面。
重く垂れ下がった、巨大な白と黒の手。
偽翼の代わりに肩に止まった、同じく白と黒の鳥。
蒸気機関のようにせわしなく動く長帽子。
浮遊する両足。
そこには、かつて「ドクトル・アンゲリクス」の異名を取った、マルクト教団最高の科学者であった女性の面影はどこにもない。
にも関わらず、私はその怪人が天導天使であると確信した。
「コノような姿をあなたノ前に見せることになろうとハ……思っていませんデシタ。ソノつもりもありませんデシタ」
音程の崩れたその声も錆びた排水管から鳴る風音のようで、かつての天導天使の声とは似ても似つかない。しかし、私にはその声がはっきりと懐かしく感じられた。
「お前が私を裏切るとはな。思ってもみなかった」
「……」
「お前の裏切りで、あの男は再び創造維持神との融合を果たした。しかもあの男は神の力を手に入れながらも、正しい、歪みのない世界を望まなかった。誰もが大熱波前と同じ、満たされないまま、欠けて歪んだままの世界を望んだ。だから私も、お前もこうしている」
ふ、と息をつく。吐き出した吐息が馴染み深い闇の中に溶けて消えた。
「これで満足か?」
皮肉を乗せてそう言うと、天導天使はややあって答えた。
笑ってみせた。
その顔は仮面で完全に隠れているのに、私にはなぜか……天導天使が笑ったとわかった。
「ハイ、満足していマス。満足デス」
足音もなく浮遊した体が近づいてきた。およそもともとは人間のものだったとは思えない巨大な白と黒の手が、私の手に重ねられた。
――最後に誰かに触れられたのは、いつのことだったか。もう百万年も昔のことのように思われた。
「アナタの望みが叶わなくて、本当にヨカッタ」
声音から、天導天使が本気でそう言っているのがわかった。
それがわかって私は……私はそのときに自分がなにをしたのか、一瞬自分でもわからなかった。
今までずっとしていなかったことだったからだ。最後にそうしたのはいつのことだったか、そもそも私がそうしたことがあったのかすら、思い出せないことだったからだ。
「ふ……」
私は笑った。
皮肉でも嘲りでもない笑みだった。
「なあ、天導」
「ハイ?」
「せめて……ずっとここにいてくれないか?」
・あとがきパート
本作のリメイク元である「二天流離 上・下」は、まだコミケへの参加もしていなかったはるかいにしえの昔、実に20年以上前に書いた初のバロック長編二次創作でした。めまいがしてきます。
この作品はいずれ1本の作品としてまとめてリメイクしたいと思っていました。まあぶっちゃけ今回の夏コミで他のネタが思い浮かばなかったという身も蓋もない理由もありますが……。
さすがに20年以上前の作品のリメイクとなると、キャラや設定の解釈が大きく変わった部分も多くあり、かなりの量を書き直して全体の文字数が大きく膨れ上がってしまいました。ですが、ラストは変わってないあたりにこの上級×天導のバロックの強固さを感じます。
当初は過去作のリメイクは後ろ向きであんまりよくないといった気持ちもありましたが、いざやってみると自分のバロックの変化が読み取れて面白かったですね。
バロック二次創作もずいぶん長いことやってきてますが、これからは過去のバロックの読み直しというアプローチをしてみるのもいいかも知れません。ネタ切れとか言うな。むしろネタ切れになるまで続けてた自分にカンパイ。
そして気づけばもう2024年。本番まであとたった9年ですよ。
本番に備えてみんな元気に歪んでいきましょう。あとバロック島増えろ増えろ。