「我々のことは、もうすでにご存知ですよね」
 青年の柔和な笑顔は、とても怪しげな宗教組織の構成員のそれとは思えないもので、私はすぐには返事を返せなかった。
 海風を受けて揺れる青年の翼は明らかにフェイクのはずが、今にも本当に羽ばたいていきそうだ……私はそんな思いに囚われた。
「ここは風が強すぎます。さ、中へどうぞ」
 青年に促されるまま、私は車の後部座席に腰を下ろした。青年がドアを閉めると、風の音が遠くなる。なぜだか、この車の中は私が今まで暮らしていた世界とはまったく切り離された別の世界である――そんな気がした。
 青年が私の隣に座ると、車は発進した。特別地区のサーチライトが少しずつ近づいていく中、黙り込んでいる私に青年が先ほどと同じ落ち着いた声で話しかけてきた。
「我々マルクト教団は、他の宗教団体のような表立っての勧誘や宣伝活動は行っていません。教団員はすべて、我々が設けた一定の基準やある種の才能をクリアしているとみなされた人物に、個別にスカウトを行っています」
「……それが、あのメールの正体というわけですか」
 青年は微笑んで頷いた。得体のしれない宗教団体にスカウトされて、無防備にもひとりで車に乗ってしまったにも関わらず、その青年の笑みは相対するものの心を安心させる力があるように思えた。
 私は思い切って、ついに突き止められなかった謎について聞いてみることにした。
「あのメール、いったいどうやってケテル製薬の内部アドレスに? 一般人のそれならともかく、企業内のメールシステムに侵入するなんて、並のハッキング技術では……」
「ハッキングはしていませんよ。あのメールはケテル製薬のメールシステムを使って送付されたものです。もちろん送付元の隠蔽処理はしていましたが」
「……は?」
 青年はなんでもないように答えた。私は思わず声を失う。青年はそのまま、同じようになんでもない口調で続けた。
「ケテル製薬はマルクト教団の財源の一つであり、同時に我々の抱える実験場のひとつでもある。そうした場所は全国各地にさまざまな形で存在していて、我々はそこから才能のある人材を探しているのです。もちろん、表向きは大手とはいえ一般的な製薬企業ということになっていますけどね」
「……」
 今度こそ私は言葉を失った。明らかにシークレットの内容を、青年は世間話でもするような口調で話している。あるいは……これくらいのことは我々にとっては秘密でもなんでもない、とでも言うかのように。
 しばらくの沈黙のあと、今度は私から口を開いた。
「……その、私はあなたがたのお眼鏡にかなったと、そういうことなんですか?」
「ええ。そうだな……書類審査は通過といったところでしょうか。次は面接かな」
 面接。一体誰と? 教団の長か?
 再び黙り込んだ私に、青年が続ける。
「最終的にはあなたが決めることですけど、個人的にはあなたみたいな優秀な人が来てくれると嬉しいな。あなたにとっても、国内どころか世界的に見ても最高レベルの研究機材が揃った場所で働けるというのは、大きなメリットだと思いますよ」
「……」
 実際、私は……科学者としての私は、もっと環境の充実した場所に行けるのならそちらを選びたいとは感じている。青年の言葉が悪魔の誘惑だとは感じなかった。
 研究というものは個人で完結するものではない。環境や組織が充実していてこそ、研究はより高いレベルを目指すことができる。取得できるデータ量が増えるだけでも研究の充実度は段違いに変わってくることを、私は事実として知っていた。
「それに、我々マルクト教団に所属すれば、よりこの世界を深く知ることができます。この世界の、歪みについて」
 青年はそこで私の方に顔を向けた。窓の外で流れていく橋に沿って配置された警告灯の光が、一瞬彼の顔を得体のしれない仮面のように映し出す。
「そして、バロックについて」
「……!」
 その瞬間、社会にすでに蔓延し幾度も触れてきたその言葉が、初めて現実のものとして私の前に立ち上がった。そういう感覚があった。
 社会に浸透して、すっかりただの流行語として口にされるようになってきた「バロック」という言葉が、初めてといっていいくらい危急性を帯びた言葉として感じられた。青年の声音から、私はそう感じた。
「……あ」
 言葉にならない中途半端な声が、私の喉から絞り出された。その声が言葉になるまで、青年は何も言わずじっと私の顔に視線を据えたまま沈黙を保っていた。
「あなたたちは……いったい、いったい、なにを目的としているの……?」
 その質問に、青年はわずかに笑みを深くして答えた。
「この世界を正常な姿に保つことです。我々には、その手段がある。その手段が、あそこにあるんです」
 青年が指差すフロントガラスの向こうを見る。車はすでに橋の終わり、つまり特別地区に到着しようとしていた。見上げるような高層ビルの森の中に、場違いなほどの存在感を持ってそれ(・・)はあった。
 見慣れた高層ビルの上にいびつなヤドリギのように設置されているのは、得体のしれない巨大なタンクのようないくつかの球体。そこからは根のように大小のパイプが伸びており、下にあるビルの各所につながっている。今まで見てきたどんな建造物とも異なるその威容に、私は言葉を失っていた。
「あれが我々マルクト教団の本拠地、『神経塔』。そして――」
 来たときと同じように、車は音もなく止まった。先に車から降りた青年に手を取られて、私も車から降りる。その足が震えているのが、どこか他人事のようだった。
「我らが神のおわす場所です」
 そうして私は、神の領域に、天国へと続く階段に足をかけた。その先がどこにつながっているかも知らずに。
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